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映画考察|キャストアウェイ ~主人公の心理考察~


鳥: 主演/トム・ハンクス(チャック・ノーランド役) 監督/ロバート・ゼメキス

―― あらすじ ――

 主人公は運搬会社に勤める、仕事のできるエリート。その主人公が会社の航空機に乗っていたとき、その航空機が墜落。そして主人公は無人島に漂着する。生きるために戸惑いながらも孤独な無人島生活を始める主人公……。


―― 分析 ――

・漂着直後:
 漂着後、主人公(チャック)はまず自分の置かれた状況を考える。そして何をするべきかを考えた上で、まず現状の把握を優先すべきと考えた……。根拠としての行動は、チャックが島を探索し、歩き回るという行動である(ここまでは当然の思考順路である)。

 次に主人公は漂着したもの(運搬会社の航空機が墜落したので、様々なものがこの島に流れ着く。また、海流もこの島に強烈に流れ込んでいる。また、このことは物語の終盤に障害となる)を集め、何に使えるかを考えだした。
 この行動は自分の立場を良く考えた上で、今は生きることを考えるのが第一と考えたためと思われる(直感的な行動だとしても、これまで説明したプロセスをたどったと考えるのが自然ではないかと思われる)。

 そして、その後主人公は火のつけ方などの生きるために必要な行動を試行錯誤しながら生活を始める。しかし、重なっていく孤独な日々は彼の精神に不安感を蓄積していた……。

・ターニングポイント:
 雨の日の夜。船が近場を通る。
 悪天候のために合図ののろしもあげられず、声も届かない。必死のアピールも虚しく、船は通り過ぎてしまった。この一件の後、主人公の精神状態は明確に悪化していく。奇声を発したり、暴れたりと情緒の混乱が見て取れた。

 チャックはふと、単に体力を消耗していくだけである自分の挙動の虚しさに気づき、彼の心は一層の不安感と絶望感でつつまれた。孤独もまた、彼の精神を蝕んでいる。

 ある日、火のおこし方がいまだわからない彼の苛立ちは頂点に達し、暴れた。
 そして以前に漂着していたバレーボールを激しく投げつけた。このとき、チャックの眼にはボールについた手形が偶然、人の顔に見えた。それは確かにボールでしかないのだが、混乱していたチャックにとって、それは久方に見る「人」として映ていたのだろう。

 その後彼はそのボールに名前をつけ、唯一の話し相手として大切にしていく。
 ときに笑いあい、ときにののしりあい、ときになぐさめられる……。
 まさにそのボールは彼の親友となったのである。


・チャックはボールに何を見るのか:
 映画を見ている人にはボールの声は聞こえない。しかし、追い詰められた彼にはその声が聞こえているように描かれる。なぜ彼はこのボールと会話するのだろうか?

 彼はボールを完全に人と思い込んでいるわけではない。
 劇中、脱出計画に怖気ついたかれはこのボールに諭される……が、そのことが気に触れ、チャックはボールを投げ捨てた。このとき「ボールのくせに」という言葉を発する。この発言はボールを「たかがボール」と認めているからに他ならない。

 「ボール」と解かっていて、なぜ会話するのだろうか?
 それはおそらく、彼にとってこのボールは自分の本心・良心といったもので、それらの偶像として映っているからだと思われる。
 根拠として、彼はこのボールに諭されることは多々あっても、彼がボールを諭したりなぐさめることはない。

 人間、誰しも経験があるはずだ。例えば明日に大事な試験があるとき、サボって漫画を読んでいたりするとふと、「早く勉強しないと」という考えが浮かんでくる。それは比較的無意識に現れるものだ。
 この無意識の考えの発生原因は、何か負い目を感じるときにそれから目を背けるという逃げの考えを抑制するある種のリミッターのようなものと考えられる。人は誰しも本能や慢心という「本能」を内包しており、それに身をゆだねる可能性を常時もつ。
 これらの意思に何の抑制もなければ、今の人間社会は成り立たない。また、それを野生的ととらえても良い。
 町を歩いているときに何の抑制もまったくなければおそらく男性は皆がむしゃらに女性に飛びつき、人々は皆食物を食い荒らすだろう。


 ボールが話し相手として機能する……これは孤独を緩和するのに有効である。
 現代社会で問題となっている引きこもりなども、ネット間での会話をよく活用している。人は誰かと話したがる、それは大切なことでもある。つまりは彼のボールとの交流は『孤独からの脱却』と、『本心との対話』を自覚するための対話役(第三者)をボールに見出したからなのであろう。

○ まとめ
 人が追い詰められ、孤独になると人は恐怖を感じ、何か頼るものを探す。
 基本的に人は孤独に耐えることはむずかしく、また正常な精神でいることなどほぼできないであろうと考えられる。

 孤独となった人は「人間ではない」……それどころか「生物ではない」存在にすら『交流』を試みるようになる。

 この原理は絵や文字にすら適用されるであろう。
 非生物への依存度は、そのまま「孤独」と「本心」からの距離を意味している――のかもしれない。

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