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移りゆく願望


鳥:英雄譚に出てくる歴戦の勇者は、言うまでも無く稀有な存在だ。よって、空想の彼らに付随する物語もまた、奇なることであり、だからこそ人は引きつけられる。
 大衆の興味を得るということは、多数決によって人が「勇者が勝つような世界」を望んでいることを意味している。


1:攻撃性と平和願望の矛盾

 DV(ドメスティック・バイオレンス)は「家庭」の中で振るわれる「暴力」。これは現代に見る取り残された過去の「公共性」ではないだろうか。

 古代ギリシャ。そこに住む市民は豊かで、時間と富をもてあます日々を送っていた。人々はその暮らしの中で大いに自由と平等を実感していた事であろう。だが、それはあくまで「市民」の話。そこには彼らの暮らしを支える「奴隷」の存在があった。
 「奴隷」に自由も平等も無い。ただひたすら、市民のために死ぬまで働き続けるだけである。市民が大して働かなくても豊かな日々を送れるのは他人の人生を搾取していたからである。なるほど、分不相応な富は他人から得なければありえない。
 奴隷は町に自然発生するわけではない。奴隷は闘争によって勝ち取る戦利品だ。古代ギリシャ社会の自由と平等は一応納得のいく「勝利」という過程によって成り立っていた。
 人々は知っている。他人を踏み従えなければ自分は富まない事を。だから、古代ギリシャ人は戦い、勝ったのだ。もし彼らがそれをしなかったら、他の国がそれをしていただろう。

 現代社会は争いによって相手を淘汰し、搾取する「争い」を毛嫌いする。しかし、実際には生きている限りそれの連続であり、事実成功者はみな「争い」に勝ってきた。社会的に「戦争は良くない」などといっても、どうしてもやる。なぜなら「争い」がなければ「勝者」も「敗者」も生まれないからだ。そしてそれが生まれないということは「分不相応な程の富」が生じない。
 人間は不思議で、こと平和が第一だと、争いはNOだと叫びながら高級車を望み、レストランで外食をする。
 解らないはずは無い。解っているはずだ。それら通常に考えて自分たちの労力を上回る贅沢がなぜできるのかということ。しかし、それでも人は「平和!平等!」と叫ぶ。なぜか。


2:平和に対して感じる違和感

 以前、父子の平和な日常を描いたあるほのぼの漫画を読んでとても和んだ時があった。個人的にとても気に入ったのだが、その翌日にある友人が別の友人と話しているところを聞いた。
「あの漫画、見てるとなんかムカつくんだよね~」
 え? と思った。実際、それを聞いている友人の反応も「そうか?」という感じだった。
 その漫画は自分の友人達に受けがよく、批判など聞いたこともなかったから驚いた。一体あの漫画のどこに「ムカつく」要素があるのだろう……と。
 今になって、その批判していた友人の気持ちも理解できる。その漫画はほのぼのしていて穏やかなのだが、おそらくほのぼのしすぎている。現実に見たこともないような良好なご近所関係や、親子の楽しげな会話があまりにもできすぎている。
 漫画に「できすぎている」もくそもないのだが、空想の話だからといって捨て置けないこともある。それが受けているということは、それが社会に適応しているということだ。つまり、社会の風潮、理想、願望に合致している割合が高い作品だということである。流行を分析すると時たまおもしろいことに気づくが、これもその一つだろう。


3:嫉妬ではない、否定的感情

 不謹慎ながら、DVをする夫の気持ちは私にも多少理解できる。
「愛してほしい」「いっしょにいたい」「嫌いにならないでほしい」「唯一絶対の存在にしたい」「唯一絶対の存在であると思ってほしい」「決して壊れる事の無い幸せ」
 古代ギリシャとちがって対象が単一だが、だからこそ強引にでも縛り付けようとする。
 古代ギリシャなら適度に見せしめの罰を与えて逆らう気を削ぐ。自分が上だと常に誇示する。これと同じ。複雑になるのは「夫婦」という一種の恋愛要素が混じるからで、これを取り除けばなんてことは無い。
 つまり、DV夫はその「家庭」という国の「王」になりたいのであろう。「王」であるには「下の者」が必須である。だからDVは起こりえる。また、その逆に妻が暴力を振るう場合も同じ(子供の家庭内暴力はまた違う要因であることが多い)。

 人間の本質は「DVをする人」の心理にあると思う。だれだって「王様」になりたい。性悪説を振りかざすつもりは無いが、だからこそ「ほのぼの漫画」に対する違和感や反感が生ずるのだろう。


4:まとめ

 現代社会は国の「小型化」が進んでいる。つまり、一国の価値より「家庭」というミニチュアな枠。または「特定の友人関係」といった限定的な枠組みが重要視されつつある。これは社会を構成する単位が次第に縮んでいるということだ。まるで物質が原子にまで細分化されるかのようである。
 やがて「家庭」という枠すら無視され、「個人」という枠、最小国家のみが重要となる社会が来るかもしれない。 というか、すでに来ている。



参考文献
 「世界が笑う日本の常識」
 発行人:渡邊 元
 編集人:岸田 哲也
 発行所:株式会社 アクタスソリューション
 2007年3月27日 初版第一刷発行

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