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尖爪のキマイラ

  藍色の空が泣いている。路地裏の兎は飛び跳ねることも忘れ、地べたを這った。   兎の触れた水面が波紋を打つ。無数の雨雫は水面を穿って紛れた。   今宵の月は青い。   眠りに就く町の片隅で顔を覆う兎は、今日も嘆いて悲しんだ。   眠りの町は答えない。嘆きの声に、答えはしない。 +++++++++++++++++++++ /四聖獣/ Title: 尖爪のキマイラ  ――藍色の空が泣いている―― SCENE/A ACT-1  気温の低い朝。ビルに挟まれた喫茶店。ラジオから流れる、元気の良いコンテンツ。 『今日も早よからモーニング・マイコ! デミスシティの皆様、お早う御座います!』  空席の目立つ店内。引き立つ珈琲の香り。 『今朝は冷えますね。温度計を見ると……ゲッ、3℃!!』  古びたラジオ。響くテンションは高い。 『さて、そんな今朝でも私は元気最高潮! 勢い有り余ってますよぉ~!』  寝ぼけ眼の店主。コップの手入れをこなれた手順で行う。 『とは言っても、やっぱり吐く息が白いとなんだか暖房器具が恋しくなりますね!』  流れる水道。悴む手が痛い。痒い、疼く。 『え? スタジオなのに暖房が効いてないのかって? どんな貧乏局だと?』  水道を止める。掛けられたタオルはそろそろ洗濯時か。 『実は! 今日はスタジオを飛び出して、ここ、シュガヴィン広場からの中継なのです!』  カウンターを出て、開く勝手口の扉。悴む手に金属製のドアノブは辛い。 『いや~外寒い! あ、局はちゃんと暖房・空調完備ですよ』  二階への階段を上る。途中、手すりに引っ掛けてあるコートも忘れずに羽織っておく。 『今日はお便りリクエストの前に特別コーナーやっちゃいますよ! せっかく外に出たんですから!』  廊下は暖かい。外とは違い、暖房が行き届いている。 『さてさて、それでは始めましょう。“マイコの朝一☆街中いきなりインタビュ~”!!』  扉の前、手袋をはめる。髪型をきちんと整えて、防寒コートもピシッと伸ばす。 『道すがら行く人に“デミスシティの好きな所”を聞いていきたいと思います! 選択は私の独断!』  軽いノックの後、部屋の扉を開く。スイッチを押すと天井の蛍光灯に電気が通った。 『それではさっそく――はい、そこのあなた! ベンチに座っているあなた! ちょっといいですか??』  部屋は狭く、先程までの温度がウソのように寒い。おそらく、外の世界よりも。 『すみませ~ん、デミス放映局です!!』  部屋には7個の白い箱が陳列され、重ねられている。それらには小さな氷柱が無数に垂れ下がっており、寒さが眼で解る。 『……あ?』  小型の洗濯機ほどある白い箱。整頓された箱達の前に、一つ寂しく安置されている箱がある。 『いきなりしつれいしまっす! あらまぁ、オシャレさん。旅行者の方?』  閉ざされた蓋をゆっくりとズラし、床に置く。微笑んだ。挨拶は大事だから。 『――いや、仕事』 『お仕事? 寒い朝から大変ですね。お互い頑張りましょう! それで、一体どんな……?』  レディに失礼はいけない。出会いに、紳士の口付けを――。 『――えっ―――えッ!!?』  左右に一度ずつ。繰り返すうち、接吻は抱擁に変わり、頬ずりへと発展していく。 『うそ、この近く!?』  我慢できずにまたがる。  しゃぶりつきながら強く抱きしめて。  脳内を駆け巡るエクスタシー。  下半身を突き抜ける、絶好調。 『番組はどうす……続ける!?』  零下の密室で行われる性交。  男と女。  ““人と二本の腕が交わる異形の乱交””。  切断された腕の断面が痛々しい。  冷えた彼女を愛す男。やがて彼は絶頂を迎える……。 「そんな、のん気にバラエティーやってる場合じゃないわよ!!」  混乱を極めるシュガヴィン広場とその周囲。ベンチに座る男はそれらを尻目に欠伸を一つ吐いた。広場の混乱――それはつい今しがた、近くの路地で“両腕の無い遺体が発見されたから”である。  白い息が昇っていく。ベンチに座っていた男はゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをする。煙草を取り出すと、咥えて先に火を灯す。  彼は鋭い視線で周囲を見渡してから、移動を始める。紫煙を引きずり、悠々と歩くその姿。  赤黒いロングコートを着たその男は、ツバの広いカウボーイハットが特徴的だ。 ACT-2  午前8時40分。「喫茶ラビット」の開店まであと20分。  店主の【マロン・グラッソ】はカウンターの一席に腰かけ、一服ふかしていた。22mmと重めのシガーが好み。一運動終えたことで気分はスッキリ晴れたが、深層では後悔の想いが新たに一枚、積み重なっている。  マロンはTVを点けた。朝の連続ドラマ、「西瓜物語[スイカものがたり]」が画面に映る。開始10分を過ぎて物語は既に進展を見せていた。  西瓜物語は新種の西瓜作りに命を賭ける西瓜士・大蛇善次郎[おろち ぜんじろう]の人生を描いたサイコ・サスペンス。