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~一夜の慕情~

 Section1[怠惰]/  Section2[傷心]/  Section3[欲望]/  Section4[律儀]/  SectionE[旅路]/   その男は弱々しく、子犬のような性分ながら、大した志を内包している―――  特別、優れた取り柄が考え付かない。  深く洞察せずとも、一言挨拶を交わすだけで欠点を並べ立てられるだろう。  また、長く関わるほどに、不満を募らせる人に違いない。  完全無欠、描いた利口さに合致する人間など「そうそうおるまい」と解ってはいても、クリアしてほしい最低ラインというものは誰しも設けている。  そこにもって、大概の人のラインを越えられない人ならば、それは大半の人間にとっての「都合の悪い人」ないし、「興味の必要を感じさせない人」となる――――― |WORLD―CAUTH| SECTION_1 「小村 政彦」 ACT/1  ――西暦20XX年。世界は至って平穏無事に、地球は依然として若干の楕円のままに宙をクルクルだだ回っている。  しかし、しかし。直前では世界を「惑星一個」として表現したが、目線を変えて「人間社会」を“世界”の単語で補ってみる。すると呆気なく平穏は霧散し、暗くて鬱屈な『破滅』の様子が見えてくるのが現状だ。長年西暦に続けてきた既存のシステムでは無理が生じたらしい。  もはや「国」は小さい。その集合、連合でも足りない。理論理屈が正しくとも、何故かどうしてか、「価値あるもの」が足りなくなってしまう。  残念なことに、過去、人が作りだした安易な解決策がこれを呼び起こした。  「COIN」は実に便利で不気味な概念である。  「COIN」はあらゆる物の代価になり、その保障は決定的には存在しない。  誰がその価値を決めるのか? 何をもって程度が定まるのか?  小さな約束にも保障を求める割には、存外と気にしないものである。本来なら「COIN」の1枚1枚に保障を得るべきではないか。保障は、自らの手元にあって初めて効力を発揮するだろう。それが誰の手にあるかも知らないとは、なんて脆い仕組みであろうか……。 「いや、ホント、金なんてマジで胡散臭いからさ。いらないから、ホント。あんなん求めてるのは資本主義のドレイだから。その辺、俺はきっちりプライド持って生きてるからね。本当の意味で勝ち組だから。大事なのは“志”だからね、フフッ……」  地方都市の端くれ、人の通りが少なくなった隙に、ぼそぼそと男がほくそ笑んでいる。それが自慢なのか負け惜しみなのかヤケクソなのかは本人に任せよう。  ごく普通の黒髪に、ごく質素な服装。面構えは死んでも生きてるでもなく、並。顔面の偏差値は公立大学を目指せなくもないような数値に等しい。  ただ、街によくある「むしゃくしゃしている若人」の表情。頭髪はこの時間にあって、一仕事終えたように埃っぽい。  小村 政彦――それが、この腐りきれず達しきれず、実に平凡な若者を表す言葉である。  午前10時の駅。バス停には学生の群れがいなくなり、徐々に老人の割合が増してきた。  通路を挟んだ先の喫煙所には常に5~6名が溜まっている。数年前にはこんな隔離施設は存在せず、『パチンコ屋』の開店を待つ人の数はこんなものではなかった……。  時代はやりにくいものになった。広告の撃ち方にも規制がかかり、営業時間にも枷が設けられる。客の質は向上したが、彼らの情熱はすっかり薄れてしまった感がある。  ギャンブルから熱を取ったら何が残るのだろうか。 きっと、燃えカスだろう。  小村はバス停のベンチからパチ屋のポスター群を眺めている。彼自身、パチンコ狂というわけではない。また、かつてハマっていたわけでもない。それでも感慨深く眺めているのは、自分がかつて、そこを職場としていたからである。  誤解のないように言えば。小村は金を払って「乗るか/反るか」で稼いだのではなく、灰皿の交換や台の入れ替え、フロアの清掃からクレームの対応などをこなして、定められた時給を得る仕事をしていた。  丁度、3年前の今日まで……小村はホールスタッフを務めていた。  「何がどうして、何の理屈で成り立っているか」を理解してしまうと、とてもではないが打つ気になれない。しかし、小村は本来博打好きな若者で、打たないのはつまり、主義に合わないからである。  厳しさと理不尽さを兼ね備えた職場だったが、稼ぎは悪くない。入れ替わりの激しい現場で持ち前の図太さで生き抜いてきた小村。ただ、仕事は好きじゃなかった。できることなら、金さえ十分なら働きたいなどと微塵も思っちゃいなかった。  小村は玉入れこそしないが、「馬の競争」にはよく投資していた。  彼の言い分としては『馬は機械で制御できない。それはつまり、元締め側にも完全な制御ができない“勝負”ということだ。真剣勝負になら、命の欠片である金だって預けられる』ということである。  これが正論か妄言かは人によるだろう。何にせよ、転機はこの勝負から突然に転がり込んできた。(小村が)忘れもしない、40ヶ月前の12日……。  N競馬場で開催された第7レース。  計画も何もあったわけではない。堅いレースだと信じた―――。  運命の日。小村は携帯からいつもの要領で馬券を購入した。  世の中便利になった。金はネットに何故か変換・蓄積され、情報もネットに乱れ飛んでいる。まったくもって楽なものだ……と、小村は文明の進歩に感心していた。ただし、どれほどネットに情報が集まっていても、A社の競馬新聞だけは欠かさず買っていた。  見覚えのある馬名が表記されていた。小村が以前から目を付けており、地方競馬の勇となるまでのプロセスを知る馬だ。「こいつだ、こいつに賭けるのはここだ!」と、小村の勝負勘は刻(とき)を告げていた。  単勝、10万を突っ込んだ。なけなしの銭ではない。外れても貯蓄はある。  小村は「ここぞ!」と、直感で踏み込む性質で。定期的に踏み込まないとガスが溜まってしまう心の病も患っている。  収支を総合した上で赤黒の判別を付ける術はないが、定期的なガス抜きが勝ちをもぎとった経験は皆無ではない。どの道、他に金の使い道が無いのも理由か。年に1度の大勝負は小村のライフワークになりつつあった。  馬券を買うことになど慣れっこだが、予想についての予断は無い。競馬狂としての小村に隙があるとすれば、せいぜい「予想することで達成感を得てしまう」ことだろう……。  勝負をかける日は仕事の無い日と決めていた小村だが、後輩が逃走したため、やむなく職場に出向く羽目にあっていた。  また、日の悪いことに。この日は常連のクレーマー客が居座っており、顔を知っている小村は頻繁にからまれた。  10万も賭けたレースなら、勤務中も気になってしまうものだろう。しかし、それすら忘れるほど、クレーマーの八つ当たりは酷かった。  避けていても、まるでスナイパーライフルの弾丸のごとく、通路の先っちょに見える小村の影に声を張り上げ、呼びつける。呼び出しボタンはもちろん連打済みだ。 「はい、いかがいたしましたか?」 「……コム君(小村)、出ないよ、今日」 「申し訳御座いません。出る、出ないは勝負の運に限ることでして……」 「違うよ。コム君、出ないようにしてるでしょ」 「――お客様。今申したように、出る、出ないは勝負の……」 「今日、俺の誕生日なんだ」 「・・・ハイ?」 「誕生日にこうして出向いてんだから、出ないのはおかしいだろ」 「・・・・・・ハ??」 「どれなら、出るの?」 「どれ、と申されましても、上の表記を参考になさる他、ありませんが……」 「それ、いいからさ。俺、誕生日だから。考えたら解るだろ」 「え、と――申し訳御座いませんが……」 「早くしろって! ほら、吸われてる、吸われてる! コム君のせいで俺の球吸われてる!」  支離滅裂にして理不尽極まったクレームのような不条理。  小村はいい加減ブチ切れそうになっていたが、ひたすら低姿勢にお怒りを受け止め、真摯な振る舞いでトラブルを回避した。  小休止にスタッフルームで一服入れる。7連勤の疲れか、小村はいつもよりも物憂げな様子で煙を吸っていた。やつれた様子の小村を見て、店長は「まぁ、よく我慢したよ」と、軽く労った。 「八つ当たりに耐えるのが業務ですから」  小村は投げやりな返答で済ませた。  ふと、そういえばそろそろ例の“10万を注いだレース”が出走に至ることに気が達し、急いで携帯を取り出す。取り出したからといって地方のレース中継を見られる訳ではないが、勝負の前には自分の手の内を再確認したくなるものなのだろう。  男が勝負に出るのなら、すっきりと解りやすい“単勝”で決まり。  ガッチリ手堅く、地方の星、『ペガサスマスター』には儲けさせてもらうつもりだ。僅か数分の緊張感で22万の収入は財布に、人生に心強い。  自分の賭けを携帯の小さな画面に見て、小村は力強く、しかし小さな声で読み上げた。 「N競馬場――7レース……“グレートウィンド”――頼んだぜ」  気が付けばもう、馬が走り始める頃である。 既に賭けの取引は終了された。同時に、小村は硬直していた。 (・・・グレートウィンド? 聞いたことない馬だなぁ……速いのかなぁ……)  見覚えの無い馬の名前に、馬好きの血が騒ぐ――まぁ、騒ぐとは言っても「興味がある」程度のことで。当初、自分に無関係なその馬に対する小村の心情は大きく高揚してはいなかった。  身体は微動だにしていないが、小村の脳内時間は極限にまで圧縮され、一瞬の考察が数十秒の思案に匹敵した――それは複数の情報を同時に処理する必要が生じ、つまりは脳が混乱しているからに他ならない。  馬好きの彼が知らない馬など、世の中にはたくさん存在する。全ての馬が競走馬として一線の走りを魅せるわけがない。中には、いや、ほとんどの競走馬は地方のレースに細々と参加し、かませ犬のように一握りの英馬たちの影で短い生命を終えていくのである。  そんな、多くの駄馬の一頭。平凡の中で下層、一流どころかB級・C級の活躍もこなせないようなカス。  ……酷い言い方をしてしまったが、ともかく。  “小村が10万をたくした『グレートウィンド』”は、そのような評価が下されてもしかたがないような落伍馬である――― 「んn!? ッ、……ぐ、グレェトウィンドぉ、、、だってェぇぇぇ!!???」  普段大人しい小村が声を張り上げて立ち上がったことに驚き、店長は「ど、どした??」と覗き込むように様子をうかがっている。  周囲にどう思われるとか、そんな発想は今の小村に無い。  脳内の血管という血管が全て膨張、脈々と血液が駆け巡り、シナプスは過剰な情報伝達を繰り返し、脳漿も弾けんとばかりに頭蓋骨の軋みを感じる。  両手に強く携帯を掴み、見開いて凝視した小さな画面は、鳴動するように不自然な動揺を見せていた。 (聞いたことない、見たこともないよ! こんな馬!  ―――いや、違う、そうじゃなくて、そうじゃなくて!  なんで? なんでこんな知らん馬が俺の賭けになってんだ??  “ペガサスマスター”だろ! “ペガサスマスター”でイったはずだ!!  N競馬場 7Rはペガマスだろうがっっ!!!)  小村は動揺した。何度も画面をBackし、改めて自分の勝負札を確認する画面を開いた。  ――が、何度繰り返しても画面は変わらず、変動せず。  何がいけないのか、何を間違ったのか、何一つ理解できない。その状態で、小村はただ、『10万』という数字が脳裏に砕け散る幻想を抱いて絶望した。 (違う、こ、こんなはずがない! JRAのミスだ、俺じゃない、手違いだ!)  どうにか安心を得ようと小村は「セーフである場合=掛け金が戻る場合」を必死に想定し始める。藁にもすがる、蜘蛛糸にもしがみつく想いで…… (あ、そうかぁ! エラーだな? これだからネットってヤツは! システムのエラーなら仕方がない。申し出れば大丈夫だ!!)  などと、自分の打ち立てた仮想を現実と履き違え、意味不明な自己擁護に辿り着くに至っていた。一つの悟りと言っても過言ではないだろう。  ――同時刻。N競馬場ではすでに第7レースの決着が付いており、その場内は無数の歓声と数多の怒号が入り混じった、阿鼻叫喚・驚天動地の様を呈していた。  経済的に壊滅的な被害ではないが、「壱万円札10枚を便所に流した」などと思えば人の膝は揺らぎ、めまいだって堪えられない。 「お、おいィ……どした? お前でもあの客は腹に据えかねたのかい?」  抜け殻のように力無く椅子に座り込んだ小村を店長が気遣う。  しかし、小村は割と律儀な男である。何度か肩を揺すられると、「スク」と立ち上がり、茫然自失ながらも職場へと戻って行った。  結局、この日の小村は勤務終了の時間まで半死人のようにホールを彷徨い、例のクレーマーですら「おい、コム君、何かあったかい?」と不安がるほど不自然だった。  店長は「明日、来れるのかい?」との問いに「……へぃ」と無気力に答えた小村の様を確認して、翌日のシフトを見直す必要に迫られた―――― が。この日、店長の手配した小村のリザーバーは無駄となる。  翌日の開店前、朝の日差しが眩しく差し込むホールには、生まれ変わったかのようにツヤツヤと顔色の良い小村の姿が存在した。  昨日の希薄な生命感が嘘のように“ハツラツ”とした立ち振る舞いは、それこそ淀んだ賭場の空気に場違いなほど、浮いた存在感を発揮していた。  N競馬場、第7レース。一着にゴールへと飛び込んだのは“まさか”の馬影。  それは、単勝オッズ「35.2」という数値が示した通り、誰もが認知すらしていなかった駄馬の中の駄馬、『グレートウィンド』が魅せた競走馬生涯唯一にして最大の輝きだった――。 ACT/2  350万超―― 350万円超 である。これが一晩にして小村の懐に収まった。  小村としては計算外でしかないが、良いアクシデントは奇跡という名で人間に歓迎される。そして巨大な奇跡は人間の記憶に残り、強い印象をもって「小村 政彦」という人格に影響を与えた。  小村は慎重な主軸に律儀な一面をミックスしたような人格を持っている。ところがどっこい、その根本には「嫌なことは嫌だ」と割り切るダメな方面での「潔さ」が眠っていた。  人生の中で小さな失敗や不運を経験し、それらを回避するために「慎重」「律儀」という工夫を駆使していたに過ぎない。  奇跡の日から3ヶ月、小村はパチンコ屋のスタッフを続けていたが、自分の蓄えを確認するうちに (贅沢はこの蓄えで補える。生活費を稼ぐだけならもっと短時間の仕事でいいな。丁寧に、欲張らなければ馬で若干のプラスが出るだろう。多少の赤はこれで補えるし、元手があればいくらかのミスも取り戻せるに違いない)  ――という結論に至った。  思い立ったが吉日。小村は店長に「今までありがとうございました」と申し出て、慣れた職場を後にした。  そこから1か月は「自分の人生を考える時間」としてふらふらし、その後適当な軽作業の製造アルバイトに落ち着いた。  小村の理論は机上では正しいものだった。『机上』というのは、作戦を練る軍師の脳内もしくは、戦略を論じる武将たちの議論等がそれに該当する。  総じて言えることは、どちらも“仮想の世界”ということであろう。  歴史に残るような智将や計略への評価とは。素晴らしい作戦の練り方や議論の内容ではなく、土台である“机上=仮想の世界”から可能な限り独善的な利己・希望願望を廃し、事実の設定に至極近接した状態を作り出すことができた証である。  『小村理論』の場合、その戦略の是非はちょっと解らない。ただし、土台が酷くファンタジーであったことは確かな事であろう。  まず、「馬」でプラスが出ない。350万儲けたとは言っても、これまでの「競馬人、小村」の生を振り返って総合すれば大したプラスになっていない。額だけは悪くないパチ屋の収入の多くが断続的に競馬場へと吸収されていた事実。  勝負において、勝った事実は負けた事実より印象が強い(個人差有り)。――しかし、それ以上に「勝った」という事実から得る『快感』というものが厄介。  勝ち負けの価値観の差など実際大した問題ではなく、この『勝利の快感』が脳内の薬物による中毒を引き起こすことが問題なのである。実際に物を取引したわけでも法に触れるわけでもないが、現象としてはニコチン中毒や薬物依存と何一つ違わない。  「快感の量=代価の量」と考えず、純粋に「快感を得ることがある娯楽」として見れば、ギャンブルほど優れたものは無い。多く負けるからこそ、稀に得る勝利の価値は跳ね上がるのである。  「勝利する」という達成感に「賞金」が合わさった値段が『掛け金』なのだと理解しなければならない。「勝利する」ことに「賞金」が含まれているなんて、都合の良い話が許されては、賭けが成立しないではないか。  ギャンブラーとは、「負ける者」――敗者ではなく、「負けるとしても勝ちを求める」、勝負に身を焦がす人種である。戦う人間は全てギャンブラーと言ってよい。  勝つことなど眼中になく、「利益」を求める人間はギャンブラーではなく「商売人」であろう。  小村に商売人は務まらない。まして、ギャンブラーですらない。  「勝った上で金を得る」。これを安定してこなしたいのならば、賭博を賭博としてではなく、賭博を作業として、確実に条件をクリアするシステムを生み出さなければならない。勝利に飢えるなどもっての外である。  たかが1発の大当たりが「勝ちのシステム」であろうか……?  いやいや、それは単なる“稀の勝利”の1つに過ぎなかった。  計算では貯蓄を増やし、計簿の赤を打ち消すはずだった馬の賭博だが。それは逆に小村の貯蓄を削った。  しかし、勝つこともある。そのことから小村は―― 『グラフにすれば下降時期が多いのは当たり前。上がる時は尖って、大きめに上昇するから総合すると±0にはなる。今は我慢の時、ここで止めれば今までの負けが無駄になるからね』  という、冷静な判断を保っていた。  ――が、冷静なら必ず成功するわけではない。冷静な状態で正解を導き出す人間など少数で、そんなヤツ等ですら「結果的に成功した」と言ってしまえばそこまでだろう。世論的な言い分では、「冷静な人間なら犯罪に走る確率が減る」というだけである。  その上小村はコツコツと贅沢を重ねた。  それはパソコンを若干背伸びして購入したり、想定よりワンサイズ大きいテレビモニターを選んだり。出先でやや遠くても安い牛丼屋を探し歩いていたのが、ふらりと蕎麦屋やイタ飯屋に寄ってみる割合が増えてみたり。そもそも自炊が減り、ノドが渇けば水ではなく酒やジュースをごくごく飲むようになった。  身の回りのちょっとした物や事を少しずつグレードアップさせていくうちに、生活費は倍ほどに膨らんでいた。  貯蓄は確実に削げ落ちていたが、まだまだあると、まだ慌てる時間ではない――と、小村は頑張らなくてはならないタイミングから逃げるように余裕を持っていた。  食生活の乱れか、不規則な生活リズムの問題か? それとも単に不運だったのか……。  風呂上りにめまいを感じる割合が高まり、気持ちとは別問題に、常時気だるさを感じる日々が続いた。これらが意味していたこと……まだ20代前半である小村に、“生活習慣病”という魔物の片鱗が襲いかかったのだ!  小村は入院、その後通院した。  生活水準を引き上げた中で、「健康診断をきちんと受けてみようかな」と思い立ったのが幸い。