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Schley's Genealogy

『毎日綺麗に磨かれる窓ガラス。しかし現実は容易く汚れるし、腐りやすい。微小な塵はものの数刻でガラスに王国を築くだろう。  窓ガラスの滑らかな表層を、幾つもの雫が伝って落ちている。降り始めの雫達は卑小な世界において、塵芥の障害を突破する必要に迫られる。何がそうさせるのかと言えば、重力という抗いようのない規律だ。  一度雫が伝うと、そこには水分の道が出来上がる。後駆けの雫は最初、戸惑うようにノロノロと伝い落ちるのだが、先人の道を見つけると勢いづき、あっという間に加速して窓の棧へと吸い込まれていく。最初から最後まで一辺倒に、未開のガラス面を落ちる輩は珍しい。  それを無軌道と言ってもいいだろう。敢えて障害に満ちた生を行く雫を「不合理」と利口な人は嘲笑うだろう。私はそれに反する気持ちがある。  苦労して道を切り開く雫の工程は、結果として実に濃密なものとなる。願わくば、人間としてそうありたいと思う………』  地元に云われる“雨の不吉さ”に反して。【彼】は雨天が好きだと、よく姉に言っていた。  落下する水滴の不安定さは【彼】の精神とよく似ている。 /COINS/ ++++++++++++++++++++++++++ Title: Schley's Genealogy C.1922~1996 SECTION:A 「テッド=スライ」 ACT-1  片田舎と言える。  広がる草原地帯に乗る山並み。川沿いにぽつぽつと散在する家屋と回る水車。小麦を潰す碾臼の香ばしさが漂い、間の抜ける乳牛の鳴き声が障害物の少ない草原に時折響く。主要な作物である芋類は貧弱な土壌の良き味方。一年の五割ほどは白化粧、山間地に巻く風は人の生活に厳しいものである。  のどやかで自然味溢れる風情――スランガンドの寒村部、「ダイナ渓谷」の日常はとてもおっとりとしたものである。資源に乏しい地域柄、住民は限られた種の作物栽培と乳製品の販売を主業として生活の糸を紡いでいた。それの他に、彼らは副業としてある繊細な製品の取り扱いも行っている。  外で作業するのが苦しい寒期。深々と降る雪景色に三角屋根の裏から「カリカリ」と物削りの音が溢れる。渓谷の住民で器用な人は時間を見つけて屋根裏に篭もり、作業机に向かって黙々と金属片の加工に勤しむのである。  それは華の都から伝わった。  金属に内包されし複雑緻密な世界―――時のリズムを奏でるそれは精巧に作られた“機械式時計”。冬場の手空きを持て余した渓谷民達は格好の副業として、機械時計の製作と修繕を請け負うようになっていた。資源の乏しいこの地に、それは実に適合した選択である。  質素な家屋の屋根裏で、機械仕掛けの宇宙とも例えられる精巧無比なミクロの世界が作られる……しかし、それは町から溢れた仕事の成果。町場の商人が伝手であり、覚束無い、あくまで副業に過ぎないものであった。  渓谷の寒村を訪れるのは仕事を運んでくる商人くらい。基本的にせこせこせしない。ゆったりと時が流れるのがダイナ渓谷の情景―――だった。  ダイナ渓谷は現在、“工業地帯の一角”と見なされ鉄道まで敷かれた。スランガンドにとって首都に次ぐ要所と言われるまで出世している。  春になると大勢の客がドッと押し寄せるイベントがあり、世界に通用する「ブランド」がいくつも存在。広がる草原は次々と宅地開発され、川沿いには清浄な水を必要とする工場が立ち並んだ。小麦を潰す香りはほぼ跡形なく、乳牛の鳴き声は僻地へと追いやられて代わりに打ち鳴らされる金属の音が響いている。  欧州の静かなる渓谷に何が起こったのか?  全ては渓谷に生まれた一少年による“誤ち”から始まった―――。 ACT-2  「テッド=スライ」はなんともない牧場主の小倅として生を受けた。