西瓜物語は30分番組なので、コレが終わると丁度開店の時間。丁度良い指標なのでマロンは毎朝この番組を点けている。 『エミリア。俺は明日、火星に行かねばならない……』  善次郎の言葉に金髪美女、エミリアは驚きを隠せない。 『善次郎、どういうこと!?』 『すまない。だが信じてくれ。この俺の想いを……』  ビニールハウスに寄り掛かり、顔を伏せる善次郎。スズメの鳴き声が西瓜畑に響き渡る。 『バカっ!』  善次郎の頬が弾かれる。エミリアは自分の行動に驚き、息を呑んだ。  善次郎はしびれる頬を撫で『……君まで反逆者にはできない』と、涙交じりの一言を呟いた。  立ち尽くす二人。無数に並ぶビニールハウス。周囲を囲むジャガイモ畑。  霞む景色は、360度を囲む山の稜線――。 <カラン、カラン・・・>  番組がCMに入るのと同時。店内の扉が開かれ、来客を告げるベルが鳴り響く。店の入り口には赤黒いロングコートを着た一人の男。ツバの広いカウボーイハットが特徴的だ。 「――いらっしゃいませ」  マロンは少し戸惑った。まだ開店時間ではない。店の扉にも「CLOSE」の札がかかっていたはずだが……。来店した男は真ん中のカウンター席にドッカとふてぶてしく座る。そして被っていた帽子を横の椅子に置いた。 「お客さん、まだ開店時間ではございませんが……」  申し訳なさそうにマロンが接客する。 「なんだ、そうだったか」  視線も合わせぬまま、せっかちな客は答えた。  客は置いたカウボーイハットを被り直そうとする。しかし、どうせ開店準備は既にできており、暇をもてあましてくだらないドラマまで見ていた時分。 「ああ、ですがかまいません。ちょうどそろそろ開けようと思っていたのです。どうぞゆっくりしていってください」  マロンが穏やかにそう言うと、男は無言のまま帽子を再び椅子に置いた。  立ち上る湯気。寒い朝に外を歩いてきた男は、ホット・コーヒーで冷えた身体を温めている。 「モーニングサービスで御座います」  朝食がカウンター・テーブルに置かれる。バターを塗った熱々のトーストに、ゆで卵。サラダはサニーレタスとニンジン、それにオニオンを添えた簡単なもの。トーストのバターは注文とあればジャムに変更できる。これだけ付いて値段はコーヒー単品と変わらない。  無言のまま食事をとる赤黒いコートの男。彼の前髪が長く、表情がいまいち伺えない。  風格のある出で立ちから初見で中年程度を想像したマロンだったが、帽子を取った客の顔つきは予想外に整端で若々しい青年。いっそ少年といったほうがいいくらいかもしれないほどに、あどけなさが残っている。  青年は黙々と食事を続ける。TVは例の連続ドラマの後編。そろそろ放送時間も終了に近い。 『マリアンナをどうしたっ!!』  同僚の鉄次郎が善次郎の胸ぐらを掴み上げ、怒鳴りつけた。 『……たよ』 『ああ!?』  歯切れの悪い善次郎の返答。鉄次郎の米神に血管が浮き上がる。 『殺したよ』 『――?』 『死んだよ、マリアンナは。俺が殺したからな――』  言葉の終わりと共に善次郎の体が横なぎに倒れた。殴り飛ばされた善次郎は壁に体を強く打ちつけ、咽せ込んでいる。 『…!…っ!? ――――ア゛!!?』  振るった拳から血の気が一気に引いた。鉄次郎の視線は定まらない。 『……え、おまえ、なんで――なんでっっっ!??』  唇を噛み締め、再び拳に血が滾る。 『西瓜は俺の命だ。その為ならなんだってやる。―――あいつは知ってしまったんだよ、俺と西瓜だけの秘密を……!』  切れた唇を拭う。善次郎は鉄次郎を睨み、すくりと素直に立ち上がった。 『すいか……? それがどうした!! なぁ、それが何だってんだよ!!』  咆哮ともとれる叫び声を上げて、鉄次郎はまっしぐらに憎き男に殴りかかった。 拳が命中する。善次郎は再び腰を崩したが、倒れる前に容赦の無い追撃が入る。倒れる事もできず、打ちのめされるがままの善次郎。  散々に殴った後――。  涙を流し、膝を着く鉄次郎。ボロ雑巾のようにくたびれた善次郎はゆっくりと、掠れる声で言葉を続けた。 『あれは、“種のみ西瓜”は――俺の夢の基盤なんだ。あれを世に出すのが俺の夢……』  息も絶え絶え。それでも善次郎は続ける。 『お前にとってどうかは知らない。だが、人を殺すほどのことなんだ。俺にとって、“西瓜”というものは! あの時も、今も、これからもずっと!!』  その言葉を聞き、鉄次郎の表情が一気に凍りついた。 『ちょっとまて。“あの時”も……だと?』 『――――言ってみりゃ、俺の勝手さ』 『おい、どういうことだ』 『……今更諦められるかっ』 『お前、お前今まで……』 『必要だったんだよ。夢を、欲求を、人生を満たす為には!!』 『お前、今まで一体、何人殺したんだ!? 西瓜のためにっっっ!!!???』 「……ヘイ、マスター」  赤黒いコートの男が口を開いた。TVに見入っていたマロンは突然の言葉にしばし思考停止。呆けた顔で青年を見る。 「この番組……」  怪訝な表情でTVを指差す青年。朝食セット卵を残して片付けられていた。 「あ、あぁ、すまない。くだらないドラマだろ? 