早い時期に医者にかかれたことで、後年に致命的な被害をもたらすような事態は免れた。  代わりに、アルバイトは辞めることになった。体調が戻れば復帰するか、別の職場を探すか……小村は病院のベッドの上でしばしの休息を気楽に満喫していた。  入院中は暇である――というより、自宅にいても暇である。趣味といえば競馬くらいな小村は、購入したゲーム機やパソコンを用いてブログを作ってみたり、動画の投稿を行ったりした。それらは競馬に関わったものが多い。  パチ屋を辞めてからはそれこそ手広く馬に手を染め、退院してからは直接競馬場に出向く機会も激増した。  移動の際のバスや電車内だって馬鹿にできない暇な時間である。  旅の隙間に心強いのが「モバイルゲーム」だ。出会いは競馬情報のページに表示されていたネット広告(バナー)を他のリンクと間違えてクリックしたことから。  手軽に暇を潰せて、その上ネットを介して他人との勝負を楽しんだり、協力してプレイすることだってできる。何より、仕組みの手軽さが小村のフィーリングにフィットした。  携帯1つあればいつでも、どこでも参加できる上に、ネットを用いた経費の支払いは小村にとってこなれたものである。問題なく、小村は多数のゲームで強者となった。本命の競馬に敗れた日なら、尚のことプレイの熱も高まるというものである。  ‥‥‥‥‥この“ノリ”を、小村は入院中の時間にも継続してしまった。 ・競馬の収支はまぁまぁ、若干のマイナス。 ・モバイルゲームへの課金はそれなり。 ・病に伏せる前の話だが、普通自動車の免許をGET。 ・入院費はプライスレス――とはいかない、ズッシリ。 ・計算上の支えであった定期的な収入は皆無、健康になったが体力は落ちた。 ・退院後、一度ぬるま湯に浸かった心は労働を拒み、「嫌なものは嫌」精神を全開にした。 *先物取引は最終手段として挑むようなものではないと痛感。  ここまでが小村の2年間という月日に内方された事実である。  無論として、“向上した”生活費は何一つ容赦なく、淡々と支払われた……。  ―――ある晴れた昼下がり。繁華街のアパートで、段ボールで保護されたテレビディスプレイを愛車に積みこむ若者の姿がある。それは小村だった。  走り始めるワインレッドの愛車。この前までキスするくらい愛したボディだが、査定額を聞いてからは愛情の「“あ”の字」も沸いてこない。  小村は一目散に中古ショップへ向かうと、ディスプレイを抱きかかえて入店した。  しばらく時間が経過して――。  ショップから手ぶらで出てきた小村は数枚の札を財布に収めた後に、ラウンド終盤、強烈なリバーブローを受けたボクサーのように膝を着いた。  低かったのだ。物足りない感抜群な番組をたま~に映していた愛すべきディスプレイの価値は、小村が思ったよりも低かったのだ。  「購入時はあれほどだったのに!」と内心穏やかではない小村は、電化製品の発展速度に理不尽な憎悪を滾らせていた。  腹いせにメーカーへ嫌がらせのクレーム電話でも喰らわすか、とも思ったが……止めておいた。  遂に貯蓄が「慌てざるを得ない時間」となり、小村は狼狽していた。  一度上げた水準を下げての生活は苦痛だった。以前は苦痛でもなんでもない生活だったはずだが。今や屈辱感と手当り次第の怒りと後悔に、「誰かどうにかしてくれ」という願いがマーブル模様に乱舞する、地獄のような生活に思えた。  とにかく、金を得る手段を……と、ここで有り金を叩いて博打に突っ込めるほど勇ましい小村ではない。彼がかつて大きい勝負ができたのは、保障があったからである。  今、10万円を撃ちこんで外したなら……手におえない事態に突入してしまう。  もう、競馬やモバイルゲームどころではなかった。あれほどハマったそれらを、今では心の底から恨み、それらについて語らせれば罵詈雑言の山となることは確実なくらい、小村の価値観は変貌していた。  ……ちなみに、散々と小村を「競馬人」的に評していたが、あれは皮肉である。ここで勝負の場を捨て、揚句に唾を吐いている程度なら、馬好きとは言えない。 ACT/3  ふらふらと、小村は街を彷徨った。  元居た店に戻ろうとは思わなかった。パチ屋もバイト先も、“月払い”だからである。できれば即日、いや、週払いでも構わない……。  つまるところ、小村は「収入が入るまでの1か月を越えられない可能性が高い」という追い詰められ方をしていたのである。  小村は、朝日が高く頭上に昇り、空がオレンジに染まるまで放浪した。  やがて歩き疲れて立ち止まり、テキトウなガードレールに腰かける。  目の前には幅の細いビルがあり、それの1~5階の内、2と3階以外は「テナント募集」という侘しい姿だった。  力無くうなだれる小村。背後の国道を、乗用車や軽トラックが往来している。  排ガスの風が小村の衣類を汚すが、「お似合いさ」と、小村は自嘲のままに汚れることを受け入れていた。  うな垂れる小村の前を過ぎ、コンビニ袋を手にした男が幅の細いビルへと入って行く。  その光景も、小村にとっては自分の背後を行き交う自動車のように、取り留めて想うことなく見過ごした。  日雇いの派遣なら週払い、場所によっては日払いもあるだろう。しかし、それは継続してはくれない。派遣会社に登録しても、即日、近日に職場を斡旋してもらえるとは限らない。場合によっては何週間も放置されることだってあるだろう。  ATMから「500円玉を引き出せるか?」と、みみっちぃ預金の端数を気にしなければならない経済危機である。コンビニの引き出し手数料を軽視していた過去が痛いくらい……。  小村は動けなかった。このままガードレールの上で眠ろうかというくらいに、気力が無かった。  ――幅の細いビルの階段を降りて、男が入り口の扉を開く。  その『男』はしばらくビルの入り口からガードレールに居座る若者を眺めていた。  男は若く無い。ギリギリ、若くは無い。  その『男』の微妙な金塊色の頭髪は、夕焼けに当てられ、僅かに輝いて見える。  どれだけ眺めても若者はビクとも動かない。『男』は意を決したように歩き始めた。胸ポケットからサングラスを取り出し、表情を隠すように装着する。  “カッ”と、アスファルトに靴底が強く当たった。  夕日に焼けた歩道の影に気が付き、小村はようやく顔を上げた。  見上げた先に立つ男は、他を威嚇するかのように派手な出で立ちである。髪は染められているらしく、夕日で色を判別しにくい。おそらく金髪だろうと小村は感じた。  街路樹の影が沈みゆく陽により、細く路面に落ちている。  影の1つに佇む派手な男。その目元はサングラスに隠されていて、内情を計る要素が少ない。 「若者クン――俺の会社に何か用かな?」  首を軽く傾けて、ふてぶてしく両の手を腰に当てて。派手な男は変に自信満々な様で小村を見下げている。  小村は首を横に振り、「何、話しかけてんの? 誰よ、あんた」と不機嫌に吐き捨てた。 「いや、なに――家の前で鬱っ気を振りまかれてると、景気に良くねぇかなと思ってね」  派手な男はサングラスで覆った目元に手の平を軽く重ねた。 「何だよ、無関係だろ、俺がどこでしょげてても」 「営業妨害だって言ってんだ。ふて腐れるなら場所を考えてくれ」  小村は苛立っていた。  彼の精神はいわゆる「参っちゃっている」状態。不十分な睡眠の最中に怒鳴り声で起こされた人間のように……この時の小村には、小さな警告も面倒な説教として拡大解釈されていた。  小村は長身と言う程ではないが、それなりにタッパはある。過去の職務上、他者からの威圧やメンチに対する抵抗力も高い。逆に言えば、「幸を焦って本性丸出しとなった人間」から向けられる熱したピッケルのような激昂すら、“御せる”ほどの気迫を持つということである。  ましてや、この段階に至っては小村こそが「幸に飢えた餓狼」と言えるだろう(原因や経緯はなんであれ)。  小村は立ち上がり、数秒ほど派手な男を黙ったまま睨み付けた。 「鬱陶しいぜ、あんた。これからは喧嘩売る相手を考えた方がいい―――」  沈黙を破る言葉。それと共に小村はほとんどモーションの無い、正しく“手の速い”左の正拳を撃ち放つ。  「ガヒュッ」と、鋭い風切音が派手な男の耳元を過ぎた。  派手な男は一瞬、何が起きたか理解できていなかったが、すぐに「うおぉっ!?」と驚いて仰け反った。あまりに仰け反り過ぎて、その場で尻もちを着くほどである。 「んな、ぼ、暴力はダメだ! 反対です!」  派手な男はズレたサングラスを直しながら、ケツに着いた砂を払っている。  小村は拍子抜けした。言いがかりをつけてきた目の前の男は、一見してそれなりにタフそうだったからだ。それが意外にもチョロく倒れたので、気を削がれた。  先が見えず、心を落ち着かせる要素が無い。そんな、精神のもやもやを発散する腹だった。  腕には自信があった。パチ屋で気が立った客からのクレームを落ち着いてあしらえたのも、いざとなれば拳でねじ伏せる自信があったからだ。  小村は過去、高校を中退した。手が早く、女と仲間以外の者には容赦なく突っかかったから、初めから長くは持たないと解っていた。  パチ屋の仕事も、同じく中退した同校の先輩からの紹介だった。ただ、職に就いてからは手を出したことは少なく、倫理に基づいた治安維持に努めていた。  この頃は単に、追い詰められたので呆気なく本性が表に出ていただけである。 「お、俺は何も喧嘩しようってんじゃないんだ――そうか、解ったよ、君がその場所で悩みたいのなら、もう口出ししないさ。 うんうん、若いうちは存分に悩み、迷うことも大切だからね!」  途端にへらへらと、小村の様子を窺うような言葉を並べ立てる派手な男。小村は学生時代、同じく自分の威嚇に驚き、途端に低姿勢になった教頭の姿を思い出していた。 「クソが――粋がるんなら年と実力を考えろや、あぁ!?」  厳しく言い捨てて、小村はそいつに背を向けた。  実際、小村が言う程派手な男は年に見えない。精々30少しだろうか。  結局、小村は心の濃霧を何一つ解消できないまま、自宅へと向かう……。  一方、派手な男は荒れた小村に対して―――― 怒りを感じてはいなかった。  地平線は建造物のシルエットで凸凹に変形している。  沈む赤き太陽は都市の海に呑まれるように、凸凹の地平線へと半身以上を隠している。  派手な男は確かにビビりだが、ビビりな人間を良く言えば慎重な人である。その生業は慎重さが無ければ続かない――。  慎重な男は自分のパートナーとなるべく人間を、それこそ若干こそ無鉄砲である人を求めていた。  彼は自分に足りないものの多さを嫌程理解し、認めている。  例え嫌なことでも事実と認め、その上で対処を考える自己防衛の発想に優れている。 「ちょいと、そこの若者サン!」  行き交う自動車の駆動音に負けないように、派手な男は声を張り上げる。  背を向けて歩いていた小村は足を止めて、不機嫌に振り返った。 「お前の悩みも素性も知らないが、訳有りなら相談に乗るぜ? ――何、見知らぬ人間が胡散臭いことを言うなだとぉ?? バっカ、お前。“それ”が俺の仕事なんだよ! “我が社”のお・し・ご・と☆」  派手な男は威圧感も何もあったものではない。飄々とした様で声を張っていた。  小村は舌打ちをして、再び歩き始めた。 「おい、まてよぉ! お兄ぃさんと話そうぜ? 苦悩は自分で解決できるが、人に協力してもらえば時間の節約になるぞ!」 「……うるせぇオッサンだ。やっぱりかましてやろうか、あぁ!!?」  小村は足を止めて、怒りの形相で派手な男を威嚇した。というより、すでに拳を握り、一発かます気満々である。  ズンズンと引き返してくる怒りの小村。  派手な男は「ちょちょ、怒んなって、冷静に、クレバー・プリーズ!」と、動揺を隠しきれていない。  二人の間合いが縮まり、いよいよ射程圏内――という位置に至り――― 「ラーメンッ!! ラーメン食わねぇか!? そこの『味一』は美んめぇぞぉ~~」  小村の足が止まった。  派手な男が指差した、幅の細いビルの隣。見るからに昔ながら、というラーメン屋がある。「カレーライス始めました」の黄色い看板が、陽で焼けてみすぼらしい。 「お前くらいの時はさ、苛立ってむしゃくしゃする事、多いよな。そんな時は美味い飯食って、腹膨らしてさ、酒でも飲めば大概落ち着くよ。 暴力じゃだめさ。逆に血走っちゃって、歯止めが利かなくなる。冷たい檻に入ってからでは、美味い物も食えないぜ?」  派手な男はそう言うと、小村の返答も待たずにツカツカと味一に入って行く。  「ふざけんじゃねぇぞ、なめんじゃねぇぞ」と小村は口を尖らせた。  悪態を吐いても当人はおらず、むなしく夕方の歩道にすべり落ちるだけである。  どうしたものか……小村はその場に立ち尽くしていた。  実際、腹は減っている。その上ラーメンは大好物だ。  特に大衆食堂にあるような、小さなおにぎりがおまけに付いてくるような、変に気取っていないラーメンが更に好きな小村。  だが、見ず知らずの人と楽しくお食事をするのは気が進まない。大体、ついさっきに因縁を付けてきた気に食わない男である。警戒もするし、面倒も感じるだろう。  踏ん切りがつかなく、前後をちらちらと見渡している迷いの子羊。  そこに、ラーメン屋の入り口から顔を出した派手な男が最後の一押しをした。 「な~にしてんだ。ほら、奢るからよ~。少しくらいお兄ぃさんの小言に付き合ってくれぃ」  こんなことを言い残して、派手な男は店内に戻って行った。  小村は「きょとん」と、開いたままの入り口を眺めた。 「……さびしい野郎だ。話し相手もまともにいねぇのかよ……」  などと呟いてから、小村は歩き始める。  ――もし、あの派手な男が小村の威嚇に拳で対応していたら、こんなことにはならなかっただろう。  もしも、例の派手な男が「落ち込んでいる赤の他人」を気軽に無視できる性質なら、そもそも小村は彼と出会うこともなかった。  この日の出会いが無ければ、小村は如何わしい金融業者から暴利を受けて、人生の坂を転がり落ちていた………。  特別、優れた取り柄が考え付かない。深く洞察せずとも、一言挨拶を交わすだけで欠点を並べ立てられる。また、長く関わるほどに不満を募らせる人物。  それなのに何故か。小村はこの時出会った―高山 勇気―という人物の下で、1年近く仕事を続けている。  結局今も、高山という上司の良い部分などほぼ思いつかない。  そう、不満はある。しかし、不思議と嫌ではない。  小村から見た高山はそんな、「まぁまぁ、ぼちぼち」な上司であった―――。 SECTION_2 「アンナ」  ――西暦20XX年。世界は至って平穏無事に、地球は依然として若干の楕円のままに宙をクルクルだだ回っている。  ただ、しかし。視線をマクロに移して見れば、そこには随所に不穏な影が蠢いて見えるであろう。  ―COINS―それが今の人間世界に存在する、最も巨大な背景である。  「通貨・紙幣」は実に便利で不気味な概念である。  「通貨・紙幣」はこの世に無雑無数に存在する――それこそ路端の小石のように……。  いや、実際の所は無限に製造しえる分、夜空に瞬く星の数の方が比較対象に相応しい。  その、無量大数にも迫る「COIN」の群れで、最も大切な、重要な1枚が存在する。  この最重要を一個人が守ろうとする行為は、愚かで滑稽だろうか――。 ACT/1  地方都市の国道沿い。ラーメン屋「味一」の隣に、幅の狭いビルが建っている。  安普請なトタンの外壁は錆びた鉄の色で、みすぼらしい。道路の対岸にコンビニエンスストアが見えているものの、横断歩道までが遠いので、徒歩で5分はかかる(*信号に引っかからなければ)。  5階建のビルの1,4,5のフロアは空いており、それらの窓には「テナント募集」の文字がガラスにでかでかと張り出されている。  駐車場は隣のラーメン屋と兼用で、激しい国道の通りのせいで出るのが面倒くさい。  そんな、いつ取り壊されるかも解らないようなビルに、小さな会社がある。  『高山商業』と銘打たれたそれは、ビルの2、3階に居を構えている。  幅の細いビルから200mほど離れた場所で、市内バスが停車した。乗る人間はいなかったが、その中に、料金を支払っている「小村」の姿が確認できる。  小村が降りるとバスは運行を再開した。小村は首を2,3度鳴らすと、若干霞んで見える幅の狭い、安っぽいビルを目指した……。  12畳のワンフロア。床には埃が溜まり、机の上には書類が乱雑に重なっている。  窓からの光量は微弱で、日中だからと照明を点けていない今、オフィスには大小、様々に影が多い。  窓ガラスを背にするように「主」の机は設置されており、椅子に腰かけている主は部屋の暗さのせいでシルエットでしかない。  ここの主は読書が好きなのか。大型の本棚が3つもあり、これがまたオフィスを圧迫する大きな要因となっている。 また、床に散らばる雑貨類に不精さも感ぜられた。 「チャす、戻りました……」  ノックもチャイムも鳴らない。オフィスの扉は不意に開かれ、若い男が無愛想に入ってくる。礼節も何もうかがえないが、これが小村という男である。 「お疲れさん、お水あるよ~勝手に飲んでね~」  不精なオフィスの最奥。窓際の机からフロアの主である、「高山 勇気」の声が聞こえてきた。 「‥‥‥コンビニ行ってきますね」 「嘘、ウソさ! ほれ、微糖がいいんだろ?」  高山は机に身を乗り出して缶コーヒーを小村に放った。  「アザす」と、小さく答えながら缶を受け取ると、小村は適当にソファに腰かけ、茶の間机の上を払った。この缶コーヒーは高山なりの労いであろう。  小村はこの日、ハウスクリーニングの手伝いに出向いた。仕事の依頼は「高山の個人的な知り合いである老人」からで、集合は午前5時、作業は午前6時の早朝から行われた。  朝っぱらから埃まみれになっていたのである。労いの1つもしておくのも上司としてのたしなみではないだろうか。こうした小さな気遣いが、職場の円滑な人間関係を保つ秘訣であろう。 「朝から悪かったね。いや、俺も忙しくってさぁ~、ホント。昨日も2時間くらいしか寝てないからさぁ~、ホント!」  高山はそう言う。小村は「そっすか」とだけ答えた。  1年共に働いて、高山という人間をそれなりに知っている小村である。「1つ1つ、丁寧に相手する必要はない」と、割り切っていた。  タブを起こして「カキョッ」と鳴らす。  コーヒーを一口、喉に流すと、続いて煙草の一本に火を灯した。 「―――」  チラリと視線を横に送る。そこには、ノートパソコンの画面を見て「ウヒッw」とかこぼしている高山が存在した。 「……相変わらず、煙草も酒も無しですかぃ」  煙を吐き出して視線をジトッとしたものに変化させた。  高山は「アン、なんか言った?」などと、気味悪い笑顔のまま、上の空だ。 『 ~ ♪』  くるみ割り人形、「行進曲」のメロディーがオフィスに流れた。  高山が携帯を取り出し、一瞬、顔をひしゃげてからコールに応じた。 「――はいはい、どうも~。ええ、あい――え゛!? ……わ・か・り・ました……どうもすみません。はい、ちょっと確認してからこちらからかけ直させていた――ええ、どうも、はい……」  通話が終わり、高山がガリガリと頭を掻いた。  小村は何となく誰からか察せられたので、「チッ」と、舌を打っている。 「……コンマサ(小村のこと)。