基本的に親の言うことを聞かず、家の手伝いもせず、学校にもまともに通わない……それがテッドという人の幼少期である。使用人の娘で幼馴染でもある「キャリー」以外、彼の暴走を止められるものは無い。それほど恵まれた体格でもないのだが、その優れた運動神経と異様に激しい気性から地元の乱暴者として名を効かせていた。  まだ静かであった渓谷。少年テッドは小さな警察署で何度も何度も注意を受けたが、一向に落ち着くことがない。  ある時は牛に跨り、子分らと共にレースを開催。結果、数頭の牛が牧場の柵を越えて辺り一帯を暴れまわる事態に。これはマズイと思った彼は山中に逃亡、行方不明となり今度は住人百余名による大捜索活動へと発展させた。  この一件で捕縛された時も、彼は餓死寸前ながら最後まで逃亡を試みたらしい。気の良い住民達は彼を叱ることよりも命を救えたことを祝ったとされる。  テッドの性質が悪いところはその逃げ足の速さ。記録は残っていないものの、九歳の時点で警官三名を楽々振り切っていたと言うからに、そうとうなものだろう。  ただ、何事にも破壊的な少年……というわけでもない。  彼は確かに乱暴で粗野な性格だが、ある時だけは別人のように大人しくなる。それは父親の“時計作り”を観察する時だ。  父親は夕食後に屋根裏へと上ることがあった。テッドは気が向くと父親の後を追い、作業台の横に着く。すると狐のように切れ長な瞳が懸命に見開かれ、父の手元を注視するのである。  彼には兄がいるのだが、その兄はよく父親から時計作りのレクチャーを受けていた。父親としては兄を後継として育てていたのだろう。テッドと異なり、言われた事は素直にこなす兄は着実に技量を練り上げていた。「兄を優先して弟に教えないとはなんて酷い父親か」と思われるかもしれない。だが、それは違う。  当初テッドの父親はきかん坊の次男にも時計製作の技術を伝えようとしていた。彼に才能を感じていたというのもある。しかし、困った事にテッドは……集中力こそ尋常ないものがあるものの、何一つ言うことを聞こうとしないのである。見よう見まねを信じて無軌道に作業し、部品を壊してしまうこともしばしば。怒られても平然として反省しない。  ――テッドという少年には鬼も恐れぬ大胆さと、0.3mmの金属片に穴を開ける緻密な集中力が共存していた。時計製作における彼は明らかにプラチナムな輝きを持っていたと言える。ただ、時計に惹かれることはあっても、それを製作する必要性に乏しかったのである。率直に言えば「自分でやる気はない」ということになる。  父親も後継者なら長男がいるし、その時代における時計製作は物足りない副業に過ぎなかったので、「農業に精を出してくれればよいか」と短気な次男へのレクチャーを諦めた。  テッドは牛レースの一件後も何一つ懲りずに悪事を重ね、十四歳に至るといよいよ冗談では済まないゴロツキと化しつつあった。  そして、遂に一線を越えてしまう。 ACT-3  ある日、テッドは子分の一人から伝言を受け取った。内容は時刻の指定と、古い納屋に来て欲しいというもの。「誰からだ」と言っても子分が答えないので一発小突いた。すると子分は「キャリーです」と泣きながら白状した。  テッドは脳内でやや混乱したらしい。どうにも呼び出し=“決闘の申し出”として捉えた彼としては、女に挑まれることも初めてだし、その上相手が生真面目な幼馴染ということで理解が追いつかなかったようだ。そしてテッドは「もしかして……決闘ではない?」と考える。彼はそこから次の発想に至った。「なるほど、俺を存分に叱りつけるつもりだな!」。  暴れん坊テッドにとってキャリーは唯一の天敵と言えた。くりくり癖毛の少女は要所に姿を現すと「テッド、止めなさい!」と立ち塞がる。そうすると不思議にテッドは彼女を見てしまい、小言を聞く羽目になってしまう。