耳障りならチャンネルを変えるよ」 「いや、そうじゃない」  否定とともに珈琲をグイッと飲み干す。 「――この番組は、人気なのかい?」 「人気? 全然だよ。僕みたいな一部の暇人が見てるくらいさ。今回の連続ドラマは酷いって意見が主だね」  はにかむような笑顔で答えるマロン。一般的に人気の無いドラマを、個人的に気に入っていると言うのにはちょっとした勇気がいる。彼はそういうのが顕著に苦手らしい。 「ふっ、嫌そうな主人公だものな。 珈琲、追加を」  コートの男はカップをカウンターに置いた。それを受け取ると、マスターであるマロンはおかわりを注ぐ。シュシュシュと熱気が湧いた。 「まったく、酷いものです。自分以外、どうなっても構わないような奴ですから……」  苦笑しつつ湯気の立つカップをカウンター・テーブルにそっと置いた。苦しみながら倒れる鉄次郎が画面に映ると、番組はエンディングを迎える。 「あっ、鉄次郎が!」  急展開に目を見開くマロン。 「俺はそういう奴、嫌いじゃないよ。正しいとは言わないがね」  息を薄く吹き、珈琲を冷ますコートの男。 「ハハっ。お客さん物好き―――ェ!?」  マロンは笑った――しかし、彼は途端に呼吸が苦しくなったのを感じて表情を引きつらせた。 ―――鋭い視線。マロンに鋭い視線が突き刺さっている。冷酷で、それは酷く物静かな……落ち着いた印象。  目の前に座る男はともすれば少年にカテゴライズされるような若年である。だが、マロンから見た彼は紛れも無く狩人。視線は猛禽類のそれと違わない危険を感じさせた。鋭い圧迫感に、マロンは息を飲む――― 「あの主人公のことは触りしか知らないがね。どうもああいった手合いは多い気がするね」  青年は剥いたゆで卵の殻をペキペキと割っている。薄皮が邪魔で中々細かくならない。 「欲望のタガが利かねぇのさ。よく言えば素直ってヤツか。それって動物に近いと思わないか?」  笑みを浮かべ、熱いカップに口をつける青年。 「……何ですか、いきなり。どうしたんです?」 「人間の証明は何か……いや、そんなの関係ないね。 極端な話し。一般常識って奴を理解した上で、他の社会を構成する要素と連携を取れれば――それは人間の世界に迎えられるだろう。厳密には溶け込むと言った方が正しいか」 「…………何を…………何を言いたいんです」  マロンは震えた。具体的に恐怖を突きつけられた訳ではない。しかし、彼は自らの“予想”によって恐怖を先取りしているのである。 「――なぁ、マスター。デザートにチーズケーキをくれないか」  メニューを指差し、無邪気な笑みを浮かべる青年。 「………え、ええ」  マロンは思考も整理できぬまま、「その場に在ること」が嫌な予感を覚えさせる客に対して強い警戒を抱いた。デザートのケーキを用意する為に厨房に入っても、気が気ではない。  提供されたチーズケーキ。  ハーブを添えたシンプルな見栄えに、クッキーの歯ごたえが潜んでいる。  TVの連続ドラマが終了した。プログラムはニュース番組に移行。ニュースキャスターの男女が丁寧な挨拶をデミス市民に送った。カップの珈琲からは僅かな湯気が登っている。  ふと、TVが何やら騒がしい。 『――時頃。シュガヴィン広場近くのエトービル裏で、女性の変死体が発見されました。女性は胸部損傷により、即死。 遺体はここのところ続く連続女性殺人と同じく“両腕が無い”状態で発見されました。捜査当局では模倣犯の可能性も含めて柔軟な捜査を行うとともに――』  今朝のトップ・ニュースはものものしい殺人事件の報道。 「…………」 「物騒だなぁ。最近はここいらで七人も殺されているらしいじゃねぇか――あ、これで八人か」  フォークを手に取り、チーズケーキを口に運ぶ。厚手の生地が敷かれたチーズケーキはなかなかに食べ応えがある。 「美味いな。どこの?」 「……手作りです。昔からの趣味で」  動揺を押さえながら答えるマロン。客の青年は甘さと酸っぱさが織り成す程よいハーモニーに舌鼓を打つ。彼からは、先程の圧迫感がウソのように消え失せている。 「そこの写真は――あんたの女か?」  カウンター内の棚、その片隅に置かれた写真立て。そこには美しい女性の姿が映っている。栗色の髪が可愛らしい。 「ええ……私の妻です」 「! 待て、どこかで見た顔だ。どこだったかな……」 「妻はラジオ局に勤めていて、朝の人気番組の――」 「思い出した! ああ、確か名前は“マイコ”!」  額に指を置いて記憶を探っていたが、ようやく思い出せた。青年はさっぱりした表情で写真を指差す。 「えっ、ご存知なのですか?」  ラジオの顔である妻の名前が写真から導き出された……。地元の人間以外にあまりない反応に驚きと疑問が湧いてくる。 「今朝ね、彼女にインタビューを受けたんだよ。シュガヴィン広場で中継をしていた」  納得の理由。マロンは嬉しそうに「なるほど」と頷いた。 「写真もいいが、実際に会うと可愛さ倍増だな。元気もあったし、快活そうだ」 「ええ、ええ、まったくもって活発な妻で。いつも私は振り回されっぱなしなんですよ」  妻の話題になり、笑顔が絶えないマロン。