お前さん、俺に何か報告しておくべきことは無いかね?」 「何についてっすか」 「何って、どうしてさ。今朝のことだよ」 「――仕事は終わらせましたよ。代金以上に働きました」  小村は一々早い口調で言葉を切った。  彼は高山が“何を”言いたいのか解っていた。また、そのことについて小村なりの“理由”があるからこそ、強気の態度でもある。 「コンマサぁ……いいか、事実確認の際はまず、第一に。自分の好・不都合を抜き、あるべき事実を並べることが先決なのよ。 何も、お前をいきなり叱り飛ばそうってんじゃぁない。俺は単に、“実際はどうだったのかなぁ?”――ってのを知りたいんだ。これでも責任者なんでね」  高山は十分な間を取りながら、丁寧に選択しつつ言葉を綴った。  小村はコーヒーを一気に飲み干すと、「ゲホゲホっ」とむせた。 「――コンマサぁ、嫌よ嫌よと不都合から逃げてたら、ロクでもない結果が待っていると……自分で良く解ってんだろーよ?」  タカラッタ、タカラッ、と。高山の指が歪なリズミで机を打った。 「ゲホゲホっ――と、ふぅ」  小村は一息つくと、観念したように今朝の業務報告を始めた。 「高山さん――俺はね、口ばっかで手を動かさない奴見ると、苛つくんすよ」 「ほぅ、それって、俺のこと??」 「あ、自覚あるんすね、良かった――じゃなくて。今朝のじじいのことですよ。高山さんSの知り合いだから、そんな悪く言いたくないですがね……あの人、現場のばばあと話してばっかで、ろくに仕事しやがらないんです」 「ははぁ、それで――?」 「休憩入った時に一言言ったんですが、何も変わらなかったんで……」 「――バレないようにさり気なく、先方の車体を“蹴飛ばした”、ということですか」 「蹴ってませんよ。掃除機が悪いんです……アレで殴ったから」  小村はもう、開き直って力強く煙草のヤニを吸収している。吐く息の勢いも強い。  高山はリズムを奏でていた指を止め、しばしの沈黙を貫いた。  オフィスの会話は停止し、沈黙の中を灰色の煙が漂っている。  こういう時、「コチコチ」と鳴る時計の音でもあれば風情の1つもありそうなものだが。あいにくとして、高山商事にはデジタル表記の目覚まし時計が1つ置かれているだけである。  やがて、沈黙を破ったのは高山だった。 「コンマサ、解るけどね、君の言いたいことは。確かに盛岡の爺さんはそういう、なんというか……適当な所があるね」 「……………」 「あれで70近いからねぇ、重労働はきついんだよ。引っ越しは最近請け負ってないらしいし。まぁ、だからこそ、お前みたいな若い奴のヘルプを必要としているのさ」 「……………」 「だからって、偉そうにぐちぐち言われるのは腹立つわな。ま、そこんとこは考慮して俺から謝っとくから。ただ――暴力はいかんよ、俺は反対だ」  小村は沈黙したまま立ち上がり、空の缶に吸殻を押し込んだ。 「勘違いすんなよ、小村。この稼業は時に荒っぽさも必要だ――ただ、腕力の使いどころを考えることが重要なのさ」 「……帰って風呂入ってきます。埃っぽくてかないませんから」  具体的な返事は無く、小村は一時帰宅を宣言して、オフィスから出て行った。  階段を下る足音から、高山は自分が言いたいことが一応伝わったと予想した。 ACT/2  ――『高山商事』は簡潔に言えば「町の便利屋さん」である。便利屋という稼業は少数での営業が多く、思ったよりも街に点在しているものである。  大抵は何か本業ないし、副業で一定の収入を見込める業務をこなしており、これが不定期だったりするので、その間・間に依頼を受けている。「便利屋」として、それ一本で食っていくことは厳しい。  便利屋の仕事は大半、「伝手」で巡ってくる。古くからの付き合いや、しがらみが残る地方などではより顕著だ。Webで宣伝、紙面で広告をうって……などは大手に許された大技である。  つまりは「知った人間から直接/知った人間の紹介」から仕事を得ていくのである。  そう言った中で、「高山商事」は個人営業ながら「大手」のやり口に近い。  先に見た事例は「知った人間」からの依頼、その典型だが、高山商事の主事業は「見知らぬ他人」から受け取る仕事である。  高山のような30そこらの若造(界隈では)が単独で仕事を得ているのも、すべては「仕事を言い渡す存在」のおかげ。  ―COINS―その巨大な企業グループ、団体の傘下に在る無数の企業。  その下にはさらにミクロ、上場も何もないような会社が傘下にある。  そのさらに、さらに下――「高山商事」のような個人事務所がここである。  実際には「COINS」などという概念は巨大すぎてどこからどこまでかも判断つかない。  一説によれば、それこそ「通貨・紙幣」の大半はここに帰結してしまうほどらしい。  高山商事の立ち位置――それは企業カーストの最下層である。だが、何の下にも付かずに「我、唯我独尊也…」と決め込める経営など、まず無い。  とにもかくにも経営は「人との伝手」。これを手っ取り早く得るには、力ある巨大な存在に囲われることが一番と言えよう。なぜなら、同じく囲われている有象無象と“同志”として扱われるのだから。  高山商事は下請け業者なので、その立ち位置が存在する。工場などなら一目瞭然だが、とくに特化した技術や設備が見えないと、何の専門なのかが解りにくい。  ここでの主業務はズバリ、「雑用」である。単独で直接依頼主の下へ出向いたり、指示のあった集団の手助けをしたり、時々存在を忘れられたり……。  ある意味、真の意味での「便利屋」とも言える。悪く見れば企業にとって呈の良い“生きる十徳ナイフ”である。  それも高級品なら誇りもあるが、志はあれど錆びついており、大した機能も無い。  そもそもの代表取締役である高山が、これといった技能を持たないのも困りものである。  高山商事からそれほど遠くない地点。線路をまたいで駅の南側。徒歩では厳しいが、自転車でなら十分に通える場所、そこに小村のアパートが存在する。  帰宅した小村は宣言通り風呂に入り、早朝の垢を洗い流していた。  1年、高山の下で仕事をこなした。稼ぎとしてはパチ屋時代のそれが上回っているが、福利厚生、しっかりと退職金まで契約にある点は大きい。  やっていることはスポット派遣の範囲だが、正社員として扱われることは悪くない。ボーナスが出ないのは、今や珍しいことでもないだろう。  小村は風呂を沸かさず、シャワーで済ませる性質である。面倒だ、ということもあるが、何よりかつての「立ちくらみ」がトラウマと化しており、体を必要以上に温めたくないのだろう。  浴室から出た小村は、よく体を拭いて髪を乾かした後、ベッドの上にゴロリと寝ころんだ。「帰って昼寝してきま~す」など言ってはいないが、高山の職務怠慢を見てきたため、悪い影響がここに出ている。  今朝のじじいについて苛立っているわけではない。自分に非があることなど、十分に解っていた。  曲がりなりにも上司である高山が「謝っておく」と言っていたこと―――。  2つの思いがある。  1つは「なんだよ、やっぱり俺が悪者かよ。じじいに媚びるのかよ」の考え。もう1つは、「謝らせる事態を引き起こした自分について」である。一応にも、小村は自分の行いを悔いているようだ。  「蹴りにしとけば良かったな……」と、今一よろしくない呟きはあるものの、反省してこその成長。ひとっ風呂浴びて、頭も冷静になった証であろう。  一応の罪悪感を取り払うため、今夜は高山と風俗街にでもしゃれ込もうかと、フリーマン小村は考えた。 『 ~ ♪』  北欧のアーティストが奏でたメタルのメロディ。  テーブルにある携帯を手にして、小村が「はい、すんません、今戻りますよ」と、眠た気に応答した―――。 ACT/3  午後5時。陽が傾き、凹凸の地平線へと静かに沈んでいく。  歩道に伸びる街路樹の影。その一つに立つ「小村 正彦」は、一服ふかしていた。  公道での喫煙は違反だが、見つからなければどうということもない――という、若さである。  幅の細いビルの横から、麺のゆで上がった良い香りが小腹をくすぐる。 (そう言えば、ここに来た日もこんな時間だったかな……)  ちょこっとだけセンチメンタリズムな小村。1年前を思い返して、ガードレールに座っていた過去の自分を眺めた。 「おい、行くぜ。飯なら後でいいだろう」  高山がクィ、と夕日の反対側を指差している。  「うぃっす」と呟きながら、小村は高山の後に続いて歩き始めた。  高山商事に仕事を送る最大のお得意さんは「Nemesis Corp.」。和名で「ネメシス社」である。  Nemesis Corp.は英国を発祥としており、本社も英国内にある。高山商事は日本に存在する多数の子会社の1つとして、ここの日本支社から仕事を卸されることが多い。  どのような業務を扱っているかと言うと、実に如何わしい話とならざるを得ない……。  細かく見れば人間同士のいざこざを調定する立場であり、大きく見れば各地での自治権を掌握することが業務と言える。便利屋と言うには規模が違う。こういうのは「マフィア」と呼ばれるものだ。  外来種のザリガニが日本古来のザリガニを駆逐したように、この巨大な組織はいつの間にか各地に根を下ろしていた。  高山は日本人だが、一時海外に居住していて、何の因果か、「ネメシスの尖兵」の1人として帰国した次第である。カッコ良さそうに言ったが、早い話が「試し撃ちの弾丸の1つ」に過ぎなかった。  幸運にも生き延び、そのおこぼれに預かった結果が「高山商事」である。  その親会社から業務の通達が入った。大雑把に、「家出した既婚女性の探索」である。  21歳の新妻が昨晩に家を飛び出し、行方が分からなくなったという。  名前は「本山 アンナ」。身長は160cm、細身で長い黒髪。  アジアの小国出身で、日本語は話せるが完全ではないらしい。ほとんど着の身着のまま出たらしいので、金銭的に遠くまでは逃げていないだろう。顔写真も送付されてきたので、手掛かりは十分。  ここまで出揃えば、そこまで捜索は難航しないだろうと高山は語った。  ひっかかるとすれば……写真を見る限り、高山と小村が口をそろえて「やっべ、好みだわ」と言う程、アンナが上玉ということである。  まぁ、この近辺は大抵ネメシスの息がかかっているので、誰かしらが引っ掛けてもこじれはしないと思われるが……。  K市の駅付近。  暗めの鶯色のジャケットを羽織った男と、アロハ全開のシャツにサングラス、金メッキの健康ネックレスと腕輪が見た目に喧しい男が並んでいる。アロハの指元には指輪が計5個装着されている。  小村はこの1年。高山のファッションについて、「まるでピエロですね!」などのさりげない警告を鳴らしてきたが――彼の努力は実っていないようだ。  基本は聞き込み調査である。現在、情報の伝達は発展しており、メールやネット上の掲示で情報を募ることも可能。しかし、それと並行して足を使った調査を欠かすことはできない。  文明の利器に頼るとはいっても、文明に甘え尽くす必要は無い。  結局、どれほど仮想世界での以心伝心が成り立っても、直接対面することに比べれば補助のような結果しか生まないものである。 「お前は駅南方面へ。俺はこのまま駅北。何らかの情報が入ったら即TELな」 「本山さん宅はこの辺なんすか?」 「駅南側へチャリで10分くらいか。近いよ。つか、お前の家のが近い」 「だから駅周辺を捜索っすか?」 「それもあるが――この辺で寝泊まりつったらこの駅周辺だろ。公園や路地で寝転がってるなら話は別だが……相手は女性だ。野宿の発想は最終期に出てくるんじゃないか? まだ家を出て一晩なんだから、どこかに転がり込む金銭はあるだろ」 「ワイルドな女だったらどうすんすか。キャンプ大好き、登山が趣味、みたいな……」 「バっカ、お前。可能性を考えてたらきり無いだろが。まずはともかく、一番情報が集う場所で行動、だ。携帯は定期的に見ろよ?」  一通りの手筈を伝えて、派手なアロハを翻し、高山は盛り始めの繁華街へと潜って行った。小村も心得て、駅を越えて南へと進む。  駅構内を移動中、小村は考えていた。 (保護対象が南側に居住しているということは、可能性的に南側の方が高いのでは? そこに俺を使わせるってことは……ああ、そうか。北側は‥‥‥)  K市の駅北側。そこは夜ともなれば肉食系の豹や狼が酒と色を求めて徘徊する世界となる。  一方の南側はむしろ日中に主眼を置いた様相で、ドラッグストアや大手デパート、100円均一からジャンクフードショップが鎬を削る商店街である。 *ちなみに、高山商事が入っている例の細いビルは北側の喧騒からやや外れた位置にある。  小村はなんとなく高山の腹を察した。彼は大体の当たりを「南」と付けて、自分を差し向けたのだろう、と。ついでに、実は今回の捜索に対して、高山は乗り気ではないのではとも考えた。下手をすれば、「見つからなかった」くらいが望みなのかもしれない。 (やっぱろくでもないな、あの人わ……)  小村は高山の「面倒臭がり」にほとほと呆れていた。  前述したが、高山は鉄砲玉のようにこの国に送り込まれ、そして生き残った実績がある。  そのせいである程度の「ミス・怠慢」は、なぁなぁと流される立場にある。最も、そればかりでは首を切られるが、そこは高山も弁えていて「ここはミスをしても“仕方がない”と流されるだろう」というポイントを見定めている。  今回の捜索だが、実際のところ女が県外に出てしまっているかもしれない。どの程度本気の「逃げ」かは計れないが、この可能性は大いに有り得るだろう。  それならそれで県外まで追わなければならないのだが、遠距離の逃亡は大概、半端な距離で終わる。いっそのこと国外、地球の裏側まで行けばそれこそ面倒になるのだが。  電車一本、バス一発で行ける距離なら、乗車記録に映像記録、店舗の利用経歴などを洗ってしまえば、かえって近場よりも目立つことが多い。“ネメシス社”という強烈なコミュニティにかかれば尚更だ。  勢力を争っている2大コンビニエンスストアも、元をたどればCOINSの子――つまり、「それら全店に通達が入ってしまう」程度はやってくるのがネメシス社である。その上影響は民間だけではない。  ‥‥‥と、いうことは。  今回の捜索のような案件は「何が何でも自分達で見つけないといけない」訳ではないという考えに行き着く――のだろう。高山的に。  小村は仕事に対しては几帳面な所があるので、そういった高山のテキトウさには呆れて、軽蔑すらしている。  今朝の暴行事件などは小村の真面目さが悪く出た例で、仕事を「知り合いの慣れ合い」でこなしている様は、小村にとって「ムカつく」光景に他ならなかった。  だから、車はへこませたものの、家内清掃の仕事は律儀にこなしていた。  小村は高山の素行に疑念を抱き、心の中で悪態を吐いた。  今頃はきっと、「異国の娘ってことは、きっと祖国の女性が集まる所に行くはずだ!」などと、該当するサービス業の店に飛び込んでいるだろう――小村はいよいよ高山を侮蔑した。  その高山だが。実のところ、彼は一人で風俗店には行かない。付き合いや部下への見栄でしか入店しないということだ。  性欲が希薄なのかというと、そうではない。単純に、心がチキンで、ヘタレなだけである。一対一のタイマンともなると上がってまともに話せず、一対多ともなれば逃亡しかねない。  味方が必要な男なのだ。高山という人間は、小村のような「自分の身内」が存在しないと挑戦を諦めてしまうのである。  異性との対話は常に挑戦。コミュニケーションは戦いである。  だから、高山が小村と別れてから向かった先は水商売のはずがなかった。 『 ~ ♪』  南側に渡り、見知り合いの店を伝っていた小村の携帯から刺々しいメロディーが流れた。 「はい、なんすか、財布でも忘れましたか?」  決めつけたように呆れながら通話に応じた小村だが、それは安易な予測である。  通話相手の高山は、小村の空想とは別に、ネットカフェに存在していた。  高山は自由時間を失った悲しさなのかは知らないが、 『……見つけちゃった。来てください……』  と、もの悲しいような、狼狽えたような低いトーンで指示を伝えた―――。 ACT/4  20分ほどで小村は高山がいるネットカフェに到着した。  店内に入る前から、ガラス張りの自動ドアの先に派手な男が見えている。 「――いらっしゃいませぇ」  入店した小村を、店員が迎えた。 「客じゃないよ。あいつ、俺んとこのスタッフだから」  高山は慣れ慣れしく店のカウンターに肘を着いている。  やけに余裕な高山を見て、「常連っすか?」と、小村が聞いた。  高山は得意気に「おう!」と答えて、店員に満面の笑みを向けた。店員は「はは…」と、微妙な笑顔で返していた。  件の女、「本山 アンナ」はこの店のスタッフルームにいるらしい。  店員曰く。 「料金の手持ちが足りなかったんです。うちは長時間ご利用の方に、半日ごとの支払いをお願いしているのですが……こういったケースがあるからなんですね。足りない金額自体は300円ですが、小銭と言っても見過ごせないのは私の経営ではないからですね。店長に自分が抜いたと疑われたくないですから……」  店員はどうにも怒りや軽蔑の感情を抱いていないようだ。普通、「金が足りない」などとなれば悪態の1つでも言うであろうに。  彼は続けた。 「こういった場合は、店長に連絡して然るべき対処――となるのでしょうが。その……なんというか。幸い店長も留守ですし、まぁ、ここは私が出そうとも思いましたけど……それにしても………」  何やら様子がおかしい。店員は事実を提示するうちに、だんだんと口調をあやふやに濁しはじめた。 「どうするべきか悩んでいたところに、丁度、高山さんが来店なさって――高山さんがこういった事に詳しいことを以前話されていたので、相談してみたんです……」 「――っていうことなの。相談されちゃったんだ、俺」  高山が頭を掻きながらチラリとスタッフルームに目をやった。話を終えた店員も、同じように視線を移す。 「………どうしたんすか、何か“ふくみ”がある話し方っすね」  小村は、二人が肝心要のことを言っていないような気配に困惑した。  いやいや、どう考えても「捜索対象が見つかったよ、メデタシメデタシ」という空気ではない。  小村は高山に促されて、スタッフルームの奥へと入った。  店舗の裏側、そこは店内の着飾った様相など無縁で、事務的な灰色の多い空間である。  使用済みのコップを洗う洗面台で、「ペン」と、蛇口から水滴がしたたり落ちた。  その灰色の空間。質素なスタッフルームの中で、小村は他の何もかもを差し置いて、その人に視線を奪われていた。  部屋の隅で椅子に座っている女性は、話に聞くよりもか細く、繊細に思えた。  長い黒髪の実物は枝毛も多く、美しいとは言えないが、大した問題は無い。  やや褐色に寄った肌は、異国の情緒を感じさせ、日焼けとは異なるエッセンスを彼女に与えている。  薄手の服装は情報の通り、部屋着のまま飛びだしたことを意味していた。  シャツの首元は伸びており、胸元がちら見え、谷間を視認できる。  薄い唇に紅は塗られていないが、彼女のまとまった「質素」なイメージに上手く合致している。  これら、魅力的な要素の多さ。これは男の目を引き留める素材となるだろう。  だが、高山と店員が言葉を濁し、小村を部屋に立ち尽くさせる要因は別にあった。  