自分とは違って勤勉なキャリーに、劣等感や得体の知れない畏れを抱いている――テッドはそのように自己学習して出来る限り天敵から身を隠すことにしていた。 「口の上手い奴だからな」……テッドは一対一での勝負を嫌った。  指定の時刻は午後三時。ちらちらと、空にカラスが飛行する時間。電線など一切無い爽快な空が徐々に朱色に変わりゆく。  テッドはいつも通りに子分を引き連れ、ちょっとしたイラつきを抑える為に警察署の警官をおちょくって遊んだ。ちっぽけな署の壁に罵詈雑言の限りを書くのだが、何分まともに学業をしていないのでバラエティに欠ける。だから象形文字の如く、ペンキでイラストを描くことになった。  案の定にバレて子分達はとっ捕まったが、警官は首謀者の影を見ることすらない。子分達は夜まで落書きを消す作業に従事させられたものの、テッドは「一仕事した!」とさっぱりした心持ちで自宅に帰っていた。  ――子分達がようやく落書きを消し終え、自宅に戻って親に叱られている頃。  テッドは家族とテーブルを囲んで夕飯を食べていた。母が用意するラクレットの安心感。とろとろのチーズを芋などに絡めてパクつけば、自然と笑顔になる。 「テッド、今日は悪さをしてないだろうな」  食卓を挟んで厳格な表情の父親が言う。 「何もないね。真面目過ぎて肩が重いや」  少しの間もなくテッドは答えた。彼は案外器用で、叩き込まれたマナーはキッチリこなす。パンくず一つ零さないテーブルマナーは、彼の真面目ぶった発言に真実性を与えていた。 「そうか。あとは学問にも励みなさい」 「もちろんだよ、パパ!」  非常に良い、澄んだ声色。少年特有の清純さを演出する小狡さは手馴れている。隣に座る兄は今日、弟が何をしたのかを人伝に聞いているのだが、家庭の平穏を優先して黙っていた。  ディナーを終えたのは午後六時。灯りの少ない草原の夜は静寂に包まれている。  食後の喉やかな時間。一休みを終えて父が屋根裏に向かおうとした時、慌ただしくスライ家の扉が開かれた。開いたのは使用人であるカマス=スチュアート。使用人と言っても、スライ家と雇用被雇用の関係にあるだけで、テッドの父とは「友人関係」と表現するのが最も正しい人である。  血相を変えてどうにも平常とは異なるMr.スチュアート。テッドの父は「どうした、何かあったか?」と聞いた。するとスチュアートはしどろもどろながら、「む、娘が……キャリーが帰ってこないんだよ!」と訴える。  テッドの父はしばし言葉を失い、そして「なんてこと!直ぐに探そう!」とこれも慌てて家を飛び出した。話を聞いていたテッドの兄は「テッド、心当たりはないか?」と言う。テッドは「いや、知らない」と答えた。それを聞いて兄も家を飛び出して行く。  草原の闇。父と兄が持つランタンの灯が揺れている。一本、一本と。揺れる灯は新たな灯を連れ出し始めた。  この時テッドは慌てない。しかし、とても動揺していた。  テッドも家を出る。その進路に迷いは無い。  暗がりの草原を迷いなく駆ける。向かうは納屋、広いスライ家の敷地でも端っこの位置。わざわざ使われていない古い納屋こそ、伝言にあった“指定の場所”である。  渓谷に響く少女を探す声。それを背に受けながら、テッドは息を切らしていた。ランタンのキャンドルが古びた納屋をぼんやりと、闇に照らし出している。  息を整えながらテッドは納屋の扉を開いた。まともに整備されてないので、ぐっと力を込めて体で押すようにする。  古い納屋は全て木製の簡単な作り。長年湿気を吸った木材の黴びた臭いが鼻を掠めた。現在はほとんど役目をこなしておらず、中には錆びた農具と小山になっている藁があるくらいのものだ。  ランタンに照らされる納屋の中。本来特にこれといって華のないその場所に、一人の少女が浮かび上がる。