彼は写真をそっと指で撫でた。  写真をいとおしそうに見つめるその姿。妻に対する深い愛が感じ取れる。 「町の人気者でね。彼女は私の誇りなんです……そうですか、インタビューを。いきなり話しかけられて迷惑だったでしょうが、番組のことなのでどうか許してやってください」 「何、構わないさ」  チーズケーキはすでに一口サイズになっている。よほど美味いのだろう。客の青年はパクついている。 「いやぁ、しかし奇遇なものですね。妻のインタビューをあなたが受けるとは……」 「中途半端に終わってしまったけどね」 「ハハっ。それは残念」 「まったく残念だよ。あそこに“死体”がなければ、君の妻ともっと話せていた……」  最後の一口を口に運ぶ。  マロンの表情が凍りついた。TVの音が聞こえてくるが、彼の耳には入らない。俯いて、虚ろな視線を床に落としている。 「―――まぁ、いいけどね。俺も仕事がある身だ。ノンビリともしていられない」  珈琲から上がる湯気はほとんど無い。青年は冷めかけのぬるい珈琲を口に含んだ。窓からは快活な陽射しが差し込んでいる。  青年は立ち上がり、代金を余分にカウンターに置く。「開店前に悪かったな」そう言うと、彼は店の出入り口へと向かっていく。 「ぼ、僕は――――」  マロンは揺らいでいた。それは精神的にも肉体的にもである。動いてもいないのに床が揺れているように感じる。微震の最中に立ち尽くしている気分がそれだ。 「アぁ?」  店の扉に手を掛けた青年は、立ち止まって振り返る。  マロンはもごもごと、口ごもった。 「ね、眠る前に……“朝早く起きよう”と決心したのに、いざ朝になると“まぁ、いいか”と、眠気に負けてしまうことって――人間なら誰でもあるでしょう?」 「さぁな。俺は無いね」  青年は即答する。 「……だめだ、だめだと自分に言い聞かせているんです……もう、やめようと――。でも、だめなんです。欲望が、衝動がムラムラと沸き起こると、そんな決心なんか無残に崩壊してしまうんです。 どうしてそんな気分になるのか、とても通常の私では説明なんかできない……」  マロンは右の反面を抑え、マロンは荒くなった息を懸命に静めている。 「人生相談なら他所でしてくれ。俺は野郎の愚痴に付き合うのは嫌いなんだ。何の得もねぇだろう? それとも何か。それは重大な話なのかい?」 「………べ、別にそういう訳では……ないです」 「――あっそ。それじゃ、行くわ。あんたんとこのチーズケーキは忘れないよ」 <カラン・カラ・・・>店の扉は閉められ、客が店外へと去る。 「……くそっ!」  拳を握り、眉間にシワを寄せる。マロンはやりきれない思いを何処にぶつけたものか。マグマを溜めた活火山のように熱り勃たせている。 <カラン・ラン・・・> 「―――!!?」  突如、入店のベルが鳴り響いた。 「CLOSEの看板――OPENにひっくり返しとこうか?」  顔を除かせたのは赤黒いコートを着た青年。つい今しがた出て行った客である。 「……ありがとう。お願いします」 「OK。じゃ、さいなら―――」 <カラン・カラン・・・>  ……青年は今度こそ去った。その場で蹲るマロン。  TVに映るニュース番組は、まだ件の事件について報じている―――――。 ――――――――――――――――――――― 「あなた、食べないの?」  食卓越しに妻が夫を気遣った。 「え? いや……」  夫は妻に言われてようやくスプーンを口に運ぶ。既にコーンスープから湯気は上がっていない。その後も、夫は食事中、ずっと上の空であった。  食後、ソファでくつろぐ夫。TVは付いているがどうにも見ている様子ではない。垂れ流しの画面にはバラエティー番組が映っている。有名人にイタズラをしかけるという内容の、人気プログラム。 「こらっ!」  後ろから夫の頭を掴む手。 「見てもいないのにTV点けっぱなし。だめよ~」  頭をなでながら、愛らしく怒る妻。 「おいおい、ちゃんと見ているよ。私がこの番組好きなの知っているだろ?」 「あら、そうだったかしら?」 「知ってるくせに。意地悪な人だ……」  掴む手を握り、そこにキスをする。  妻は夫の首に手を回し、後ろからそっと抱きついた。 「――ねぇ、マロン? あなた最近変よ。とくに一昨日からなんだか落ち込んでいるみたい。何かあったの?」  首元に頬を寄せる妻。マイコ。夫であるマロンは妻の栗色の髪に指を絡ませた。 「別に……大丈夫だよ。何でもない」  マロンは彼女に優しくキスをし、額を摺り寄せる。マイコもそれに答えるようにソファの後ろから身を乗り出し、夫に覆いかぶさった。甘える妻のスカートを手探りに捲り、秘部に左の指を這わせる。下着越しの彼女の場所は湿っていて、とても柔らかい。  全身に感じる女性の温かみは男の精神を狂わせる。妻の豊潤な香りに夫は酔いしれ、女はその様子を察して心をはだけさせた。  虚ろう彼女の視線。  二人は唇を強く吸いあった。下着と太ももの隙間から指を入れ、彼女の秘貝を指で細かく刺激する。 「あぁっ……!」  妻のこぼした喘ぎに、夫は一層の興奮を覚えた。右手で彼女の胸を存分に揉みしだき、汗の溜まった谷間を舐め上げる。  