「本山 アンナ」は21歳。日本には結婚のため、半年前に入国した。  この若い新妻の手首には古美術の土器のように、縄の痣が残っている。  半袖のシャツから見える二の腕、良く見れば胸元にも赤く腫れている箇所が複数ある。  若年の女性ながら、爪はボロボロで、手の皮膚も過度な水仕事特有の荒れ方をしていた。  言葉を発さず、黙ったまま座っている家出の女。  その光景に、小村は何をどうすることもできず、ただ立ち尽くしていた。 「――コンマサ、ちょっと来い」  高山が小村の肩を軽く叩く。  しかし、小村は目の前の女性が「現実としてそこに座っている」ことに対する理由を空想の中で必死に求め続けている。 「コ……小村! Come onッ!」  張り上げられた高山の声に驚いたのは本山 アンナの方だった。彼女を見ていた小村は反応したアンナによって高山の呼びかけに気が付いた。  高山は「あ、ごめん…」と、蚊の鳴くような小さな声で謝罪した。  一度店外に出て、星空の下で並ぶ二人の男。鶯色のジャケットが右に、左に南国柄のシャツ。  ここのネットカフェは2階であり、通りの喧騒からはやや距離がある。客もひっきりなしという訳ではなく、店の前の通路には人気が無い。  小村は無意識のうちに煙草に火を点けていた。脳が「落ち着く動作をしなさい」と命じたのだろう。 「高山サン」 「――ん?」 「あの娘が本山 アンナで間違いないんすね」 「名前を聞いたらそう、答えたからな。まっさかスケープゴートってこともあるめぇよ」 「……本山 アンナの身体。あれは、日常生活で有りっこない状態ですよ。それこそ、虐待でも受けない限り――」 「…………」 「家出したって事実と合わせれば――高山サン、知ってたんすか?」  小村は視線こそ向けないが、突き刺すような口調で高山に話している。 「まったく知らん。まぁ、もし事前に知っていてもやることは一緒だろうが……」 「一緒? ってことは高山サン。彼女、このまま連れてくんすか。夫の元に」 「…………だから、“見つけちゃった”なんだよ」  高山はサングラスを外して、目頭を指で摘まんだ。  小村は向き直って、高山をじっと見据える。 「じゃ、見つけなかったことにすればいい」  小村の声は震えている。彼の脳内では段々と、アンナの傷と表情が鮮明となってきたようだ。好む・好まないを除いた事実を認識した上で、否定的な怒りを感じているのだろう。 「――コンマサぁ。いいか、たった一晩だ。それも、アクシデントではない。“金が足りない”なんて、予測できる『ミステイク』だ。 それが悪いってんじゃない。ただ、たった一晩で容易く俺達が辿り着いた彼女が、このまま逃げ切れると思うか?」 「――俺達が……」 「コンマサぁ――ストップだ、それ以上言うなよ。それ以上は“裏切り”だ」  高山はサングラスのフレームを弄りながら、厳しい表情で小村に警告した。  厳しく、小村の意見を制するように発言した高山。しかし、同時にそれは「己の本心を言い当てられたくない」という恐怖からの、ビビりな防衛手段に過ぎなかった。 「お前の言いたいことは解るよ、俺だって同じさ。だから、このまま“ハイ、どうぞ”では済まさない。  済まさないが……だからといって俺にできることは、精々が事実を伝えて後は上の判断を待つだけさ。俺達はあくまで今回の当事者でも責任者でもない。ただの下請け作業員なんだからな……立場以上の影響力は無い」  高山はサングラスを掛け直して、手すりに寄り掛かった。  小村は何も言わず、黙って高山の言い分を聞いている。  自動ドアのガラス面から、華やかな店内の光が溢れている。  柱と上の階の床が邪魔をして、月明かりはほとんど差し込まない。  店内から、麻雀設備の効果音が僅かに漏れて聞こえる。  店の自動ドアが開き、中から男女の恋人同士が現れた。  わざわざ恋人とネカフェかよ、ここはシングルの聖地だぜ? ――などと高山は胸中で嫉妬していた。  恋人たちの背姿が階段下に落ちていく。男のみの、無言な空気がその場に戻った。 「――とりあえず、行動しないとな。あの子もスタッフルームは気まずいだろう。一応、まずは事務所のほうに連れて行くべ」  高山が服装を正して、店の中へと向かう。  自動ドアが開いた。 「――高山サン。事務所じゃなくて、家であの子を保護していいっすかね」 「………は?」  突然の申し出。沈黙していたと思ったら、いきなり何を言い出すのか。 「事務所には風呂が無いでしょう? 彼女、きっと銭湯にすら行ってないすよ」 「あ~、そうかもしれないが……」  高山は即座に「ダメだ」と言おうとしていた。  しかし、まだまだ血気盛んな小村の意見を先ほど説き伏せたばかりである。これ以上余計な刺激をして暴走されたらたまらない。  それに、この類の案件が“不可侵”だということを身に沁み込ませる良い機会か――と考え、了承した。 「ただし、明日には報告を上げなければならない。つまり、今日限りだ。明日には事務所に連れて来いよ」 「明日っすか?」 「この店自体、オーナーは俺の上役に当たる人間だ。どうせ長く隠し通せる話じゃぁない。本当は今すぐにでも伝えるべきだが……ま、1日くらいなんとかするよ」 「……了解す」  小村は明らかに納得していないようだが、これ以上のだだをこねるほど子供でもない。  高山は「手を出すんじゃないぞ」と釘を刺した。  小村は「冗談言ってる場合じゃないでしょ」と生真面目な目つきで言い返した―――。 ACT/5  駅の南側――本山 アンナは観念しているのか、小村の言うままに道を歩いていた。  暗がりの道で小村は最初、ただ黙ってついてきていると思っていた。しかし、沈黙に耐え切れず、意を決して彼女に向き直り、 「これから、俺の家に行きますから。今日の所は安心してていいんすよ」  と、穏やかな口調で目的地を伝えた。  小村が意を決した場所には、丁度街灯があり、電信柱から明かりがスポットライトのように2人の男女を照らしている。  そして、この段階で小村はようやく、彼女の表情をはっきりと知った。  方向的に本山家に向かっていると思ったのだろう――アンナの瞳には涙が溜まっていた。  優しく話しかけられたことに驚いたのか、足を止めて小村を見つめ返すアンナ。  瞳から流れ落ちた涙が、褐色に近い肌を伝っている。  小村は放心した。女の涙を見て、完全に無防備な精神状態となった。  同時に、小村は様々に考えた。  涙の理由、照らされてあらためて解る痛々しい傷、火傷の訳。そして、アンナという女性の可憐、憐憫のなんたることか―――。 「い、家、近いから。俺の家、風呂あるし、割と綺麗にしてるから、安心して!」  無理やり積み上げた積木のようなガタガタの言葉と共に、ギコチナイ顔で微笑む。  早口だった上に日本語としてギリギリの羅列だったため、アンナは小村の言葉を完全に理解した訳ではなかった。  ただ、「安心して!」と懸命に微笑む小村を見て。「はい」と答え、小さく頷いた。  アンナが祖国を離れる時。見も知らぬ夫となる人を想い描いた。  希望の中で描いた夫は、彼女に優しく微笑んでくれる人だった……丁度、今の小村のように――――。  見た目に割と良いアパート。オートロックの玄関は住人以外に開けない、セキュリティに力を入れた物件である。  小村はかつての贅沢癖がどうしても抜けていなかった。一度体感してしまうと止められないのが快感・快楽である。幸せな生活とは、これの代表だろう。  食事や家電には節約しているが、せめて住居は……と、自分の分に+1したような物件を小村はチョイスした。  「見てくれを着飾って何になる!」と過去に高山は言ったのだが、小村による「人の振り見て我が振り直せ」の返答に、憮然として閉口してしまった。  しかし、その見てくれも時には何らかの効果を発揮するのだろう。  アンナは小村が「ここっす」と指を指した建物に目を見開き、カードキーを通して入り口を空けた彼に続くことができなかった。 「え、あ、どうぞ……入ってください」  立ち止まっているアンナに小村も戸惑い、へこへこと不器用なエスコートをしてみせる。 「……私、お金無いです」  アンナはぽつりと、こう呟いた。  「はい」の単語以外、初めての言葉である。小村はアンナの声色に心を躍らせたが、「それどころではない」とすぐに気を取り直し、咳払いをした。 「いや、ここの3階にあるんすよ、俺の家。なんで大丈夫っす、何の心配もいらないっす」  ここに来て「す」が増えていることから、相当に舞い上がっている小村の心情が察せられる。  言われるまま、アンナは立派なアパートの入り口に入って、小村の後に続いた。  鉄筋コンクリートの重厚なアパートは、家賃の高さに見合って充実の住み心地である。  まぁ、その代償に袋ラーメンやらカップラーメンやらベビースターやらを食っていてはあまり意義を感じないが……ここが小村の価値観、といったところであろう。  3階の一室の前で立ち止まり、鍵を解除して扉を開く。  玄関は狭いが、廊下を通して奥に1部屋、左側にもう1部屋ある。一人暮らしが何部屋必要なのかは個人差だろうが、男一匹で生活を始めて「いずれ伴侶を……」などと思い、余分な部屋を用意するのも有りだろう。  実際、小村家の2部屋目は物の無い物置と化していた。  奥の8畳にアンナを通して、とりあえず座椅子に座ってもらう。アンナは言われるままに座った。  アパート前での発言以来、ここに至るまでアンナの発言は無い。精々が、小村の言葉に合わせて「はい」と小さく返すくらいである。  小村は、知らない男の家に招かれたんだから、そりゃ警戒もしくは緊張するだろーな……と考察して「今、お茶淹れてきますね!」などと懸命に気を遣っている。  茶を淹れると言っても、大したことはできない。小村はティーパックを用いてインスタントの緑茶を用意すると、「あちち」と言いながら湯飲み茶わんを2つ、部屋のテーブルに置いた。  アンナの目の前に湯気の立つ茶碗が置かれたが、彼女はそれに手を付けようとはしない。 「そうそう、俺の名前も言ってませんでしたね。俺は小村 政彦って者です。気軽に“政彦”って読んでくださいよ。代わりにあなたのことは“アンナさん”と呼ばせてもらいますが、いいっすかね?」  後頭部に手をあてる小村の表情は、実に調子の良さそうな笑みである。  若干の沈黙の後、アンナは顔を上げて「マサヒコさん――」と、小村の名を確かめるように呟いた。 「知り合いからはコンマサとか呼ばれんですけどね。ほら、コム、マサでコムマサって言いにくいっしょ? だから“コンマサ”――ってね! はははっ」  おどけた仕草で緊張を和らげようとする小村だが、アンナはきょとんとしてしまっていた。  「いやぁ、ははは……ゲホッ」と、空気の乾燥を感じながらも笑顔を続ける小村。  言葉が何も浮かばないが、コミュニケーションの流れが止まることを恐れて、小村は「茶を飲む」という仕草でそれを保とうと試みた。  何分くらいだろうか。2~3分であろう。だが、小村には「沈黙の時間」が10分くらいに感じられていた。  その間、小村はチラチラとアンナの表情を確かめていたが。沈黙が続けば続くほど、アンナの可憐さよりも体に刻まれた傷跡や痣が気になって、より空気が重くなっていく。 「――あ、そうそう。飯、作りますね。何か好きな物とか嫌いな物あります?」  アンナから視線を外して立ち上がる。小村はどうにも、自分が真に聞きたいことを言い出すタイミングが掴めないようだ。  ここで、アンナがようやく言葉を発した。 「マサヒコさんは、私をご主人様に連れてかないですか……」 「へぃ?」  今度は小村がきょとん、と呆けた。アンナの不十分な日本語もあるが、今一単語にピンとこないところがあったからだ。  アンナはそれ以上言わず、また沈黙を開始している。 「あ~っと、ご主人様っつーと、あれかい? もしかして旦那さん??」  小村の中では「たぶんそうだろう」と当たりは付いているが、それが真実だとしたら、アンナの夫は自分を「御主人様」と呼ばせながら彼女の身体に傷を付けたことになる。  「はい」と、アンナが答えたので、小村予測は正しい事が証明された。  小村は鼻頭を指で摘まみながら、感情を抑え込むように唇を歪めている。 (彼女の身体といい、呼ばせ方といい……本山って男はこの娘をどんな扱いしてんだ。すくなくとも、まともな夫婦関係じゃないぞ)  ――小村は考えていた。今ある証拠だけでも、非があるのはアンナの夫だと判断できる。  ドメスティックバイオレンス(DV)、すなわち、「夫婦間での虐待行為」が存在するのは確定的だ。  その上で。あたかもアンナが罪人であるかのように、彼女をその男の元に連行することは……正しい行いと思えない。何より、小村の心が酷い苛立ちで落ち着かない。 「………飯、チャーハンでいいかな? 一応、俺のフェイバリット料理だからさ、美味いよ!」  小村はパッと表情を明るくすると、力強く発言した。 「私、作らなくていいですか――?」  アンナが不思議そうに聞いた。 「え、うん――そうだよ? 俺が作るさ、君はお客さんなんだからね」  アンナの言葉で、むしろ小村が疑問符を浮かべた。  小村はアンナの疑問の意味が解らなかったが、キッチンでチャーハンを作っている際に、「ああ、普段は彼女が料理を作ってんだな。まぁ、それは普通の話しっちゃ話か」と、自分なりの解釈を見つけた。  料理の合間合間に小村は部屋に顔を出し、アンナに一言二言声をかける。  それはなんてことは無いジョークだったり、食の好みに関する質問だったり……。  しかし、大半の問いにアンナは「はい」としか答えない。  めげない小村だったが、 「ほら見て、本格的な中華鍋でしょ? これだってガンガン使っちゃうからね、俺。見よ、この鍋捌き! シャシャシャァッ!」  と、腰を落としての熱い素振りに「――はい」のみで返された時は、さすがにしばらくの沈黙を強いられた。  香ばしい油の匂いが部屋に漂ってきた。  アンナはまともに飯を食べていなかったのだろう。彼女の小腹が「くきゅきゅぅ」と鳴った。 「はい、チャーハン2つお待ちどおさま~」  ウエイター気取りで両手に皿を持ち、部屋のテーブルに皿を並べる。プラスチックのコップに水を入れてこれも2つ用意した。  黄金色の焼き飯から立ち昇る、できあがりホカホカの熱気。添えられた紅ショウガが彩にアクセントを与えている。 金属のスプーンを用意して――食卓の準備は整った。  この段階で、小村は小さな「ガッツポーズ」を作っていた。何故なら、アンナの表情が今日で初めて、生気を帯びたものになったからである。  21歳で、体格もスラッと脚の長いモデル体型。しかし、顔つきはおっとりとしていて、3歳は若く見える。10代と言わなければ違和感があるほどだ。  ようやく、ようやく本当のアンナの表情を知ることができた。  先ほどまでの沈んだ空気の彼女からは、ここまでの考察をする材料を得ることができなかった。 「それじゃ、いただきましょうか!」  小村のウキウキは絶頂だ。複雑な状況ではあるが、何せ可愛い女の子と自宅でお食事である。それに、その女子は小村の料理によって表情を輝かせた。これに勝る“男冥利”はそうそう無いであろう。  ―――料理の味に不安はなかった。小村はマジにチャーハンが得意料理だからだ。勝負料理と言ってもいい。  だから、この時点で小村は達成感を得ていた。何はともかく、この娘を喜ばせることができると、確信があったから。  その、確信の中。小村は色のついた米粒をスプーンで掬い、口に運ぶ途中、気が付いた。  アンナの表情は確かに変わったが、姿勢は一向に変化しない。スプーンに触らず、手は変わらず膝の上。  表情も、飯を前にした期待感で輝いてはいるものの、唇をつぐんで戸惑っている様子が見て取れる。 「……ど、どしたの? チャーハン、あんま好きくない?」  恐る恐る聞いてみる。料理中に確認した時は特に否定も拒否も無かったので、大丈夫だと思ったのだが……。  アンナはチャーハンから小村に視線を変えて、不安そうにこう聞いた。  「食べていいですか? 私、これ食べていいですか?」  小村は即座に気が付かなかった。だから、「もちろんさ!」と安易に返せたが、それでもスプーンを手にしないアンナを見ている内に、まさか――の疑惑が脳裏を過った。 「……アンナさん。家で、料理をしていたんだよね?」 「はい」 「自分が作ったものだけ食べていた……とか?」 「…………」  小村は、ここまで経験したアンナとのやりとりで、「沈黙こそが彼女の否定」だと勘付いていた。最悪の想定では、アンナは「拒否すること」を禁止されていたのでは、とも予想される。  それを踏まえて、小村は質問を続ける。 「自分が作ったご飯も食べてないの?」 「――はい」 「自分の分だけ自炊させて、君にはコンビニ弁当でも買ってくれていたの?」 「…………」 「?? じゃ、……じゃぁ、君はなにを食べていたの?」  小村は恐怖を感じていた。不安を通り越えている。  本山 アンナが、どのような境遇でこの半年を生きていたのか。それを考えることに恐怖を覚え始めていた。 「――ドッグフード言いますか、犬のごはん貰えました。良い時は、猫ごはん言うものくださいました」  驚くほど淡々と述べる。事実を事実として~と、高山は小村に口をすっぱくして言いつけているが、これは違う。そんな、淡々と話すことではない。 「猫ごはん言うのは、米や野菜が味噌汁に入ったのです。後はご主人様のお汁などを加えて、食べ……ました」  最後まで、アンナは淡々と言葉を並べた。だが、話終わった途端、彼女の表情が、深く、深く水中に沈むような……鬱屈とした相へと変化した。  原因は、自分の主食としていたものと、今、目の前にある美味しそうなチャーハンを見比べたからだろう。  小村の肘は下がり、スプーンは音を立てて皿に落ちる。  ここだった。小村が“キレた”ポイントはここだった。  小村は我慢していた。高山の言い分も納得はしないが理解はした。だから、悲しいけど、せめてできることをしようと考えていた。  アンナを夫の元に返す前に、事実を本社に伝えて、できる限りの庇護を求めよう。  せめて今夜は、家出の疲れをゆっくりと癒してあげたい。  得意のチャーハンを振る舞おう。できることなら、アンナの笑顔が見たい―――。  ギリギリと歯を食いしばって表情を歪める小村。 「……すみません」  アンナは謝った。怒る男性を前にしたアンナの最初の対応は、“謝罪”だった。 「――っ、いや、謝るのは俺さ。ごめんな、辛い事話させちゃって……」  歪んだままの気持ちで、小村は精一杯の笑顔を見せる。 「ほ、ほら、食べようか、チャーハン! こいつは熱いうちに食べないと美味さ半減だから!」 「……私、これ食べていいですか?」 「ああ、食べていい…………食べて、食べてくれ。おかわりだってあるからさ!」  悲しい話をしたのはアンナで、辛い思いをしたのはアンナである。  だが、腕で目元を隠し、涙を掌で拭っているのは小村だった。  アンナはようやく、スプーンを手にした。  幸い、まだチャーハンは冷めていない。温かい、ホカホカの美味しい状態だ。 「―――! 美味しい……」  一口飲みこんで、最初に発した言葉。  もし、アンナが本山の苗字になっていなければ。  もしも、アンナの夫が妻に優しい男だったら―――――。  