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贈与経済から見てしまった通貨の価値



鳥:「貨幣」など、いわゆる通貨の類は物と交換される事でしかその意味を成せない。

 持っていることで力を誇示したり、安心感を得ることはできるがそれは物としての「価値」とは呼べない。価値(効果)を生み出すきっかけ、トリガーとしての存在である。
 「贈与」の経済においてこの通貨は意味を持たないであろう。それだけしかない世界と仮定した上で、それが役に立たないものであれば贈与される役割を成せない。贈与による交換を考えた場合、一層物それ自体がもつ価値が重要になってくる。
 物の存在価値として食べるなどの実質的価値はもっとも明確で如何なる時も優先されるべき価値である。だが、時には信仰の意味での存在価値も重要視され、それは集団の規律を生み出す為に利用されたりする。先程述べた通貨も、ここでそういった特殊な意味があれば贈与の対象として成り立つ。
 贈与経済とはつまり物の実質的価値を尊重した超現実主義経済とも捉えられる。
 経済の最初は贈与経済だったはず。少なくとも、意味合い的にも人と人が物を介して交流する文化のスタートは贈与だった。そういった意味でも贈与経済から探りを入れると物の「価値」とは何かが見えてくる気がしないでもない。

 物を一方的に贈与する場合、それは「見返りがある」か「見返りが無い」か。結果はこの2通り存在する。だが、それは結果を見ただけの場合であって、プロセスでは「見返りがある」の場合しか存在しない。
 例えばボランティア活動にしろ、慈善事業にしろ。いずれも一見して見返りは無いように思えるが、それによって「誰かが助かる」ことを目的としている場合にはそれが見返りとなる。
 対象をとらない贈与の場合。例えば大金をスーツケースに詰め込み、高層ビルの屋上から金をばら撒く行為(この場合、当人が贈与だと思えば贈与。むしろ受け取った人が「天の恵みだ」などと騒いでいる時点で贈与行為であると言いきれる)はいよいよもって見返りが存在しないように思われる。だが、これもそれによる充実感もしくは喪失感が見返りとして考えられる。見返りはなにも「+」の結果とは限らない。それを望むのであればそれは見返りとして十分にありえる。
 イヌイットの文化に、客人に妻を貸すというものがある。要は妻に夜のお仕事をしてもらうわけだが、これはただの奉仕として行われている習慣ではない。妻を借りたものはそれ以降、その家の主と兄弟のように助け合う関係となる。これは自分の最も大切な存在を貸すことでその後の協力関係を確保するということ。これはおそらく生物の最も根本的な性質を利用した贈与行為の一種と思われる。ここでは女性を客人に貸すというはたから見ると人道に背く行為を行っているが、これは妻を最も大切なものだと認めているからこそ成り立つ習慣と言える。それでも先進国人には理解しがたいが。
 偶然の結果からの一方的な物流によって見返りの無い事態はありえるが、それはそもそも贈与では無いのでここでは関係ない。結果的に当人が「贈与にしとこう」に相当することを考えても関係はない。
 ここまでで言いたかった事は一方的な贈与とはいえそれには必ず見返りが存在するということだ。また、それこそが経済の基盤ともいえる。

 集団の規律を守る場合、集団への影響はその構成員への見返りになりえる。ニューギニアのクラの制度はそれであった。
 発展歴史を見ればどこの国もやはり基本は「物の価値」そのものを見るところがある。裏返せば、近代的なシステムが確立されていない地域ほど贈与の仕組みが成り立ちやすいということである。というより成り立たせざるを得ない。

 現在の日本は資本主義国家で、その囲いの中を通貨は駆け巡っている。だが、そもそもその通貨はなぜ生まれたのであろうか。それは「秤」の役割の為である。それが一体、どれほどの価値を持つものなのかを互いに明確に示しあい、公平に取引を行う為に生まれた。
 物の価値を判断する事が通貨の存在理由。だとするのならば流通の中でしかそれは存在し得ないと言う事になる。人は頭が良い。普段は何の意味も無い通貨も、それが「交換」の際に役立つ事を予測できるからこそ通貨は常に価値を持っているように錯覚される。人は利口だからこそ通貨の価値を誤ってしまう。
 この世に通貨だけが存在していても何の意味も無い。だが、現実には通貨以外のものがある。この世に通貨以外の物が存在していなければ、通貨など存在しない。ここでいう通貨以外の存在とは大げさにも全てのものではなく、単にその人が使用するかどうかの存在である。


 人は勘違いの末に今の社会を築いた。「資本主義」は勘違いの産物である。もともとは存在の意味の無いものを「あらゆることに意味を持つもの」として錯覚してしまった。一人の錯覚は狂気として片付けられるが、一人以外の錯覚は常識として君臨できうる。
 近代文化と無縁の人々も、近代文明に放り込まれればやがて常識に染まってしまうだろう。事実、イヌイットの風習は廃れつつある。人道的な価値観の乱入もあるのだろうが、それ以上に「贈与」の必要性の風化がある。つきつめれば贈与は全て経済なのだから、通貨も贈与の対象として認められる。だが、人々が薄っすらと常々感じている「通貨」の価値のあやふやさ、透明感は永劫拭えない。

 物の価値はまず「価値」の定義をどこに置くかで変わってくるが、少なくとも人々が最初に見つけた「価値」が何であったのかは変わらない。
 通貨への不信感はあたりまえのことである。

 なぜなら、通貨は本来意味を持たないのだから。

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