激しく交わる二人。  マイコの栗色の髪は乱れ、衣服もはだけ、彼女の恥ずかしい部分が露わとなっていく。  いつの間にか体勢は変わり、夫が妻にまたがる姿勢となった。女性の吐息と甲高い声。粘液が空気で弾ける音が部屋に響いている。  マロンは事の最中、妻の手をしきりに撫でた。二の腕から手首にかけて指を這わせ、脇元まで戻る。それを繰り返し、繰り返し。触れるか触れないかの微妙な力加減で繰り返す。彼が性的快楽の絶頂を迎える為の儀式のような行為。妻も夫の性癖に答え、感じさせている事に高い愉悦を得ていた。 / 夫婦は思うままに愛し合い、しばらく時が経つことも忘れて絡み合う――――― 「――ねぇ、あなた?」 「――ん?」  まだ息が落ち着かないまま、マイコは夫に優しく言葉を伝える。 「どんな些細なことでもいいの。何かあったら、私に話して。苦しい事も楽しい事も、二人で感じあうって……ね、約束したもの」  マイコはくったくのない笑顔を浮かべた。 「ああ、わかっているよ。……マイコ、愛している」  夫の言葉に、マイコは照れくさそうに笑った。とても、とても幸せな笑顔。  二人は再び、そっと口を合わせた――――。 ―――――――――――――――――――――― SCENE/B ACT-1  AM3時。マイコは今朝の番組のため局に出社していった。朝番のリポーターも大変である。  一人だけの寝室。  デジタル時計は音を刻まない。人間一人分ふくれているベッド。  突然に、勢い良く振り払われる掛け布団。マロンは激しい息使いと共にその身を起こした。 「はっ、はぁっ…かっ、は。 ぐ――はぁ、はぁぁ……!」  痒い。全身が――痒い。Tシャツを脱ぎ捨て、力任せに皮膚を掻き毟る。 「だめだ……だめだぞ。いいか、それはいけないっ!!」  自分に言い聞かせる。寝室から響く自分との会話。だが、相手は言う事を聞こうとしない。歯が歯茎にめり込むのではと思われるほど、強く歯軋る。裂けた皮膚から血液が流れ、欲望が理性を凌駕した。この時、倫理も道徳もあったものではない。 「ああっ……! くそっくそっ、ああ…………あああッ!!」  立ち上がり、蹴破る勢いで寝室を出る。思い切り開いた目で周囲を挙動不審に見渡すと、箪笥の上に置かれた財布と鍵を手に取った。  裸足のまま玄関を飛び出る。彼は全速力で駆け出した。  ――マロンは何を思ったのか?  マンションの階段を無視して飛び上がる。6階分の景色が体の横を物凄い速度で過ぎ去っていく。そしてコンクリートに激突。人間がコンクリートに激突した時生じる音は、想像以上に重低音。“ボグッ”と“グシッ”という二つの音が和音となって響いた。 「………あいつのせいだ。あいつが、僕に意識させるから……」  マロンは何事もなく四つ足で身体を起こすと、しっかりと、それでいて這うような足取りで愛車の元へと向かう。  軽の車に乗り込み、エンジンをかける。車は乱暴な運転で駐車場を後にした。 深夜の喫茶店。電気も付けずに一目散。二階を目指すマロン。 薄暗くとも勝手はわかる。自分の店だ。 コートを羽織り、急ぎ足で階段を上り、冷凍室の扉を開く。 荒ぶる呼吸も次第に落ち着いてきた。もうすぐ彼女達に会える……。 扉を開くとそこは吐く息も凍る世界。並べ、重ねられた8つの白い箱。 その一つにすがるように抱きつき、凍った蓋をゆっくりとずらしていく。 そこにはやはり、冷凍保存された人の腕が二本―――。 彼はそれに貪りついた。本能の命ずるままに。  だが、しかし。どうしたことか?  彼の下半身は反応しない。しゃぶっても、頬ずっても、擦り付けても……一向にエクスタシーへの足がかりを見出せない。  瞳が充血する。涙が溢れてくる。二本の腕を抱き、絶望に蹲る後姿はもう、人ではない。  冷凍室の壁に伸びる影は、抱えられた腕が長い耳のようで――蹲るシルエットは、まるで“兎”。 「……だめか、だめなのか? 嫌だ。あ、ああぁぁぁぁァ……」  兎は僅かな理性をしぼり出し、唸った。両の腕は黒く変色し、次第に鋭く尖っていく。  もう、彼女を抱く事もできない……。  かろうじて“人”であったマロンは、いよいよ見た目も異形と化した。  絶望が、欲望が、願望が脳を支配し、黒く染め上げる。  “もう、我慢できない……っ”  ――――狂乱の兎は孤独な冷凍室で泣き叫ぶ。  答えを問うその叫びに、相手は決して答えてくれない。 ACT-2  デミスシティのAM4時。  明朝を控えた空はごく薄く青みを帯び、藍色に見える。古びたビルの隙間を吹く風。身が震える。  人気の無い路地裏。歩く仕事帰りの若い娼婦。  今夜の仕事はロクなものではなかった。禿げた出っ歯親父を相手にしたのも不快だが、これまた事も下手糞なので尚始末が悪い。しかも金を出し渋るドケチぶり。これっぽちでは狙いの時計に届かない。  不機嫌な様子で女は静寂な路地を歩く。後方に聳えるビルの壁面。そこに輝く、赤い瞳。  “それ”はだらしなく口を開き、息づかいは酷く荒い。涎が垂れ下がるその様は、怪物か悪魔の類であろう。  ハイヒールが奏でる一定のリズム。それが乱れた。