食事が終わり、しばらくしてから、小村のベッドでアンナは眠った。小村は床に敷いた客用の布団を初めて活用した(自分の為に)。  アンナが眠ってから数時間。頃合いを見て、小村は起き上がった。  ――小村はアンナの寝姿を見て。胸が熱くなることを抑えられなかった。その姿こそ、「自分を信頼してくれている」という証拠と感じて、小村は彼女に感謝すらした。  小村は物置となっている部屋に向かうと、自分が堅気ではないという“証”を手にした。  それをベルトの後ろに差し込んで、ジャケットの裾で覆う。  廊下に出ると、微かな寝息が聞こえた。自分の家で寝息を聞くのは初の経験。言葉で表せない、感情の高揚が沸き立った。 (こんな生活ができるなら、他の贅沢は何もいらないな――)  そんな希望を、小村は心に描いた。  扉を静かに開いて、そっと閉じる。  午前5時の空は、低い部分から仄かに、青のグラデーションがかかっていた………。 SECTION_3 「夫の本山」 ACT/1  本山 アンナは自宅周辺の地理を知っていた。これは、彼女が監禁されていたわけではないことを意味している。  小村は考える。アンナが外出する服装はどのようなものだったのだろう、と。  自分が傷だらけの彼女を妻にしていたとして、それを隠すのならきっと、長袖にジーパンでも履かせるはずだ。本山という男もきっと、そうしていたと想定して間違いはないはずだ。  だが、例えば半袖のワンピースを着た彼女が。近所の、個人で経営しているような八百屋で食材を購入していたと仮定しよう。  買い物客や店主はその光景に何かを思い、手を打つだろうか。半年間、傷と痣が増し、長い髪は痛み、肌荒れが目立っていく女性に……他者は救いの手を差し伸べるだろうか?  アンナがどのタイミングで逃走したのか、深くは探らない。しかし、「着の身着のまま」という彼女の服装は、それこそ普段の「買い物姿」で、財布の僅かな銭はお使いの費用なのではないか?  朝方、閉店している八百屋の前。小村は立ち止まって、閉じたシャッターに疑心暗鬼の視線を向けていた。  小村にとってこの近辺は自宅の庭のようなものである。アンナの断片的なヒントからでも、「本山」の住むアパート近辺図を脳に描くことができた。  アンナがよく買い物をしているらしい八百屋から30mほどの距離。目的のアパートに到着する。小村の住居から徒歩で15分とかかっていない。なるほど、高山の言うように、確かに近かった。  そこそこに古いアパートである。築10年とでも言われればしっくりする。ここの二階、最奥の205が本山の住居。  鉄板を踏む足音が、明け方の静寂に刻まれる。鶯色のジャケットはこの明度の中、その色彩を保ってはいない。  呼び鈴が鳴った。204号室、一際暗い、奥まった部屋である。後頭部を軽く押さえて、「コキッ」と首を傾げる。  もう一度呼び鈴を鳴らした。204号室、住人はあるはずだが、出てはこない。考えればそれもそうだろう。午前5時、人が寝ていて非にはなるまい。  コン、コン――扉を叩いた。「本山さ~ん、いらっしゃいますか?」   返事は無い。  ゴン、ゴン――扉を小突いた。「本山さぁん、奥さんの件で報告があるのですが……」   返事は無い。しかし、変化はあった。  数秒の無音を経て、今度は殴るようにノックをしようと小村が構えた先。  「カチリ」と金属の擦れる音が聞こえた。  扉が少し開かれて、照明の明かりが零れ出る。  20cm程の隙間から除く目が、舐めるように訪問者の姿を確認している。  訪問者は穏やかな表情を取り繕っていた。上背も並みで、風貌は暗くて解りにくいが、どこにでもいる若僧、といった感じである。 「本山さんですね? 朝早くに申し訳ありません。なにせ、急を要することなので……」 「――アンナが、見つかったのかい」  小村の姿を確認した「本山」は、警戒心を和らげた。正確な言い方をすれば、「嘗めた」となる。使いっパシリの下っ派だと判断した。同時に、本能的な話で、組み伏せればどうとでもなりそうな男だと感じていた。 「目撃情報が入りまして。それに関することで、本山さんに直接聞こうと……」 「いいから、そういうのはいいから――見つけてから来い! お前らはとにかく、アンナをさっさと連れて来い!」  僅かに開かれた隙間から、本山はがなり声でまくし立てた。 「いえいえ、それが厄介な事になってましてね………」 「帰れ。アンナを連れてないのなら、価値無い。帰れ!」  小村の言葉など聞き入れない。目に求めるものが、“現物”が映らない限り情報を合理的に解釈できないのだろう。  扉が閉まろうとした。実際、ほんの一時扉は閉じられた。  「バンッ」という拒絶的な音に、小村は割り込むように発言を挟んだ。 「アンナさんなんですが……本山さん以外の男性と関わりがあった可能性、心当たりはありますでしょうか―――?」  小村はそれこそ淡々と述べた。もちろん事実ではない。 “――ガチャッ!”  閉じられた扉は反動をつけたかのように、一気に開かれた。扉を開いたのは齢30半ば、Yシャツにトランクス一枚の前歯が汚い男である。 「ふざけるな! アンナは俺だけだ、俺だけが使える女だ! 他の男には指一本触らせない!」  静かな早朝だというのに、本山の唸る声は容赦なく発せられた。 「早く取り返せ! もし、転がり込んでいるなら、さっさとその男をぶっ殺してこい! ふざけんなよ、どうしてくれる!? あのクソ、どうしてくれよう!!?」  本山は目を血走らせ、唾を飛ばして小村を怒鳴りつけた。小村の質問によって、本山の空想に「アンナが頼った男」という幻想が生まれていた。  真実としては小村が「幻想の男」に近い。しかし、あくまでアンナが「頼った」のではなく、小村が「自発的に保護した」だけである。その辺のことを、きっちりと説明しない小村ではない。  小村をド突こうと、本山は腕を突き出した。だが、その腕は呆気なく掴まれ、無為に終わる。 「……あぁ!? 何掴んでんだ、放せや、このクソ!」 「―――嘘だよ、本山。アンナさんはネットカフェで見つかったんだ」  本山の腕を捻りながら、小村が嘘を撤回した。 「アンナさんはふしだらな女じゃぁないよな。彼女は今、保護されているのさ……」  グッと強く手首を握られて、本山が「い、いひぃっ!」と鳴き声を上げた。  本山は小村の急変に意識がまったく追いついていない。一方の小村としては、本山のような人間ほど慣れた手合いはなかった。  パチ屋のスタッフ時代、それこそ客は千差万別、多種多様だった。無論、マナーの良い、純粋に玉入れを楽しんでいる客が多い。  ところが、ところが。中にはせっぱつまってギリギリの状態でパチンコに挑み、危機が迫れば反則手を使ってでも脱しようともがく輩がいる。  持ち金の権化である銀の球を護ろうと、道理も何も忘れて突っかかってくる客を、小村は幾人もあしらってきた。  基本はひたすら耐えるのだが、明確な違反には強気に打って出ることもある。何事にも“限度”というものが存在すると、時には教える必要もあった――。  苦痛に歪む本山の顔面を、暇している右手で掴む。頭部を掴んだまま反動をつけて、思い切り本山を押し飛ばした。 「あ、いっ――いぅっ――!」  玄関の内側、廊下に倒れてもがく本山。その隙だらけの様は、小村が平然と扉を閉めてから、落ち着いて踏みつける猶予を十分に与えていた。  胸板を踏みつけられた本山は、咳き込みながらも「た、たすけ――」と何かを言おうとした。  だが、本山は最後まで発することができなかった。鼻頭と上唇の間、人中という急所の近くに“鈍く光る金属物”を突きつけられたからである。  口で途切れ途切れに息をしながら、本山は不安そうに聞いた。 「え、エアーガン?」  ニュアンスとしては、「どうせ偽物の“拳銃”でしょ」という意味だった。 「見た目じゃ解らないよな……俺だって初見は同じこと言ったよ。まぁ、撃てば解るから――撃とうか?」  小村としては撃つ気は無い。本山としても、「本物」だなどと確信はしていない。  だが、脅しとしては十分である。実際エアーガンないしガスガンでも、至近距離から顔に撃たれたらたまったものではないし、最悪そのグリップで殴打されたらもっとキツイ。 「か、勘弁してくれ‥‥なんで、なんで俺にこんなことをするんです―――」  目に涙を溜めながら、本山は唇を震わせていた。  顔の造形や年齢に関係なく、人間の怯えて悲しむ様に直面した場合、通常の神経なら少しは狼狽えるものである。  小村はもちろん、いつもなら「情け」や「手心」が芽生えただろう。しかし、アンナの傷を見て、アンナの境遇を聞いた小村にとって、本山はそれらの一切を与える相手に思えていなかった。 「不思議か?」 「は、はい。なんででしょうか?? どぅ、どうして僕にこんなことするんですか? 僕は金を払った側、お客なのに、どうして辛い思いさせるんですか?」  本山はひぃひぃと言葉を切りながらも、不条理に抗うように本心から小村に問いた。 「お前の妻を探すことまでが仕事だ―――俺はな、アンナに会ったんだよ。アンナは傷だらけだった、お前が暴力で傷つけたんだ」 「あ! ぼ、僕とあ、アンナが――そんな、それは、それで……」 「まだ解んねぇか!! 自分の妻ボコす野郎は頭が麻痺してんのか!!?」 「ひぃぁあっ!! ―――そ、そん、そんそんな、そん……だってって、ぼ、僕は間違っていない……か構わないはず……」  体の各部を震わせて、必死に拳銃を遠ざけようとする本山。その姿に苛立ちを強めた小村は、本山の腕を強く叩いて払った。  呻き声を上げてついに泣き始める本山。廊下の電気は点いており、奥の部屋も明るい。  本山は本来が「罪悪」を感じるボーダーが高い位置にある人間なのだろう。ある程度の段階までなら、悪事を思い切って実行できる人間なのは間違いない。  だが、本山がしきりに小村へと「疑問」を訴えかけるには、通常考えられる物とは別の理由がある。ネットカフェで高山が発した言葉は全て、それを前提として考慮したものだった。  とはいえ、それでも“限度”はあるべきなのだが……。  人間とは、他の人間に「プライド」を求める生き物なのだろう。プライドが無い状態をあえて求めているのならいざ知らず、そうでないなら「情けなさ」を前にして、呆れて無意識に目を逸らしてしまう。一応は、同族の人間が弱る姿を見たくないのが本質なのか。  小村は怒りと共に、本山の折れた態度に呆れた。  その心の隙に、ふと廊下の先。奥の部屋に視線をやる。  部屋の壁には遠目で「ポスター」が貼ってあるように思えた。しかし、改めて見るとあまりに枚数が多すぎると感じる。  ただ多いのではなく、電灯の光に照らされているそれらは、アイドルのブロマイドではない、と判別できた。小村はギョっとして、本山の存在も忘れて息を呑んだ。  本山を置き去りに、ゆっくりと部屋に入る小村。  部屋の中には壁だけでなく、天上や家具・家電にすら、女性が写っている写真が張り付けてある。一目で何枚か解らない。数えるもの大変なくらい張り付けてある。  写真はプリンターで光沢用紙に印刷され、B4やA4サイズに拡大されていた。内容は一様に、女性が嗜虐されている様を「記録」したものである。  器具を用いて正に痛めつけている場面や、衰弱した女性の様子を観察するような構図、拘束されて身動きできない姿を写したものもある。  被写体は全て、アンナだった。彼女のこの半年間は、本山の部屋に飾られていた。  小村はしばらく意味を解せず、理解するまでそれらを見てしまった。掲示物の意味に気が付いて、ようやく強いショックと共に部屋を飛びだそうとした。  振り返った小村に、前歯の汚れた男が涙と鼻水を垂らしながらすがり寄る。 「見るなよォー、見るなよォォォ~! 俺の、俺だけのアンナを見るなよォォ………あれは俺が買ったんだからぁ、俺だけが好きにして良いんだよォォォォーーっ! だから、見るなよォォォ……見んなをォォォッォ………!」  本山は泣き叫びながら小村の肩を揺すってくる。 「う、うぉオ!?」  小村は本山を突き放して、後退した。しかし、部屋の中にはアンナの悲惨な状況を写した写真がある。  小村はこれ以上そんなものを見たくなかった。  本山を押しのけて、事実から逃げるように玄関へと走った。  閉じた扉を背にして振り返る。奥の部屋は遠ざかったが、まともに顔を上げられない。  突き放された本山は地面にうつぶせて、ひたすらに嘆いている。 「ひどい、酷過ぎる……俺はちゃんと金も払ったのに、契約から何一つ違反していないのにっ、まだ2回しか作ってないのに! 酷いぃ!! 何でも俺の言うとおりにしなきゃいけないハズなのにぃっ、俺は、ご主人様なのに………!」  ――もう、本山に理性ある会話は不可能な状態である。完全に自分の中での葛藤で手いっぱい。余裕は1里も無い。  小村も信じられない光景を目の当たりにして、半ば放心状態に陥っていた。  それでも再燃した怒りのままに、本山へと罵声を浴びせる。 「てっ……てめぇは許さねぇ! 本山、お前は人間として生きてちゃダメだ! 狂った生物だ!!」  小村自身、どうにか捻り出した罵倒であった。しかし、声を発して我に返ると、「脅し」てどうにかなる相手じゃない、と小村は悟った。同時に背筋を冷たい感覚が奔り、うつぶせている「本山」という異物に対する不安が、悪寒となって小村の精神を襲った。  手にしている拳銃を両手でしっかり構えて、本山に銃口を向ける。攻撃者の発想ではなく、怯えた防衛本能からの構えである。 「俺の物だ、俺の奴隷だ、俺の便器だ家畜だ玩具だキャンドルだ――ああ、畜生、畜生………」 「おい、おい―――おいおいおいっ!」 「俺の、俺だけの、俺の俺の俺の‥‥‥お・れ・の・ア・ン・ナ、だ―――」 「――――お前さ、人を―――アンナを人とも思わねぇのか? 可哀そうとか、大切にしたいとか、そういうの、ゼロなのかよ………」  会話の成り立たなくなった本山を見て、小村は銃を下ろす。  小村の胸にはある覚悟が生まれていた。  自分が甘かったと痛感した。高山もまた、何も解ってない奴だと恨んだ。  小村は拳銃をベルトの後ろに差し込み、扉を開いた。  それほど時間は経っていない。外の暗さは相変わらずだった。  外に出て、扉を閉める前にもう一度本山の姿を確認する。アンナをこの家に帰すということがどれほどのことなのか。自分の意識にしっかりと刻み込むために………。  質の良いアパートへと戻り、自室へと向かう。ほとんど前は見えていないに等しいが、時折壁や柱に肩をぶつけながらも、慣れた道のりを戻ることができた。  部屋に入れば女の子の寝息があった。良く眠っている。安心して眠ることなんて、この半年は無かったのだと、今なら具体的に想像できる。  頭の整理がつかないまま、床に敷いた布団に膝を着いた。  眠ろう……寝て、起きたら夢だった―――と、なればいいのだろうか?  何がどこまで夢ならいいのか? どうなれば、どうすれば救われるのか……?  仮定することすらできず、混乱。暗澹の意識でアンナの眠るベッドを見つめる。  横向きに眠るアンナの寝顔―――それを見た小村の脳が、写真のアンナを重ねた。  小村は蹲って頭を抱えた。やめてくれ、ごめん、俺は最低だ……自分を責めて、その情けなさに涙が溢れた。  ――「本山」という人間は、過去の不条理な客たちと大きく違いは無かった。しかし、置かれている状況、発生している問題に激しい差異がある。  小村の誤算はこれであり、小村の甘さもここに出た。金ではなく、人――それも女性を主軸とした案件の可能性を侮っていた。  実情を確認したことで、小村の胸中には頑固な“クサビ”が打ち込まれ、彼の行動を決定付けることになる………。 ACT/2  午前10時。高山商事の事務所内、椅子に座ったまま涎を垂らしている高山の姿がある。  日光がやんわりとガラスを抜けて、事務所に光を与えていた。 『 ~ ♪』  くるみ割り人形、「行進曲」のメロディーがオフィスに流れた。 「うぉぅ!?」  跳ねるように立ち上がった高山は周囲を見渡している。携帯を探しているのだ。眠気眼のまま、焦りでデスクの上のガラクタを次々と落とす高山。  ようやく自分の後ろポケットの異物に勘付いて、「やべやべ」とそれを取り出した。 「はい、すんません、高山です」  通話に間に合ったことで安堵し、高山は椅子にふっかりと腰を下ろした。 「――! あ~……はい、おはよう御座います……それで、一体、なんの話でしょうか?」  高山が相手を理解すると、彼の神経に「ギクリ」と嫌な感じが通過した。  上司だった。正確には彼に仕事を卸す一人である、親会社の常務様であった。  常務様はさすが、常務というだけあり、声の迫力は重厚で、対面すればドスで付けられた顔の傷が恐ろしい人間である。  無論として一般の重役ではない。某所の“若頭”を肩書きとする、立派なヤクザ者である。  その常務様が朝も早くからわざわざ連絡を寄越したのである。あまり良い事ではない、と瞬時に高山は察した。  そして案の定、良い話では無かった。ここから30分、寝起きの高山は常務様からの「お叱り」と「詰問」を受けることになる。  終始、「存じていないことです」「申し訳ありません」「事実関係を把握しだい……」と通話口にへこへこと頭を下げ続ける高山。  昨日、高山が「一晩が限度」と小村に言ったのは正しい読みと言えた。しかし、まだ猶予があったはずなのだ。ネットカフェで高山達が“アンナを確保した”こと。これについて高山が黙秘を継続しても、あと半日は上役からのお叱りは来ないはずだった。  ――切羽詰った早朝の「お客様」は、日の出の頃に電話を掛けた。  それは小村の行いに対するクレームである。報復ではなく、「助け」を求めるような……彼を客として考えれば当然のクレームだった。  信用問題は最優先に解決しなければならない、デリケートなアクシデントである。些細な事でも甘く見て、噂が伝播して誇張されれば取り返しがつかない。  小村の正義感は、ネメシス社の対応を早める起爆剤を生み出してしまった。スイッチは本山の電話で、それは既に爆発して常務様が動くに至る。  高山は言葉を濁し、小村をかばいつつも、「アンナを確保したこと」「アンナは小村の家にいること」を言わざるを得なかった。危機感を覚えた企業に融通は無い。アンナの状態に関する事実を述べても、「それどころではない」とクレーム対応を優先された。  確認のため、「人」が遣われてくる。  嘘の居場所を伝えることはできず、高山はどうにか「本人から確認を取るまで待ってください」と、猶予を貰うことで精いっぱいだった。  通話を終えて、疲労でうな垂れる。しかし、参っている場合ではない。  再び携帯を耳元に、今度は高山が電話を掛ける番である―――。 ACT/3  高山が通話口に一生懸命頭を下げている頃。小村の家では静かな時間が流れていた。  先に目を覚ましたのはアンナ。起きたら見慣れぬ部屋なのでキョロキョロと混乱していたが、しばらくして昨日のことを思い出し、「マサヒコ……さん?」と呟いた。  「小村 政彦」は布団を被ってビクともしない。  布団のせいで政彦の姿が確認できず、アンナは落ち着かない様子。不意に、床にある布団の塊から“ンゴッ!”という人のいびきが聞こえた。  アンナは驚いて掛布団を口元まで上げたが、布団の中身は政彦なのだと気が付き、安堵した。  