スランガンドではよくある服装なのだが――ダイナ渓谷の女性が着用する衣装の特色としては、エプロンが全体的に紺色でツゲの木の刺繍が施されていることである。  場所を考えると、農作業用の服装であるのが普通。だが、クリクリとした癖毛の“キャリー”は頭にカチューシャを乗せて、ちょっとおしゃれをしているように思われる。薄らと化粧もしているようだが、何分ランタンの光では不足で、何よりテッドのガサツさはそこまでを一見して汲み取ることはなかった。 「まさかとは思ったが、……呆れるじゃないか」  掲げていたランタンを下げ、膝を曲げて視線に合わせる。藁の上で膝を抱えている彼女は「何が呆れるの?」と聞き返してきた。 「俺が一体、何をしでかしたら君をそれほど怒らせるのかな」 「そうね、例えば約束をすっぽかしたりすれば怒ると思うわ」 「おいおい!」  思わず肩をすくめる。テッドはランタンを砂まみれの床に置いて、両手をひらひらと振った。 「約束たって、俺は返事をしてないじゃないか。君が勝手に思い込んでただけだろう!?」 「――え? べ、別に思い込みなんかしてない……けど」  “思い込み”と言われたキャリーは否定しながらも顔を真っ赤にしている。テッドは続けて「俺はYESなんか言ってない!」と声を荒げた。  彼の言い分はもっともなことで、確かに“約束の伝言”は受け取ったが、それに対する意思はYESともNOとも伝えていない。“納屋に行きます”なんて言っていない。 「そんな――まだ私――何とも言ってないのに………」 「大体だな、俺は身に覚えがないけどな。俺に対して文句があるってんなら正々堂々といつもみたいに、道端でも家にでも押しかけて―――・・・て、え? あれ?」  そもそも、テッドには不可解だった。  何かしらの悪事を働いた彼をキャリーが叱る、というのは珍しいものではない。ただ、いつもは呼び出したりなどせず、人の目構わず唐突に立ち塞がって叱り飛ばすのである。てっきり叱られると考えていたテッドは、経験のない手法から「すごく怒られるに違いない」と推察していた。だからこそ伝言を無視して、約束の時間になっても納屋には近寄らなかった。「呆れた」のはわざわざ叱る為に彼女が納屋で待ち続けたと思ったから。  テッドが「キャリー」という少女を思い浮かべる場合、それは脳内で「怒る」「うるさい」「逃げろ」といった単語が伴われる。他は連想しようもなかった。  当然として。キャリーが顔を赤くして泣き始める、なんて事、どうやっても思い当たるワケがない。だからその状況に直面した彼の理解が追いつくワケもない。  少女は長い時間緊張しながら待っていたのだろう。周囲が暗くなっても待っていた。大事なことを言おうと思っていたから――誠実になろうと尽くしていたのである。  その結果に大幅遅れで到着した彼から「YESじゃないよ」という風な事を言われて……すっかり気が動転したらしい。「ぅぅぅ」と声を抑えながらも涙を堪えられずにいた。 「どうしてだよ!? だからだから! 時間になっても来なかったのなら、俺の家に来るなりすればいいだろう? そんで叱ればいいさ!」  今まで散々に、テッドは老若男女構わず泣かせたり怒らせたりしてきた。そう言った人の表情を見てケラケラ笑い飛ばしたものである。ところが、初めて見たキャリーの泣き顔はちっとも笑えない。鼓動が早まり、冷たく汗が吹き出ていることを実感していた。  テッドは考える。生まれて初めて、「泣いている人を泣き止ませたい」と考える。だが、まともに謝ったこともない少年はどうしたら良いのか見当も付かない。  彼は逃げ足の早い男だ。しかし、それは彼が臆病だということではなく、類まれな運動神経を表す事実。テッド=スライは大した度胸を礎にした、前傾姿勢の精神を根幹としている。  涙を流す少女を前に……テッドは膝を着いて手を差し伸ばした。  暗がりの納屋。