背筋に感じた違和感。それは寒気か悪寒か。赤い口紅の娼婦は少し速度を落とす。尿意かとも思ったが、とくにそういうわけではないらしい。  ビルの隙間風、木枯らしでも吹いたかとすぐに駆け足に戻した。 <ピチッ―――>  静かな路地に響いた、何かが弾ける音。女は一度立ち止まり、振り返る。視界には殺風景な夜の裏路地。何も不安は存在しない。 「雨……?」  手のひらを上に向けてみた。特に何も当たらない。しかし、他に考えられない。  女は藍色の空を見上げて睨み付けた。 「――やだわ。この上風邪なんて引いてられないわよ」  少し急ぎ足で歩き出す。ハイヒールのリズムが早くなる。  壁を這う異形のもの。それも這う速度を上げ、女を追跡する。 <チリン・・・>  何かが落ちた。女は音に気づき、ふとジャケットのポケットを漁る。 「――っもう!」  落ちたのは鍵。イライラしているときにこそ、トラブルは重なるものである。  その場にしゃがみこみ、地面を見渡す女。一応マスコットが付いているので見つけやすいはずだが、この暗がりである。手間取った。 「アハ、アハハ……!」  荒い呼吸に笑いが微かに混じる。怪物は垂涎している。 「ヒハハヒハヒハハハッヒ!」  来た来た、興奮がこみ上げて来た! 全身が喜び、鳥肌が立つ。  這う、一層速く這い蹲る。女が目の前にいる。もう、他の何も目に入らない。“美しい彼女が手に入る”そう考えただけで元気になれた。  無我夢中に迫る。もうそこ、すぐそこ。地面が近い、女が近い! 飛び掛るなら……今っ――――!! 『――だらしねぇ野郎だ』  虚空に響いた、静かな口調。 <ガッシャァァアァアンッ!!>――と鳴り響いた、派手にガラスが割れる音。当然、女は音に気がつく。振り返るとそこには人影。暗がりでよく判別できないが、どうやらその人はツバの広い帽子を被っているらしい。 「???」  状況がわからず、口をポカンと開けて停止する女。 「逃げな。ここは危険だ」  男の声。暗がりに解るはずは無いのだが、この時女はなぜか鋭い視線を感じた。 「え……」 「だから――あ。めんどくせ」 <パシュッ>  押し殺した音が鳴った。何かが頬を掠めた事はわかる。が、それが何かなど見えはしない。女は呆然とするだけだ。  ただ、彼女はすぐに理解した。目の前の男が振り向きざまに取り出し、今も突きつけている物が“拳銃”であるということを。頬に薄っすらと血が滲んでくる。 「次は眉間に当てようか?」  突き刺さる男の視線はあまりにも冷酷過ぎた。それは女の“反射”を呼び起こす。  立ち上がり、ハイヒールに苦戦しながら全力で駆け出す女。声を張り上げる余裕など無く、無我夢中に彼女は駆け出した。  その様子を軽く見送り、ゆらりと向きを変える男。整端な顔つき、鋭い眼光をした青年だ。  赤黒いロングコートが翻る。  その刹那、鋭く尖った先端がギリギリでコートの裾を掠めた。  後ろに大きく跳び、距離を置く青年。  ズレたカウボーイハットを直し「ひゅ~!」と、肩を竦めた。  目の前で燻るその異形の者は体を震わせ、鋭く尖った両腕を擦り合わせて唸っている。 「う、うぅうぐ……くうぅぅ……」  赤い瞳のそれは落ち着かない様子で首をくねくねと動かした。僅かな知性と戦うかのように。 「アララ。ちょっと目を離したらこんなにおかしくなっちゃって。どうした、人をやめたか?」  クルクルと親指を軸に拳銃が回る。微かな月の光が当たり、黒く輝く銃身。 「ああぁっ!!」  地を踏み鳴らす怪物。声が聞こえているのかいないのか。化け物は腕を大きく振り回して咆哮した。唾液等の体液が飛び散る。 「コミュニケーションは不可能だな。残念だが――恨むなよ?」  手のひらから手の甲を経由するように拳銃を回し、しっかりとグリップを握り込む。  青年は注視している。鋭い視線を、“怪物と化したマロン”へと突き刺している。  怪物は挙動不審な動きを止めた。ゆっくりと首をかしげ、目の前に立つ赤黒いコートの青年を見つめる。そして逆上するかのように身震いした後、そのまましゃがみこんだ。鋭く尖った両腕をコンクリートの地面に突き刺し、下半身に力を溜める。  怪物は息を一つ飲み込んで赤い瞳を見開き、「あは、あははははははははははっ!!」と震える笑い声を挙げた。 「おっ、その構えって―――あ、ヤバぃ」  カウボーイハットのツバを押し上げ、視界を広く取る。青年は状況を洞察すると、横への跳躍を開始した。  <ガギャッ――!!!>と、鋭い音。刹那に抉れるアスファルト。7m程開いていた二人の距離はこの瞬間に意味を無くした。  恐ろしい勢いの平行跳躍。その最中に振るわれる刃そのものである両腕。0.37秒――人間の反射神経を無視する速度で行われる動作は、音も切り裂く凄まじさを持つ。 「うぉっつ!!?」  青年は驚いて声を出した。しかし、怪物の両腕。それこそ刃の先端・ミクロ単位においても、赤黒いコートの裾に触れることすら叶わず、ただ過ぎたのみである。  派手に着地した怪物は振り返って呆けた表情で固まる。その速度ゆえ、成否を本人すら把握しきれない程の斬撃・突進。  