アンナにとっては信じられない朝である。ゆっくり眠って、起きても自由に動けるし、戦々恐々と男を起こす必要も無い。周囲に、見るだけで悲しくなる世界も無い。  「朝ごはんを作らなくては」と思ったアンナだったが、勝手に台所を使っては悪いな、と、政彦が起きるまで待つことにした。  たった一晩の付き合い。名前以外、まともに知る人ではない。  政彦が自分を騙して、今よりも切ない環境に連れ去る――そんなことを考えて、逃げ出しても仕方ない。  だが、アンナは逃げるどころか安心して、再び眠ることができた。  アンナは、怯えることに疲れていたのかもしれない。毎日24時間辛くて、僅かにも見えた光があるのなら、身を委ねたいと思っていたのかもしれない。  散々に虐待する人間の目を見てきたアンナは、政彦の「優しい目」に敏感に反応して、彼の心を感じ取ることができたのだろう。 『 ~ ♪』  ベッドと布団の間。机の上に置かれた小村の携帯から、刺々しいメロディーが流れた。  ビックリしたアンナが起き上がる。メロディーは鳴り続け、止まらない。  どうしたらいいか。政彦は起きる気配が無い。  意を決してベッドから降り、そっと布団の塊をゆすった。 「ま、マサヒコさん、電話鳴てますよ~」  懸命に布団を揺らすアンナ。すると「ガバリ」と布団が巻き上がり、政彦が半身を起こした。  アンナは少し怖がって、身を引いている。  政彦は呆然とアンナを見つめた後、顔を赤らめて「お、おはよう!」とはにかんだ。 「……おはようございます、マサヒコさん」  穏やかに微笑んでいるアンナを前に、政彦は舞い上がって「いやぁ、うへへ」と照れを隠せない。  メロディーがサビに入った所で、ようやく政彦は携帯を手にした。 (んだよ、朝からしつこい奴だな……)  空気を読んでくれ、と思いつつ、着信相手を確認した政彦。相手は彼の“上司”である。  いつも呼び出しをすぐ諦める高山が、今日はこれだけ鳴らしたことに。小村は警戒心を抱いた………。 ACT/4  午前10時。国道を無数の車が行き交っている。ラッシュの時間ともなれば、更に倍以上の車両が列を成してアスファルトを埋め尽くす。  排ガスの風を受けながら、小村は歩道を歩いていた。向かう先は高山商事、彼の職場である。  時間からして遅刻もいいところだが、高山商事の商いは不定期にして不規則。明確に何時に出て何時に退け、ということも無い。一応、規定では9時~18時となってはいるが、そもそも事務所の上に住む高山が時間を守っていない。  小村は合鍵を持っていた。不規則な事業で、社員が鍵持ちというのは割とある。案件によって社員の出勤が大きくズレるためである。  鍵は開いていた。既に高山は中で待っている。 「チワッす……」  小村の出社はいつものように、低いテンションで無愛想なものだった。 「――よぉ、おはよう。今日は天気良いな」  不精なオフィスの最奥。窓際の机から高山の声が聞こえる。逆光で、サングラスの僅かな反射以外はシルエットでしかない。 「いつも天気の話なんかしないのに、どうかしたんすか」  小村はソファに腰を下ろして、「ははっ」と小さく笑った。 「コンマサ、たまにはデスクの前に来いよ。椅子、そこにあるだろ?」  高山は雑貨を追い詰めてあるフロアの端を指差した。 「いいっす、このソファが好きですから……」 「そうか、なら、そのまま聞け」  高山は向き直って、小村に視線を合わせた。小村は低いテーブルの上に煙草の箱を置いて、中から一本取り出した―――。  デジタルの目覚まし時計は音を立てない。静寂の時が流れる。  高山は電話で「来い」とだけ伝えて、詳しく物を言っていない。それでも、小村には何が起きたのか解っている。――というより、何か起こした張本人が小村である。 「コンマサ、お前は今朝何処にいた?」 「何処って――自宅ですよ。アンナもいますしね」 「時間を指定しようか。早朝5時から7時くらい……何処にいた?」 「………そんな具体的に聞くくらいなら、答えるまでもないでしょう?」  火を点けないまま、煙草を指で弄ぶ。 「コンマサ、お前は脅して解決付けたつもりかもしれんがな、全っ然解決してねぇんだよ」  高山は若干に声を荒げた。 「知ってますよ、当事者すから。しかし、奴が電話でもしたんすか? それとも既に誰かが監視してたとか?」 「知ってるだと? ………本人から苦情の電話が本社に行った。やっちまったよ、お前は――」  高山はデスクに肘を着き、手の甲で額を支えている。今朝の怒りの電話を思い出したからである。 「俺が間違ってんすか? ――高山サン、本山は単なる暴力オヤジじゃないっすよ。狂ってる、イカレてんす。人間とは思えないくらいにね!」  小村は目を見開いて、高山を睨み付けた。早朝の光景を思い出したら、怒りが沸々と蘇ってくる。  残虐にアンナを辱めた人間が、のうのうと生活しているだけでも狂っているのに、その上クレームを聞き入れるなど……それこそ正気じゃない。  実態を知らないから高山は、その上役は対処をしないんだな。普通の客だと、本山を誤認しているな――小村は内心、彼らの無知を恨んだ。  そうではない。確かに高山は本山という人間をよく知ってはいないが、彼の上役がそれを知ったからといって手を打ちはしないだろう。 「高山サン。あんたらは知らないから、見てないからそんな暢気を言えるんすよ。本山は客じゃない、犯罪者だ!」  小村は回想の中の本山を破壊するように、拳を低いテーブルに叩き下ろした。  鋭く衝突音がフロアに響く。  高山は、小村という男の怒り様を見て、察した。本山 アンナは単に手荒くされていたのではない。もっとどす黒く、陰湿に、卑猥に尊厳を奪われていたのだな―――と。小村のかつてないまでの気迫に、高山は教えられていた。 「――コンマサ、お前は間違ってないよ。その怒りも言い分も、全部正解だ。きっと、現場を確認すれば俺もお前と同じ感情になる。ただな、“巡り合わせ”が悪かったんだ………」  高山の表情は、とても悲しそうだった。小村の心が解るから、そして、自分の矛盾が苦しいから……切なかった。  何より、小村を称賛して、支持したかった。彼に薄汚い事実と、仕組みを伝えなければならない自分が、たまらなく嫌だった。それはつまり、小村を踏みとどまらせる作業である。  この後、高山は立場と保身の危機感に押されて、事の裏事情を小村に伝える。それはとても情けない男の姿と言えるだろう。 「……アンナはな、どうしてこの国に来たと思う?」 「どうしてって。結婚して、嫁入りのためでしょう」 「本山――夫の方の本山は国外に出たことが無い。その状態で、アンナは“結婚前提”でこの国に入った。見合いどころか写真も知らないで」 「? それじゃ―――え………?」  小村は思い出した。  喚いてぐちゃぐちゃな鳴き声のような言葉だったが、断片的に理解できた本山の言葉に、気になる単語があったことを。 「アンナは“雇われた”妻だ。最低でも1年間、本山の家で妻となる契約が交わされている」 「――買った、てことすか? 金払ったって、そのことなんすか……あの野郎ッ!!」  小村は、本山がしきりに「金を払った」「客だ」と言っていた真意を悟って、早とちりに声を荒げた。今にも事務所を飛びだして、再び殴り込みに行きそうな小村を、高山は語りを続けることで制した。 「本山の認識は知らないが、買ったってのは都合が違う。雇われた、仕事を与えられたってのが正しい。  解りやすく例えようか。アンナの立場は、祖国で派遣会社に登録し、業務内容を知らされ、その上で職場に派遣された期間作業員のようなものだ。アンナは派遣登録をしなければこの案件にはぶつからないし、業務を聞いて拒否することもできた。“一応”はな」 「―――は?」 「今回の件は様々な意味で異常事態だが、それでも書面を神様として裁きを下せば、アンナは本山家に戻らなければならなくなる………」 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! アンナが悪いって言いたいのか!?」 「そうは言っていない! 言っていないが、しかし。彼女にも今回の事態を回避するための選択肢が幾つか存在し、選んでしまった事実はある」 「―――解んないすよ、それ。脅されて連れてこられたかもしれないじゃないすか!?」 「そうかもな。アンナに、選択なんて無かったのかもしれない。だが、それが事実だとして、そのことで裁かれるべきは派遣元であり、雇用主の本山ではない」 「………高山サン、あんた、何言ってんだよ………なんなんだよ、畜生――――」  人間が人間の尊厳を虐げていた。だから助けたい――ただ、それだけのこと。  誰が聞いても明瞭に善悪が付くと思うことなのに、何故こうもゴチャゴチャと討論する事になるのか。小村は怒りの矛先を見失いかけたが、すぐに狙いを定め直した。 「業務だ派遣だ、そんなことはどうでもいいんすよ――アンナが、女性が腐れた男に暴行受けてんだよ! 助けられないなんて、馬鹿な話があってたまるか!」  小村は納得がいかない。それはそうだろう、説明する高山自身、納得などできているわけもないのだから。 「そうだよ、小村、お前は正しいさ。ただ、俺も不思議なんだが………なぁ、コンマサぁ。“人が人の尊厳を傷つけてはいけない”ってのは、何が決めることなんだ?」 「決めるも何も、誰だって常識として知っていることでしょうが」 「その常識ってのは、おばあちゃんの知恵袋みたいに、家の縁側で老人から語られる話、そっから、TVで放映される何気ないバラエティ番組のトーク……そんな、日常耳や目に入る情報から人の中で定まるものだろう。  ならば、家庭での小話から公共電波の内容まで、語る内容に関する“基本のルール”ってのを取り決めるのは何か―――それは“法”ってやつさ。つまるところ、これが無いと言い争いレベルでの解決しか人間はできないからだ」 「? 何言ってんすか、関係ないでしょ、そんなん」 「コンマサぁ、“法”が関係ないってことは道徳、倫理観念が関係ないって言うのと同じだぜ? ――まぁ、この場合、法の内容なんてどうだっていいんだ。  コンマサ、これは何もこの国に限ったことじゃなく、法のある『国家』として認められる国なら大半に言えることだが………。  その場での法に収まっていない人間はなぁ、基本的に“悪”なんだよ。サッカーの試合中にトチ狂ったサポーターが乱入したら、問答無用で退去させられ、非難の対象となるだろ? あれはルール違反だからじゃない、そもそもルールに無いモノは異物となるから取り除かれているだけだ」 「だから、話題を逸ら――(!?)――――……高山サン、アンナは………」 「そうだ。アンナは事実としてこの国に存在してはいるが、書類の上では祖国から出ていない。夫婦ってのも現段階では違う。調べれば解るが、彼女の苗字は本山ではないのさ」  高山の話に、小村は「マジか……」と心中で呟いた。有り得ない話ではないが、実際にこのケースに当たったのは初めてだった。  しかし、小村は同時に光を見出した。今の小村は、アンナを本山宅から解き放つことを最優先に考えている。 「……不法滞在者って、捕まれば国に戻されるんすよね。つまり―――」 「コンマサ、言いたいことは解るが……危険な発想だ。捕まった地域によってはここに連れ戻されるし、国に強制送還されても、アンナは仕事を放棄、失敗した人間となる。こんな仕事に回された娘だ。祖国では令嬢ってこともないだろう。  後ろ盾の薄い、ミスをしでかした女がどう扱われるか――想像付くだろう」 「――本山を務所に突っ込むなりできないんすか?」 「できるさ。さっきは屁理屈を言ったが、やってることは人身売買に婦女暴行、監禁だからな」 「へ!? ……じゃ、じゃぁ、とっとと突き出しましょうよ。それで解決でしょ!」 「コンマサ、不可能に近い話だが――例えば。本山を警察に突き出して、バッチリ投獄されたとしよう。当然として、アンナの入国経緯なども問題となるな」 「アンナは、罪に………」 「いや、それもそうだが。何より、アンナの派遣元に捜査が入るだろう。国外故、即座に介入、根絶なんてならないだろうが。少なくとも、事業は停止しないといけないな。ついでに、本山以外の客達も軒並みアウトだ。派遣されていた女性達もガンガン裁かれる。派遣元の信用も何も無いだろう、事実上の廃業だ……」 「――しかし、それでもう、アンナのような被害者はいなくなるでしょう?」 「一企業、一業務が崩壊するんだ。危機を感じる相手の規模と、強引な抵抗の大きさは比例するんだぜ。何とでもして事態を“平常”に戻そうとする。  それにな、コンマサぁ……“異常事態”だって言ったろ。本来なら、この手の案件における被害者は『雇用主(本山等))』になるはずなんだよ」 「――いや、だから! どう考えてもそいつらが悪人でしょ!」 「今回の案件を見ればそう思うことも間違いではない。ところがな、大抵、遣わされた女達は雇い主に愛という枷を付けて、自ら取り入る。  大体、異国から金で女を娶ろうって連中だ。雇い主ってのは女に幻想を抱いて婚期を逃し、すがる想いで金を払うようなのばかりでね。女としては、これほど絞りやすい人種も無いだろう。  だから、この手の事で俺達に回ってくる依頼の大半は、“妻に金を抜き取られた”だの、“せがまれるままに借りた金を返せない”だの、“いつの間にか妻の親族が家に大挙して押し寄せてきた”だの、雇い主側からの悲鳴みたいなものが多いのさ。1年経って、雇い主が強制的に結婚させられる場合もある」 「―――え」 「“1年間”って契約の最低ラインもミソで、被害者の多くはここまで我慢して、契約を延長しない。つっても、その1年で何もかもを奪われてんだから、どうしょうもないわな。期間以下での解約は違約金が発生する。これを稼ぐってのも彼女たちの仕事の1つなのさ」 「――――なんすか、それ。悪徳なんてものじゃ………え? ん、うん??」  話を聞く内に、小村は世の中の何が善で悪なのか、解らなくなってきていた。  ただ、尚も確実なこと。  アンナは高山の話に出た“悪女”の類ではなく、純粋に、幸せを求めていただけの、ごく普通の女だということ。  そして、彼女が虐待を受けていた事実はまやかしではない。 「コンマサ。お前の言い分も気持ちも、間違ってない。ただ、俺達の立場が派遣元と契約し、相互に利益と保護を交換する関係にあるってだけだ。俺達個人は違くても、親会社、上役連中全てがこれに準じている。  言っただろ、巡り合わせが悪かったって………」  ‥‥‥先ほどからそうであるが―――高山の発言、それは確かに事実関係を述べており、「間違ってはいない」。  が、しかし。それはまるで嫌々仕上げた読書感想文のように、「~だから」「~なので」と、あるがままの現実、体験、情報に沿った意見でしかない。  小村は気が付いていた。高山の発言は全て、「言い訳」なのだと。  ―――高山は少なくとも今、小心者だ。チキンである。  年齢は30に手が届くといった所。若さでの「気概」が薄れ、脳は体の劣化を予感して「安定」を求めておかしくない。生来の意気地の無さを庇う気力が薄れている。  丸くなった、というやつだろうか。いや、そもそも尖っていたかどうかが怪しい。  COINSという巨大な人間集団に身を置く内に。何時の間にか、“志”まで取り込まれてしまっているのかもしれない。  小村は若い。実年齢云々ではなく(それもそうだが)、何より精神が「若い」。稚拙だということではない。無論、その面もあるだろう。  しかし、精神の年齢における「若さ」は活力を生み、常に誰構わず閉じ続ける「命の残り時間」という扉を押し返すパワーを湧き上がらせる。  そこが、心まで老いた高山とは違う。小村の良さであり、同時に危うさでもある。 「アンナの引き渡しは俺達の仕事じゃない。俺達は、“アンナを確保した”時点で必要業務を終えている。お前のやらかしたことに関しての“謝罪”も、上役が上手くするだろうさ。  上役方には俺の方から精一杯伝えるよ。アンナがどんな目にあっていたのか、そして本山という人間の異常性を――奴らもあれで人間だろうから。常務辺りなら、情をかけてくれる可能性がある」 「……謝罪ってなんすか。完全に俺が悪人で本山が善人なんすね」 「いや、ちげぇって。今朝の行いに関してのみ、お前の暴行罪ってやつだろう?」 「―――まぁ、いいや。ともかく、本山には“ごめんなさい”で、その後アンナを“どうぞお続けください”つって頭下げて渡すんすね。 解りました」 「コンマサぁ……だから、お前の気持ちは解るって。だが―――」 「高山サン」 「―――なんだ?」 「俺もあんたの立場は解るし、考え方も“そういうのもあるなぁ”って感じですよ。だからね、俺は俺で、高山サンは高山サンで……それでいいじゃないっすか」 「うん。ん? ああ――ん? ど、どゆことだ?」 「(ふっ)、高山サン。俺ね、これでもあんたのこと尊敬してんす。助けてもらったってのもあるし、なんかツルんでると暇しないすからね(手がかかって)」 「え、、、ちょ、おいおいっ、なに、どうした急に!?」 「そんで、いつも思うんすけど―――高山サンって、イヌ科かネコ科で言えば、抜群に犬っすよ。そんな大っきくない犬」 「・・・おい、マジでどうした。確かに今回の案件はやるせない、辛いものだが……コンマサ、俺がお前にアンナとの宿泊を許可したのはだな―――」 「高山サンはね、今飼い犬っすよ。人間という未知でハイレベルな奴らの家族になって、喜んで尻尾振ってる飼い犬!  でも、違うでしょ。高山サン、本当は小さくても群れを率いるリーダー、“ボス犬”が“らしい”んすよ。威厳とかそんなんない人だけど、高山サンの上に人がいるのって、なんかつまんねぇです」 「か、飼い犬……ボス犬……俺が、、、犬!?」  高山は小村の言い分をまったく理解できない。普段、こんなことを言う人間じゃないのだが……ここでの小村は、明らかに“トんでる”発言を行った。  可哀そうな状態の人を見る目で、高山は小村を見ていた。  小村自身も言いたいことは言えたが、その言いたいことがなんなのか自分でも完全に整理できておらず、口を尖らせて頭を掻いている。 「まぁ、そんなのが――この1年、あんたを見てきた部下の感想です」  小村は不思議と爽やかな表情でソファから尻を離した。  自然なままに事務所の扉を開いたので、慌てて高山が引き留める。 「コンマサ、どこ行く!?」 「――アンナを引き渡すんでしょ、だったら事務所がいいんじゃないすか? “どこどこへ連れて来い!”、なんて言われた場合も、ここの方が対応しやすいでしょ」  飄々と、小村は至極理に叶った意見を述べた。 「あ、うん。そうか―――すまんな。アンナには、どう言えばいいかな………」  いざ、アンナが事務所に来ると実感して。高山の精神は気まずさをヒシヒシと予測し始めている。 「さぁ、そこは高山サンの“考えのパターン”っすから。いろいろ仮定してみればいいのでは? そんなところも加味して……昼過ぎくらいですかね、ここに戻ります」  小村は意地悪そうに。ちょっとした仕返しをするように、悪戯に笑った。  高山は「あー、やっぱなんとかならんかな、そりゃそうだよな、どうしよ、どうしよ…….どぉうしよぉう!」と、デスクで頭を抱えている。ここにきて決断が鈍っているようだ。本当に辛いから、胃がきりきりと痛む程。  小村は扉を閉める前、30秒は考えていた。  高山商事の乱雑なフロア。本棚には高山が購入する少年漫画のコミックス。別の本棚は、高山が衝動買いを繰り返した結果、カテゴリー分けできない状態にある雑多な二架。  テーブルの上にはコーラの空ペットボトルが3本並んでいる。  逆光の中で、事務所の扉から見た最奥の高山は、頭を抱えたシルエット人間でしかない。  高山商事の扉は閉められた。階段を下って行く音が聞こえる。  小村は隣のラーメン屋で、醤油ラーメンと半チャーハンのセットを食べて行くことにした―――。 ACT/5  自宅へ戻った小村。アパート正面、自動ロックのドアは居住者以外に開けない。  小村は玄関前に立ち、カードキーを取り出した時点で気が付いていた。  鍵を失くしたのか、それとも知人の出迎えを待っているのか……。  視界に入ったその男。銀に近い白髪で、細身の体躯。目尻の上がった目が性格のキツそうなイメージを初見に残す。  高山の不細工な染の金髪とは違って、ナチュラルに、天然な様子の白髪。老化によるものではなないらしい。男の年齢は高く見ても30には届かない。  今の時代解ったものでもないが……顔つきは異国の、西洋の人間だと思える。少なくとも間の子だろう。  居住者以外を拒む自動ドアの前。白髪の男はアパートのコンクリート柱に背で寄り掛かり、両手をズボンのポケットに刺している。見ようによっては「鍵を落として、どうすっかな?」の光景である。 「鍵、失くしたんですか」  何気なく、小村が言葉を掛けた。 「……いえ、知り合いを待ってます」  白髪の男は、年齢以上に若々しい、透き通った声で返す。 「インターホン、そこにありますよ。部屋の番号を押せばいいんです」 「いえ、急かすのも悪いし。それに、留守だって解っていますから」 「? ‥‥‥あ~、帰ってくるのを待っていたんですね」 「いえ、特に。 出てきてから が私の仕事ですから」 「はぁ、そうですか………」  小村はカードキーを通してドアを開いた。  一歩踏み出して、一言、話の最後に添える。 「余計なお世話でしたかね」 「いいえ、とんでもない。有意義でしたよ。辺境の島国で1人、暇だったので………」  白髪の男は狐のような細い眼光を、チラリと小村に向けた。  自動ドアが閉じて、ロックが掛かる。  白髪の男はもう、小村を見てもいない。変わらず、手をポケットに仕舞ったまま柱に寄り掛かっている。  何度か振り返ってその男の姿を確認しつつ、小村は自室へと向かった―――。  「ねぇ、遠くに行かないか。僕と一緒に」  「とお――く?」  「そう、遠い場所。君の祖国でもいいさ」  「……お家、帰らないとでしょ?」  「帰りたいのかい?」  「……………」  「なら、帰らなくていいさ。自由になるんだ」  「……私、日本よく解らない。お金ない、どこ行く知らない」  「俺が案内するよ。大丈夫、これでもちょっとは貯めがあるんだ」  「――――。」  「ん、どうかした?」  「なんで……、なんで優しくする? 私、昨日出会ったばかり」  「“好きになった”」  「――?」  「君が好きなんだ、俺は」  「―――!」  「ずるいかな……君と一緒にいたいから、君を連れ去るんだ」  「……私、」  「あ、いいよ、いい! 俺を好きじゃなくてもいいさ。勝手に、俺が君を好きなんだ」  「……………」  「えっと、そうだな。急に、困るわな……ごめんね」  「違う――私も、私もマサヒコさん好きです。勝手には、違うますよ?」  「え―――――っっっ!!? あ、アンナさんっ!」  「でも、ごめなさい。私、傷だらけ、体の全部、何もかも――だから―――」  「関係ないっ! そんなもん、関係ねぇっっ!!! 俺はアンナさんが好きなんだ!!」  「……ごめなさい。私、どして……綺麗に、マサヒコさん、会いたかった―――」  「アンナさん―――綺麗だ。誰が何をどう言っても、君は綺麗だよ……愛している」  「マサヒコさん……私、ついて行く、いいですか?」  「うん、うん――ついてきて、ください……俺、ずっと離さないすから………」  「どこまでも、どこまでも………私、ついてきます、マサヒコさん―――――」 SECTION_4 「銀眼の狐」 ACT/1  午後1時。昼時のラーメン味一には、通りすがりのスーツ姿やOLがちょろちょろと出ては入っている。  いつもはその出入りに紛れている高山も、この日ばかりはそんな気分ではなかった。  小村には散々偉そうに能弁垂れたが、アンナの気持ちと過去・これからを考えれば考える程、自分の判断が間違いだと感じてくる。  小村に説いた事実関係から、己の事を主眼とすれば間違いなく高山判断は正しいはず。  だが、どうにもこれが美味くない。苦い、常に口内が苦味で満ちている。  この先も、「一人の女性を地獄に送り返した」という罪は残る。このことに法は何も言わないが、自分の心が定めた「規則」に引っかかる。いわば、己が常に己を訴えている内紛状態である。  これをあっさりと終戦に持ち込み、整理を付けられる人間が上へ、上へと昇って行くのであろう。何せ、次のステップに軽々と進めるのだから。  高山には無理だ。小村が「大っきくない犬」と言ったが、正しく小さな心(犬)である。  自分という人間誰もが持つ最低限の領土も平定できず、如何に他国(他人)の領分へと攻め込めるというのであろう。 高山には無理だ。  事務所の最奥で頭を抱え、高山は怯えていた。小村が去ってからの数時間が数十時間に思える程、苦悩していた。  正直、扉が開くことを恐れている。開かれても、入ってきた女性にかける言葉が見つからず、罪悪感から直視もできないだろう。 そもそも、女性は苦手なクチである。  開くな、まだ整理できてないから、準備できないから、もう少し待ってくれ! ――と、扉に念じる金髪チワワの男。だったら、最初から小村の意見を否定しなければいいというに……。  開くな、開くなと念じていた高山だが、それも午後3時を過ぎると念に変化が起きた。 (あれ、昼過ぎつってたのに……遅くない??)  何せ距離はそう、遠くは無い。渋滞で……信号が……そんなことはありえない。  先走って事実を話して、もめているのか? ―――と、遅刻の理由を予想し始める。  午後5時。こうなると高山の思いはいよいよ変貌した。 (いや、これは無い。変だ、おかしい! なんだ、トラブルか? 逃げられた??)  もやもやと悪い想像が思考を圧迫する。さすがに焦った高山は、携帯で小村に連絡を取ってみることにした。実に遅い判断である。  小村はあっさりと通話に応じた。彼は電話口で次のように遅刻の理由を述べた。 『あ~、すんません。彼女、疲労で体調崩して……でも、大分良くなってきたんでそろそろ出ますよ』 「あ、あら、そう……話した?」 『何を?』 「いや、ほら―――その、今後のこととか………」 『まだです。具合悪いっつったでしょ。これ以上負担はかけたくないんで』 「あ、そう――うん、解った。はい、はい………へい」  通話を終えて。高山は安堵の前に、更なる緊張を感じた。 (具合が悪いって、すでに衰弱していたのに……それ以上弱っている彼女に、鞭打つような話をするのか? お、俺が………か)  とてもではないが、想像しただけで何も言える気がしない。  高山はいよいよ一人で追い詰められて、自分の意見までもがあやふやになってきた。  いっそ3人で逃亡することも考える。そんな残酷な宣言をするくらいなら、死を覚悟で逃げ回る方がマシだ! ――という発想。小村のミスでアンナが逃げたとしても、それはそれで有りな事態かとも思い始めた。  しかし、冷静な意見としてはやはり当初の計画通りに進めるが吉。  仮にも高山には“志”がある。このまま終わっては、単に敵地で塩を生産して販売しただけの男で終わる。人が良いでは済まされない醜態だ。  そして―――午後6時。限界だと高山は感じた。  不思議なくらいだ。クレーム対応も兼ねて、本日引き渡し、と上は考えるだろうから、もっと前の時間に「使いの者」が事務所を訪れてもおかしくない。  現に、常務からの電話がかかってきた。しかし、どうにも事態が掴めない上に、言い訳もまったく思いつかない。今朝の電話で要所を報告してしまっているため、下手なことを言えば簡単に矛盾が発生してしまう。  高山は己にもっと機知があれば……と、くるみ割り人形のメロディを奏でる携帯を手に汗を流した。  結果として、高山一世一代の「着信無視」となったが、しっかりと留守電が入っているところが小憎らしい。もちろん、怖くて確認できない。これでは出世しないわけである。  高山は「ヒィヒィ」と半泣きになりながらも電話を掛けることにした。  無論、常務様ではなく、小村にである。怒るのではなく、「もう限界だ、引き延ばせないよ!」と、伝えるために。  携帯のランプがよく光って見える。  高山商事の事務所。デスクの後ろ。横に並んだ窓から入る光量が減っている―――。 ACT/2  すでに夕日はほとんど沈んでいる時刻。街の至る所は暗く、影の支配率が増していた。  小村としても、限界だと踏み切っていた。  昼過ぎの段階で高山から「限界だ」と着信があれば、やむなく白昼に実行するつもりだったが。中々「限界」の報告が入らないので、いっそそれまで待つことを考えた。暗ければ暗いほど良い。ラッシュの時間、6~8時は理想だ。  時間としてもギリギリ、悪くはない。周辺から駅までの路地は、脳内地図に網羅している。人通り、物陰を考えて、この時間なら頃合いと言える。  ――小村は知らされてなかった。いや、高山も事務所でのやり取りを前提に考えていたから、故意ではない。  アンナが小村の家で保護されていること。これが報告として上がったことを、小村は知らなかった。当然、遣われて人が来るとしても、高山商事事務所にまず向かい、それに反応して高山が「やばい、来た、限界だ!」と報せるものだと想定していた。  知っていても、僅か1時間程で配されるとも思わないだろうが……。  ともかく、もう少し“カマ”をかけてみればよかったのだろう。小村はあと少しという段階で会話を切ってしまった。  狐目の男ともう少し、踏み入って会話をしていれば………。  小村は腰の後ろ、ベルトに拳銃を差し込んだ。ジャケットの裾でそれを隠して、「ふぅ」と、覚悟の息吹き。  アンナにニット帽を被せて、セーターを着てもらう。小村用のゆったりとしたサイズなので、首元を引っ張れば口元を隠せるし、できる限り露出を抑えられる。  小型の鞄には最低限の物を詰め込む。常々、外付けHD(ハードディスク)だけはどんな緊急時でも持って行こうと考えていたのだが、小村は「かさばるか…」と呟き、あっさりとそれを残した。  着替えは道すがら、買って行こうと考える。女の子と服見るなんて、何年ぶりかな~などと、浮ついたことも小村の脳裏を掠めていた。 「行こうか」 「はい、ついてきます」 「あははっ、うん。よっしゃ!」  小村は自分の顔をパチン、と叩いて気合を入れる。  期間も距離も、何も見通しがない逃避行。不安も危険もあるが、小村はそれ以上に活力で満ち満ちていた。  アンナの手を引いて、部屋を出る。もう、自分では開かないであろう扉の鍵を掛けて、階段を降りた。  見慣れた廊下も、オートロックの玄関も、これが見納めだ。  癖で郵便受けを確認するも、「ああ、もういいんだな」と、すぐに閉じた。  小村とアンナは、開いた自動ドアを越えて、夜の迫る外の世界へと出た。  高山は「交通機関を使えば足が付く」と言っていたが、この時間はラッシュに差し掛かっている。人が多く、そうそうに見つからないはずだと、小村は読んだ。  アパートを出て、駅の方角へと歩き始める男と女。  自動ドアの前に人の姿は無かった。「帰った」ことを確認したから、だろう。案外、あれでも警告の意味があったのかも解らない。  ともかく、“電信柱の上から様子を見ている白髪で狐目の男”が注目することは、アパートを出た男女が次の交差点を右に行くか、左に行くか……である。  男と女は右に曲がった。それは、「高山商事」への最短ルートを外れることを意味する。  狐目の男は苦笑しながら電信柱を滑り下りた。  アスファルトに軽く膝を曲げて着地した彼は、「アララ…...これはどうかな?」とこぼしつつ、2人の後ろを付けて行く。  両手をズボンのポケットに差し込んだ後姿には、鉛色に焦げた危険な気配が漂っていた。  メタルのメロディが鳴る。  小村はポケットの携帯を取り出すと、「すんません、高山サン」と言って、その着信を拒否した。 ACT/3 「コンマサ~、出ろ~出ろよ~、なんで出ない~???」  タカラッタカラッと、時々リズムが狂いながらも指でデスクを叩く。  移動中で気が付かないのか、と高山は「大丈夫な」可能性を考えて安心しようとした。  しかし、あっけなくその安心は断ち切られる。コールの音は「プツッ」と、相手側から切断された。これはつまり、電話を掛けた相手が「今出れないから!」と、着信を確認した上で拒否したに他ならない。 「切った………出ないで……切った………」  高山は考えた。喧嘩後の恋人に電話をして、敢えて着信を拒否された場合の心境が、高山にあった。  「出ないよ」という意思、「話したくない」という想いが、このワンプッシュに託されている。いっそのこと「電波の届かないところか~」のアナウンスの方が、まだ希望を持つことができるだろう。「ああ、きっとトンネル内にいるんだねっ」とか。  それができない高山。現実を突き付けられた高山。  嫌な予感はしていた。だからこその電話でもある。午後6時を回って、5時間以上の遅刻。手動着信拒否に、事前の状況判断。すべてをミックスして考察すれば、高山的に最悪な、「小村はアンナをどうにかしようとしている」現状が脳内紙面に浮かび上がってくる。 (しまった……マズイ、不味いよ、コンマサ!)  高山は知っていた……否、思い当たっただけに絶望した。  報告してしまっている。高山は、既に、小村の家にアンナが居ることを報告してしまっている! (そうだ、人を遣わすっつって、この遅さはないだろ。うん、普通無い………あ! ああ、そうか。“既に”遣わしていたのか? まずいだろ、それはダメだろ? 俺って、そんなに信用なかったのか!?)  高山も無能ではない。性能が低いだけである。  だからこの段階、5時間を超えてようやく察した。事が起きてから察しても、それは気が付いていないに等しいが。  高山は足先に小物を引っ掛けてなぎ倒しながらも、デスクを跳び越えた。  着地に失敗して転んでも、すぐに起き上がって駆け出した。  間に合ってどうにかできるか解らない、知らない。土下座くらいしかできないが、どうにかその場を収めようと、高山は土下座のために全力疾走した。  高山が何をそこまで焦るのか。それこそ、彼は“知っている”からだ。  小集団における重要な要素は「柔軟性」と「要領」である。  しかし、集団の規模が巨大化するほど、重要要素は「継続」「形状」となる。  「形状」とはつまり、「集団における通常状態、常識」である。要は、“例外”を許さず、きっちりと対処する精神である。  先にあった「クレーム対応」などは典型例であり、「商品の欠陥」「サービスのミス」など、業務上の品質に対する“例外をきっちりと取り除く動作”に他ならない。  「例外」はどんなに頑張っても生じる。これを「ゼロ」にする努力は必要だが、「ゼロ」になることは未来永劫無いと、事実をきっちりと理解した上での努力が要求される。  この、どうしても生じる「例外」をどれほど厳格に対処するか、そしてその態度をどれほど厳格に「継続」できるかは、大組織の存続に直結する問題である。  小さな裏切りも、細かな苦情のように。侮ってしまうと思いもよらぬ伝播を起こし、崩壊の亀裂となるだろう。大きな集団が数多の小集団に分裂する原因は、突き詰めればこれ以外に無い。  例外の「質」も見極めて、律儀にコツコツと対処の努力をすることで、集団はむくむくと大きくなり、存続を可能とする。  高山商事のような末端の構成員運営の事務所などは、「質」で言えば最も下層であり、業務内容からも、これへの対処は極限まで律儀にならざるを得ない。  高山は駆けた。  夕暮れも夕暮れ。夜に近い国道沿いの歩道を、小村宅に向かって駆けた。 「コンマサぁっ、バカ野郎!!! 俺はっ……、俺は言っちまったんだよぉ! お前の家にアンナがいること、報告しちまったんだよぉぉ!!」  道行くサラリーマンに肩が当たり、よろけた拍子にサングラスが飛ぶ。 「コ、小村っ、ちくしょっ、ゼィ‥ゼぇっ、早まる、なっ……   早まるなよっ………コンマサあぁっっっ!!!!!」 ACT/4  ――――分かれ道を、小村は算段通りに進んでいた。駅に近づく前、人が密集する地点までは、裏路地を通った。  裏路地とは言っても、住宅地範囲では家屋と家屋の間を通ることになる。  住宅地を過ぎて駅前との狭間地点。ここまで来るとビルの数が増え始める。  この辺りから小村とアンナはビルとビルの間、それこそ何の店舗も入ってないような空きビルの裏側を通過するようになる。  そこは日夜関係なく暗く、人は滅多なことには通らない。裏通りもいいところ。  もう少し行けば、人ごみに紛れる大通り。  大通りに出たら、そのまま人波に紛れて駅の改札をくぐる。  後は、遠くへ、遠くへ―――2人で、どこまでも、逃げよう―――――  喧騒までもう数十m。 (よし、あそこだ。あの角で曲がろう……!)  小村は見定めて、若干の安堵を感じた。  ――そこ、目標の角の前。 薄暗い路地の空気に、人の影がある。  廃ビルの壁に寄り掛かっていたそれは、のらりと壁から身を離し、2人の行く先に立ち塞がった。  ズボンのポケットに手を差し込み、僅かに口元を微笑ませて立つのは、白髪の男。  その眼は――生餌を見つけて狩りを待つような……捕食者の余裕で、鈍く銀に輝いている。 「――どうしようかと思っていたんだよ。さすがに法治国家。日々の糧には困っていてね。……ああ、東国で私は何をくすぶっているのだ、なんてね」  男にしては声がやや高く、影の中から聞くだけだと、少年の発言に思える。ツカツカと歩み寄られて光彩が宿る距離になれば、20代半ば以降の成人男性だと、小村もアンナも判断できた。 「あんた……家の前にいた―――」  小村は路地の影に出現したそれが、昼前に見た白髪の男だと気が付いた。  アンナは初見なので、これといってリアクションは起こせない。 「君さ、気持ちの良いくらいにイレギュラー(例外)だね。そうだろ? 客を殴り、脅し、領域侵犯をこなし。次いで所有権を無視して盗難、逃亡と来た。 わぁお、法の審判ですら漆黒の黒黒じゃないか!」  白髪の男は首を左右に震わせ、「ふゅ~っ」と、音のある息を吐いている。 「―――うるせぇよ、あんた」  小村は前方の薄闇から響く声の内容に、明確な不可感を顕わにした。  それは白髪の男が“小村を罰しに来た会社の社員”だから―――ではない。それはそうだが、彼にも仕事と立場があるだろう。放棄したのは自分だと、小村は弁えている。  ただ、カチン、と来たのは「所有権」だの「盗難」だのと……… 「高山サンの言った通りだな。上役とその取り巻きなんざ、情もクソも無い。