振り返って始めて知る。赤黒いコートの人間が数秒前となんら変わらず、一つのパーツのままそこに立っている事実を。 「あ゛・あ゛・あ゛……ああああああ゛っ!!!!!」  絶叫しながら両腕を振り回す化け物。青年の無事な姿に驚愕し、血が遡ってしまったかのように猛りながら再び襲い掛かる。闇雲な攻撃だが、その数は半端では無い。普通の目ならば、残像と実像の区別がつかなくなるであろう。  ―――が、当たらない。  怪物の動作は言わずもがな、常識離れしている。ただ、そこには直線的な“隙”と規則性が存在した。比較的幅広い路地であることもあって、軌道の予測は不可能ではない。しかし、それでも有るか無いかの隙である。  青年の挙動も並大抵ではない。軌道の予測から動作開始、動作そのものの機敏さ。どれをとっても秀逸。それは彼の鍛え上げられた“洞察力”が根幹となって成し遂げられる回避術。  しばらく腕は振り回され続けるが、一向に当たる気配は無い。それどころか次第に青年は余裕を持ち始めてすらいる。怒り心頭に短調となった獣の突進は、冷静沈着な頭脳に対して相性が悪い。  やがて、連撃の最中に発せられる青年の言葉。 「―――当たれば即死級なんだ。正当防衛もいいところだろ?」  引き金が引き、絞られる。 < 押し殺した銃声――――>  マグナムの一撃。黒塗りのデザートイーグルが火を噴いた。右の膝を抉り飛ばされた怪物は勢いのままに転倒。地面にその身をすり下ろされる。  それでも怪物は腕を振るおうとする。両腕を用いて立ち上がる。  そこに、定まる銃口。狙いは3点―――。 < 押し殺した銃声 > < 押し殺した銃声 > < 押し殺した、銃声――――――>  的確に打ち抜かれた怪物の両肘と左の膝。左腕は衝撃に耐えられず、そのまま二の腕の先が千切れ落ちた。  痛い、熱い。苦痛の感覚。箇所が多くて何がどれほど痛くて、どうなっているのかなど理解できない。ひたすらな苦痛が怪物を襲う。悲痛で、悲壮な叫び声が裏路地の一画に響いた。  しばらく呻いた後、不満足な膝を着いてうな垂れる。……痛みのおかげで、変に意識がすっきりと落ち着いたようだ。充血していた眼球もおさまり、辛うじて繋がっている右腕も人の物へと姿を戻していく。 「…………」  破滅の恐怖は無い。痛みも感じなくなり、気分はいたって健全なものだ。先程までの狂気が夢であったのではと自分を疑いたくなる。マロンは自分を取り戻していた。  影がかかる。俯いた視線に映るブーツ。ロングコートの裾。 「堪えられなかったか。まぁ、だと思ったよ」  溜息混じりの青年。 「………ぼ、僕だって………」  一瞬、意識が飛びそうになる。出血もおびただしい。そろそろ最後が近づいてきたのだろう。 「ん? なんだい?」 「………こ、殺したくなんか、なかった……」 「ふ~ん。つい出来心で、つい勢いで――悪いのは自分じゃなくて、欲望? 願望?」  片側の口角を上げて、青年が卑下た微笑みを落とした。 「喫茶店の二階に……冷凍室があります。そこに……そこにある“白い箱”を、秘密裏に処分してください」  意識が失せる。しだいに感覚が短くなってきた。もう時間が無い。……だが、マロンにはまだ死ねない理由がある。彼は死ぬ前に「安全」を確保しておかなければならない。 「白い箱?」 「はい」 「ん? ――――ああ、そういうこと……」  帽子のツバを一層引いて表情を隠す。青年は腕を組んで微かに唸った。 「そこには――」 「いいって。解ってる」  その言葉に安堵し、ホッと息を吐くマロン。そう、彼は彼の行った所業の決定的な“証”を消去しておきたかったのだ。見れば彼が何をしてきたのか一発で世間が理解してしまう“彼女ら”を……。 「どうもありが―――」 「悪いが、それはできないね」 「―――っは!!?」  青年の言葉に思わず声を張り上げる。マロンは恐ろしい程に真剣な表情で青年を睨んだ。 「できないって……! そん――!!??」  興奮しても頭に上る血が足りない。視界が白くなり、膝まづいてすらいられない。  マロンの上半身は地面に倒れ込み、強く頭を打った。額からも出血が始まったが、それでもマロンは青年を上目で睨みつける。 「頼む、頼みますよ! やり方はどうしてもいいからっ」  力を振り絞って懇願する。地面に這い蹲りながらも。 「――物理的には可能だ。だがな、無理なんだよ、マロン。そいつはやっちゃいけねぇ事なんだ。お前のやった事は有るべき形で結末を迎えるべきなのさ……」  冷めた口調で答える青年。 「お、俺の為じゃないっ! 妻の、マイコの為に頼んでいる!! だめなんだよ。俺が犯人だと解ったら世間は残った妻を責める。 だから、“証”は消し去らなければならないんだっ!!」  瞳が充血しだす。かろうじて繋がっている右腕も黒く変色を始めた。 「彼女は町の人気者なんだ。俺の誇りなんだっ。俺の愛する絶対の存在なんだよ!!!」  瞳から雫が溢れてくる。変色した右腕で、青年のブーツを無理やりに掴む。 「…………」 「たのむ、わかるだろ――俺はここで死ぬ。頼れるのはあんたしかいないっ」 「…………」 「返事をしてくれ、わかるだろっ! あいつに罪はないんだよぉっ!!!!!!」  眼下の怪物は、青年の足首をブーツ越しに力いっぱい握り込んだ。肘が不満足な腕では大した力がでない。だが、それなのに感じる圧迫感は凄まじいものがある。 「――そうだな。お前の妻に罪はない」 「! そうだろ、彼女が苦しむ理由などどこにも……」 「その女を苦しめる理由作ったヤツは、どこの誰なんだ?」 「――――――」  親指で押し上げる帽子のツバ。覗く真紅の眼光。それは眼下の怪物の意識を容易く貫く。怪物は言葉に詰まり、その瞳から目を逸らした。 「わかってんだろう? わかるよな?」 「…………悪かった。そうだよ、解っているよ。俺は殺人鬼。大変な事をしてしまったのは解る。 ――でも、だからといって彼女が辛い思いをすることは無い。悪いのは俺、そうだろ――?」  怪物は力なく呟いた。先程気張ったのが良くなかったらしい。急激に意識が薄れていく。死の瀬戸際、いよいよ声も出なくなってきた。 「頼む、頼むよ。マイコを、悲しませないでくれ――」 「…………」 「頼む――」 「それ程人を愛せる人間なら。殺した女を愛する人の心も、わかるだろ?」 「――――」 「愛する人を失う心、わかるだろ?」 「―――」 「ぅ―――」 「…………」 「ぅぅ―――」 「…………」 「ぅ―――、うぅ――――っ」 「…………」 「ぅ――ぅぅぁ――――っぅ」 「…………」 「――っ――――!!」  兎は泣いた。  己に絶望し、泣いた。  愛する事は彼女の為だと思っていたのに。この愛だけが、狂った自分の救いだと思っていたのに。  その愛すらも自らの欲望であると、認めて絶望した。自分はただの壊滅的なナルシストだと、認めて絶望した。欲望に負けている事実からも逃げ、女を理由に延命している自分を認めず、ただ、人を殺しただけの人生。なんだったのであろうか、この人生は。なんだったのであろうか、あの愛は――――。  やがて、兎は泣くことをやめた。地に伏し血液に汚れたまま、息をすることも諦めた。今はもう―――動かない。  ブーツを掴んだままの指。青年はそれを振り払い、歩き出す。  今宵の月は青い。青年は慣れた手つきでタバコに火をつけると、藍色の空を見上げた。普通見えるはずのない雲行きが、彼には怪しいものだと解る。明日に雨を感じながら、青年は路地を歩いていく。  しばらく歩いた後、静かな路地で立ち止まった。  振り返り、一言呟く――――。 ACT-E  ホテルのロビー。チェックアウトのため、受付に向かう。  受付の男が疑心暗鬼な目つきで赤黒いコートの青年を見定めた。深く被った帽子のツバで表情は伺いにくい。手続きのため一度奥に引っ込む受付の男。  時刻は午前8時48分。ロビーに設置されたTVは連続TVドラマ“西瓜物語”をいつもと変わらずに放映している。  ――火星から生還した善次郎はエミリアとの久方の再会を喜び合っていた。 『ほんと、久しぶりよね』  メロンソーダを片手にエミリアが窓の外を眺めた。 『うん。もう2年か。君も大分変わったね』  善次郎の言葉に“クスッ”と微笑む。 『変わったなんて。失礼ね、老けたとでも言いたいわけ?』 『いや、そんな……』 『2年も経てば少しはしわも増えるわ』 『え、いや、だから――』  善次郎の戸惑う様に、エミリアは声を上げて笑った。 『あなたは変わらないのね。2年経っても、5年経っても』 『……うん』 『水晶の西瓜はまだ健在のようね。アレは売らないの?』 『ああ、やめておくよ。それに、アレはもう作っちゃいない。アレはこの世の仕組みに反しているよ』 『――そうね』  カフェテラスは静かで、客も少ない。窓の外に見える景色は、広大な西瓜畑――の跡地に立てられたビル郡。  エミリアは遠い目でその景色を見つめた。 『変わるものね、風景は』 『うん。変わってしまった』 『そして、生活もね……』  エミリアは横目で善次郎に視線を移した。  善次郎は暫く言葉を発する事もできず、虚ろに視線を逸らす。 『――結婚、したんだね』 『ええ』 『…………』 『幸せよ、今』 『幸せ……。それなら良かった』  善次郎が呟くように言葉を返した。  今ではもう過去が夢のように感じられる。でも、今、生きているこの今さえも夢心地。  近代化した町並みを歩く善次郎。彼は虚ろな視線で快晴の空を見上げた――。  番組はエンディングも終え、次のニュース番組へと移行した。 「お待たせしました」  受付の男が丁寧に挨拶をする。打って変わった態度に不満はあったが、赤黒いコートの青年は無言のままホテルを去った。  外は雨。昨日の昼から降り始めた雨が小雨となって今もしつこく降り続けている。  傘は嫌いな主義なのだが、ここまで本格派だと仕方がない。  青年の横を人が過ぎ、町並みが流れていく。その景色に紛れた喫茶店。店内に人は無い。開店時間を迎えても“CLOSE”の看板は回らず、客を知らせるベルは響かない。  デミスの町を去る青年――アルフレッド=イーグル。  その後姿。  ツバの広いカウボーイハットが特徴的だ――――――。  藍色の空が泣いている ―― END