本山と同じだ! お前も、アンナを人として扱わねぇのかっ!!」  拳を握りしめて、きつく睨み付ける小村。  アンナは声を荒げた小村に驚き、無意識に彼の手をぎゅっと握った。 「! アンナ――大丈夫だよ。ごめんな、怒鳴って………」  はっ、として後ろを向く小村。白髪の男はその光景に、「あちゃ~」と手で目を覆った。 「イケナイ、イケナイ。よそ見はダメだよ、プレイボーイ……」  声に反応して小村が前方を向き直ると、白髪の男の姿勢に変化が起きていた。  具体的には両手をズボンのポケットから抜き、片手を腰元に置いて余裕を顕著に。余った左手には―――微かに差し込む陽の残光にすらあざとく輝く、刃渡り34cmの出刃包丁が握られている。  刃の幅は太く、重量もありそうなズシッとした印象。  それでいて鋭利に研ぎ澄まされた、機能の美を大胆に隠さない、スレンダーなフォルムが気位の高さを証明している。 「本社の人間だからかな……君みたいな例外があるなんて、本当にワンダフルだよ。この国の企業は身内の甘えが酷いのかな?」  ファオファオと、男の左手で出刃包丁が踊る。  グリップと刃の重量バランスは大きく異なるだろうが、男は器用に器用に……クルクル回したり軽く浮かせたり、手先でコインを操る遊びのように――あたかも、左手とナイフがワルツのステップを踏んでいるかのようだ。  ‥‥‥そう、出刃包丁とさっきは言ったが、それは出刃包丁に似た、アーミーナイフの一種である。  異様で優雅な光景に、小村が息を呑んだ。 「この国だとこの場合どう対処しているのか……客人の私には関係ないね。私の作法はいつだってエレガント。秩序の出っ張りは削って滑らかに。 そうだね―――殺して、お終いさ」  ピタッとナイフが掴まれ、手の上のダンスは終わった。途端に白髪男の表情は、僅かに口元を微笑ました、赤子のように無垢なものへと推移していく。 「……生きるとか死ぬとかさ、実感なんてそうないんだよね。一回だけ、人が刺されるのは見たことあるけどさ。だから、“殺す”なんて言われても、脅せてないよ」  前戯で気圧されていた小村だが、自分の手を握っているアンナのぬくもりを心に染み込ませて、落ち着いた状態で答えている。 「誰だってそうさ。私も“ああ、この人間が死ぬのか”などと意識したことなどない。例えそのつもりになっても、所詮は口先三寸、不可能さ。 何故なら“ああ、今死んだ”と意識の確信と事実が整合した時はつまり、息絶えているわけだからね」 「いや……そんな話じゃないんだが……。単にさ、俺は殺す殺されたって世界を知らないの」  小村は緊張の為か、変に笑顔となった。 (アンナ、少しだけ手を放すよ)  小声でアンナに伝えて、両手を自由にする小村。 「アメェィズィング……やはり、この国はまともな方だ。通常、君くらいでも入門代わりに適当な体験をさせるのだがね」 「つっても………」  小村は腰の後ろに手をやると、ゾロリと一丁を取り出した。 「こいつのセーフティ解除はできるんだぜ。こうして無駄話の余裕を貰えればな!」  両手にしっかりと拳銃を握り、射撃のフォームを作る。  銃口を定めて、その先に――銀色の瞳孔が目立っている。 「どいてくれよ、なァ……“あんたは高山商事に向かって、俺は高山サンに嘘ついて逃げた”んだ。あんたのミスじゃない、高山サンのミスでもない。俺が悪だ―――俺が高山サン騙くらかして、あんたらを裏切った。そんな流れで、解決しようぜ?」  小村はじりじりと歩を進めながらも、狙いは外さない。  緊張で汗が頬を伝う。背中はぐっしょり、呼吸も一つ一つが大きい。 「アンナ、行くよ。焦らないで、そぉっとだ―――」  小村は視線を動かせない、だから、語調を強く、アンナに伝えた。  アンナは「は、はい――」と小村の後ろに付いている。小村の気迫が伝わっているのか、アンナも緊張はしているが、同時に、小村の真剣さが嬉しくもあった。  少しずつ距離を詰めて、そのまま通り過ぎようと画策する小村。  視線を一瞬たりとも外せず、瞬きすら警戒している小村に比べて、白髪の男はまぶたを閉じて、変わらず口元を微笑ませていた―――。 「……君はやはり教育が未熟だったようだ。君が提案した取引は、この段階に進んでから行ってはいけない、ハイリスクなものなのだよ。  いいかい、銃口を相手に突きつける、剣の切っ先を相手に向ける、鈍器を振りかぶって威嚇する……これらはね、“攻撃しますよ”という宣戦布告のサインなんだ。解るかな?  つまり―――例外者さんよぉ、銃口を向けられた相手は自動的に………権利と、覚悟を得るってことだよぉぉ、解るぅ???」  「カッ」と、白髪の男は目を見開いた。 「―――おい、変な動きは見せるな、何も言うな! 俺が撃てないと―――――」 「はぁぁ……ッ、、、遅いよぉ、、、、欠伸しちゃうよぉッッ!!!??」  白髪の形相が満面の笑顔に変貌したことを、小村は視認できなかった。何よりも白髪の男に神経を使い、凝視していたのに。小村は見当違いの眼球運動を行った。  ―――野球における投球術。  右打者に対し、100kmを割る外角低めいっぱいのスローカーブを見せた直後、140kmを越える速球を内角に切り込まれたら、打者は堪らないだろう。  白髪の男に関して言えば、その動きと動きの間には予備動作は皆無。間髪無く、連続して前述の投球術を披露されるようなものである。  投球の速度は人間の速さを上回るが、ボールは自在に上下左右、前後に動きはしない。  尚且つ。白髪の男の場合、動きの速度は人間よりボールに近い。  小村の背を見ていたアンナは当然として解らない。しかし、銃口を定めていた小村は今現在、この世の誰よりも白髪の男に注目していた人間である。  小村は視線をずらした後、コンマ秒の世界で遅れて銃口を追尾させようとした。狙いの前提である視線が見当違いの逆方向なのである。銃口もそれに倣ったのなら、引き金を引く勇気も何も意味は無い。  最も、これらは銃が“あれば”の話である。小村には、鋭利なナイフの奇跡の残光すら、ちらりとも確認できなかった………。  前方に引っ張られたような気がして、小村はバランスを取るために片足を少し前に出す。  とにかく、見失った白髪の姿を探すことに小村の意識は瞬時に移行していたが、霧が邪魔で前が見えない。  酷い視界だ。暗がりの路地に、濃い霧が立ち込めている―――いや、噴きだしている。  小村の片膝は曲がり、今にも膝は地に着こうと落ち始めた。バランスを崩したのではなく、急激な脱水によって立ちくらみがしたからである。  視界にモヤっと膜がかかり、顔中の毛穴から空気が抜けるような浮遊感。手を着いて頭部からの転倒を防ごうと二の腕が反応したが、“肘から先が無い”のなら、無駄な反応であろう。  小村の眼は濃い霧――実際には薄黒い赤なのだが、ともかくそれに遮られてしまい、拳銃を握ったまま小村と離別した双腕の事実を認識できていない。  かつて、風呂上りに立ち眩んだ小村は第一に「やべぇ、死ぬのか、助けて!」と思ったものである。  ―――が、この時の小村は違った。 (なんだ、普通じゃない、何かされたのか……やばい、動くんだ――撃たないと、奴を殺してでも、アンナを―――アンナを護っ…………)  脳裏に『アンナ』の言葉を読み、網膜に焼付いたアンナの『姿』を見て。  小村の神経は緊急時に冴えわたり、極限までの集中力で意識を繋ぎ留めた。  壮絶な表情に、赤く染まりゆく小村は首を逆側に向けた。  つり上がった銀色の眼光が輝いている。大口を開けて満面に笑う悪魔の形相が、刃渡り34cmの重厚なナイフを振りかぶっていた。  ここまで、小村は長く感じたが―― 一瞬、刹那の時間である。小村の膝はまだ地に着かず、拳銃が腕先と共に地に落下した瞬間的な激突音も、まだ残っているほどに。 (ここか!? ここで死ぬのか!? ―――逃げないと、……アンナっ!)  小村は口をかろうじて動かしながら、心の底で叫んだ。仕事に律儀な男が、全てを殉じた、魂からの叫び――――― 「コンマサぁっ!!!」  小村を呼ぶ声が響いた。  鉄筋コンクリートの質の良いアパートの前。インターホンを鳴らして、必死に呼びかける高山の姿がある。  しかし、何も返事は無い。やはり逃亡したのか……。  すれ違いに高山商事へと向かっているのなら、それに越したことはない。ともかく、今は走る。電話に出ることを祈りながらも、がむしゃらに走り回るしかない。  それが、高山 勇気に今できる、全てである――――― ACT/5 『 ~ ♪』  着信を報せる携帯からのメタルのメロディ。裏路地に、ズボンの布地越しに鳴るこもった音。  それを不快に思ったのか、白髪の男は小村のズボンをあさり、携帯を見つけ出すとそれをアスファルトに叩き付けた。止めに踏みつけられて、携帯は着信を伝える力を失う。 「嫌……嫌ぁっ―――嫌ああああああああぁっっ!!」  アンナは金切りの如く悲鳴を上げている。  小村の背に隠れていたアンナだが、彼女の見た光景は残酷なものだった。  すがっていた背が前のめりにガクッと低くなったかと思うと、鈍い切断音と共に揺れ、ゆっくりと崩れるように倒れた。  胴体が傾く途中、小村の頭部が不自然に180度後方に逆さとなり、視線が合った。そして、背を伝うように「ドチッ」とアスファルトへと落下した。  ごろんと半分ほど転がって停止した頭部。小村の胴体はしばらく痙攣していたが、アンナの目にはもう、動くようにはとても思えないほど、絶望的な状態である。  アンナが半歩下がれば、足元で水気の弾ける音が鳴る。 「――ングッ!!?」  そのアンナを、すぐ後ろの壁へと押し付ける強引な腕力。 「喚くなァ……俺は今、滾っているんだぜ―――狩人の高まった精神は、チープな積木細工のように、僅かな衝撃で崩れるぅぅ………解るかぁ? 解るかぁ???」  アンナの口を手で抑え、物を言えないように塞ぐ白髪の男。  白髪の男は興奮して若干正気を失っているが、それでも業務のことは一応、理解しているらしい。 「アンナ=モトヤマ、一つ聞こうぅ。俺はな、気に入らない相手はとことん“嫌悪”するんだ。それでアンナ、君には同情もしているよ。何、深くはしらないが―――その傷だらけの身体を見れば、私だって少しは察するさ」  白髪の男は悪魔のような豪快な笑みから、口元だけを少し微笑ませた無垢な笑みへと表情を推移させた。 「君に選択を迫ろう。君は、このまま本山の家に帰りたいか? それとも、今、ここで、彼氏と同じに首と胴体を分断されたいか? ―――‥さぁ、どっち!?」  白髪の男は、そっとアンナの口から手を離した。  アンナは恐怖で質問に答えられるような状態ではなく、酷く怯えて涙を流し、震えている。 「………わた、わた―――し、は……………」  恐怖で怯えたアンナは、自然と切断された「小村 政彦」の遺体に目を向けた。悍ましい血溜りの生臭い様相だが、アンナは嫌悪や具合の悪化を微塵も覚えない。  倒れてそこにいるのに。もう自分の手を引いてはくれない政彦の姿が、ただ、どうしようもなく悲しい。 「あ―――」  そして、彼女は想う。手を繋ぐとか、話してくれるとか、そんなことではなくて……一緒に、傍に寄り添って、どこまでも一緒に―――それが、自分の願いなのだと気が付く。 「――最後に、マサヒコさんの傍……いいですか?」  アンナは白髪の男の瞳孔をじっと見て、願いを伝える。彼女の身体はもう震えてなどなく、涙もこれ以上溢れはしない。 「………いいでしょう。ただし、少しの間ですよ?」 「いいえ、少し違います。ずっとです。どこまでも、どこまでも……私達、一緒なんです」  白髪の言葉を訂正して、アンナは穏やかな気持ちで数歩、歩み出た。  腰を落として膝を着き、そっと、政彦の頭部を抱きかかえる。 「あはっ、マサヒコさん、重いです……そっち、運びますよ」  アンナは小村の頭部を懸命に抱えて胴体の上に運び、自分も胴体の前でへたりと座り込んだ。 「マサヒコさん……少し離れてしまいました。すみません、でも、今ついてきますから。マサヒコさん―――」  前かがみに倒れた胴体の背中の上。政彦は初めて、アンナとの接吻を果たした。卑しい気持ちでアンナを助けた訳ではないが、それでも、嬉しいものは嬉しいだろうと―――そう考えて間違いないだろう。  鈍く、短い音が生じた。  短い音よりもっと短い僅かな刻に……人の最後が「そこ」にだけ介在できるのなら。なるほど、白髪の男の言うとおり、だれもそれを知覚などできないであろう。  少なくとも、最後の一瞬にのみ意味を求める生き様は、何と不毛なのであろうか。 「――さて、これで事態は変化したか。商品を失った客はなんと言うだろう……そうそう、私の国、本社のやり口ではこうだね、“口が無ければクレームはつかない”。―――しかし、研いだばかりで一晩に3人とは……私の得物はつくづく食いしん坊だこと」  白髪の男はナイフを懐に仕舞いこむと、九分九厘太陽の沈みきった夜の市街を抜けて行く。  後始末は彼の仕事ではない。処理課と総務課では役割が異なるからだ。対応する部署に連絡を滞りなく行えば、誰も文句は言わない。 ACT/6  連絡を受けた処理の専門家達は、それから15分後には現場に駆けつけ、40分後には作業を終えていた。出血の多さでその処理に20分、余計に手間をくったらしい。  遺体処理の作業に来たのは3人。中年が2人と、20歳そこらの若者が1人。  あまりに凄惨な状況に、ビギナーの若者は腰を抜かして壁際で嘔吐した。 「…………ふん」 「おい、ちゃっちゃと仕事しろ、若いの!」 「えやぁ、これはキツイっすよ。やっぱこの仕事、俺向いてないっすわ」 「ばか言ってんじゃねぇって。金を貰えて飯食えるって幸せだろが。見ろ、この仏さんを。こうなっちまったら飯食うこともできねぇんだぞ!」 「…………誰だって最後はこうなるだろ」 「おめぇもいいから、黙って仕事しろぃ!」  威勢の良い中年に喝を入れられて、嫌々遺体を拝見する若者。  2つの遺体は、どちらも首と胴体を分断されており、それはそれは壮絶な状況である。  しかし―――若者は気が付いた。彼も年齢的に愛に飢えているからだろうか。敏感だった。 「―――つか、ナベさん」 「ぁあん? どしたぁ?」 「なんかこの女の人、こんな状態でも旦那の頭抱いてるなんて……よっぽど彼を愛してたんすかね」 「・・・おめぇ、何考えてんだ? これ見てよくそんな甘ったるい事言えんな、感覚おかしいぞぉ!? 溜まってんのか!?」 「………若いってのは、発想もトんでるものさ」 「いやぁ、違くて。路地裏でおっさん2人と死体処理してる俺なんかより、この2人の方が1000倍は幸せだろうなぁって――なんか、そんな感じなんすよ」 「・・・あんだ、お前ぇ! おっさんで悪かったか!?」 「………いいから、仕事」 「うっせぇっての! おめぇは黙って仕事してろぉ!!」  処理業者の若者はその後、叱られるままに仕事をこなした。  2人の遺体をどう思うか。それは、中年業者の考えは考えとして、若者業者の考えは考えとして……それぞれ別で良いのではないだろうか。  業者が遺体を片付けている最中。駅に到着した高山はやはり2人を発見できず、八方ふさがりの精神に陥っていた。  携帯は電波が通じなくなった。電源を切っているかもしれない。電車に乗って既に遠出したのなら、今からでは追いつけない。 「もっと、もっと上司を頼れよ、コンマサぁ。黙っていくなんて、あんまりじゃねぇか………コンマサよぉ、俺は寂しいぜ?」  駅ビルを見上げて行方の知れない小村に訴える高山。  その高山が事の結末を知ったのはこの日の午後11時を過ぎてから。  連絡を受け取った高山は、通話を終えると無言のまま携帯をデスクに放り投げた。  月明かりがほとんど入らず、暗がりに満ちたオフィスの最奥で。  高山 勇気は己の無力を嘆き、小村が自分の本心の身代わりとなってくれたことを察し、ただ――――涙を流して一人、咽び泣いた。  ・小村 政彦、享年23歳|恋愛人数2|経験人数1|成したこと――特に無し。 SECTION_END 「高山 勇気」  K市の駅付近。  アロハ全開のシャツにサングラス、金メッキの健康ネックレスと腕輪が見た目に喧しい男。アロハの指元には指輪が計5個装着されている。  以前、部下にファッションの指摘を受けて彼なりに改善した結果が、今の出で立ちである。  大きめの旅行鞄に荷物を詰め込んで、高山 勇気は駅から電車を乗り継ぎ、空港を目指していた。  例の本山 アンナを巡る一件で、顧客はおろか派遣された女性を失い、それらの根本原因である部下の裏切りを止められなかったという、管理責任までも問われた高山。彼は海外への「異動」を申し渡された。  異動先の支店に指定は無く、立場としては 『海外をうろついて自分で仕事見つけろ。部下が必要なら、それも自分で見つけろ。住む場所?? それも自分で見つけろ!』  ――という、「自由勧誘人」なるもの。  世界で高山ただ一人、唯一の肩書!! ‥‥‥楽観的に取れば左遷だが、まともに受け止めれば「クビ」に限りなく近い。まぁ、ともかく、高山はこの日本から追放されることと相成った。  高山商事は無くなり、しばらくすると別の誰かが引き継ぐらしい。  ――西暦20XX年。世界は至って平穏無事に、地球は依然として若干の楕円のままに宙をクルクルだだ回っている。  ただ、しかし。この星の社会には、巨大な薄膜がどこにもかしこにも掛かっており、一点として純粋な景色は存在しない。  ―COINS―それは数多のCOIN(通貨・紙幣)を指すものではなく、たった1枚のコインを求めることから始まった。  もはや、どこからどこまでがCOINSかも判別つかないほど巨大。  その巨大な圧力に挑み、たった1枚のコインを守ろうとする人間が存在する。  特別、優れた取り柄が考え付かない。深く洞察せずとも、一言挨拶を交わすだけで欠点を並べ立てられるだろう。また、長く関わるほどに、不満を募らせる人に違いない。  完全無欠、描いた利口さに合致する人間など「そうそうおるまい」と解ってはいても、クリアしてほしい最低ラインとうものは誰しも設けている。  そこにもって、大概の人のラインを越えられない人ならば、それは大半の人間にとっての「都合の悪い人」ないし、「興味の必要を感じさせない人」―――とまぁ、単に取り柄の無い人間ならば、こうなるだろう。   その男は弱々しく、子犬のような性分ながら、大した志を内包している。  彼は自分で解っていた。自分は、それだけでは何もできない、結構な低性能だと。  だからこそ、事実を認めて、その上で対処法を考えた。他人の前で「自分は馬鹿です」などと認めることは無い。ただ、それが事実なら、己の胸中ではしっかりと受け止める前のめりな強さが必要となる。  高山は己の無能を受け止めて(若干の手心はあるが)、無い能力を補う仲間を求めている。  彼の上役達は、高山を処刑したような心持だろう。  ところが、実際には高山はむしろ若返っている。見た目は変わらずピエロのような残念さだが、内面、精神の刻は確実に潤い、若くなった。  滑走路を離れ、浮き上がる機体。高山は幻想的な気持ちで日本の空を眺めていた。  いつまでも慣れない空の旅に苦しみながら、高山は海を渡って行った。  たとえ胃腸が弱音を吐いても、志は決して折れることがない、だろう―――おそらく。  Title:一夜の慕情  END