床に置かれたランタンの光が淡く二人を照らしている。  手の平が、塩気のある雫に触れる。少年は暖かみを感じながら、彼女の頬を優しく撫でた。少年が苦し紛れにも実行したそれは、幼い頃に見た母の姿を頼りにしている。 「テッド……」  少女の濡れた瞳には、乱暴者の彼に珍しい、穏やかな表情が映っている。 「キャリー……その、まだよく解らないんだけどさ。俺が君を泣かせたのなら、謝るよ。ごめんな」  穏やかなものである。テッドは自分の体験をなぞるように、今度は少女の頭を撫でた。ぎこちない優しさだが、キャリーはキャリーでびっくりしたらしい。それと共にテッドの意外な反応に突き動かされるものがあったようだ。  異性の香りは頭皮に強く出る。もちろん個人差はあるものの、人を抱き寄せればこれを体感するはずだ。もっとも、今テッドは“抱き着かれた”形なのだが、彼女の身体が接していることに変わりはない。  テッドは目を見開いた。彼の先細りなツリ目はカッとなって動揺している。  想いを伝えようとしていたキャリーは、気構えとしてスタンバイ状態にあったことは間違い無い。一度突き放されたように感じていた所に急に優しさが舞い込んだので、感情の緩急が付いたのだろう。考えるのではなく、感じるままに抱き着いていた。  抱き着かれたテッドの心境たるや……体内で恒星が爆発したかのように、人間の外っ面が全て吹き飛んでしまったのである。呆然とはしているが、自失ではない。むしろ晒け出ている。  テッドは大胆な本性だ。ところが年齢は当年持って十四歳。ウブであった。  人の涙を止める術を知らないように、人に抱き着かれた時の対処も知らない。参考になるものは経験上存在しなかった。唯一、彼の呆然とした頭脳が参照できた教典は―――遺伝子である。 「キャリー!!!!!」 「あっ!?」  二つ上の異性……それもテッドの理解できない己の深層では“憧れ”にあった人だ。繰り返すが、テッドは大胆な本性を備えている。それは時に勇気へと変化するが、場合によっては暴挙ともなる。  キャリーは年上なのだが、テッドとの力比べでは相手にならない。  興奮状態となったテッドは力任せにキャリーを藁の山へと押し倒し、勢いのままに彼女の服を破った。ぼんやりとした灯りの中、という状況も彼の本能を暴走させた原因の一つであろう。さながら狼男ならぬ狐男といったところか。  破かれた衣類の狭間に、少女の胸元が露になる。続いてスカートも引きずり下ろされた。柔肌に触れた少年の欲情はさらに弾けた。 「キャァァァアッ!!」  少女は叫んだ。テッドは止まらなかった。  行程が違えばこうはならなかったかもしれない。だが、現実はこの様である……。 「や、やめてぇ!!」 「うおぉっ、キャリィィィ!!!」  先ほどと同じく少女は涙を流しているが、今度のテッドは比べてなんと乱暴なことか。彼らしいと言えばそうであり、「いつかやらかすと思った」と言われても仕方がないだろう。  少女の金切るような声は甲高く渓谷に響き渡っていた。  ――慌ただしく扉が蹴破られる。新たにランタンの灯りが追加された。  ドカドカと納屋に入る足音。揺れる複数のランタンが納屋の現状を照らし上げる。逃げ足なんて役に立つ場面ではない。唯一の出入り口には大人が数名詰めかけていた。  興奮していた少年は息を切らしながら振り返り、その顔を大人達にキッチリと晒している。 「て……テッド、お前………」 「きゃ、キャリー?? ……キャリーッ!!」  少年の父親は言葉に詰まり、少女の父親は雄叫びを挙げて少年へと組みかかった。  Mr.スチュアートに続いて他の大人達も少年を押さえ込む。アラレもない姿になっている少女には上着が被せられた。  ショックで泣き止まないキャリーは厳重に付き添われて家へと送られ、ショックで言葉も発せないテッドは父親に殴られる。  その後、彼は小さな警察署に放り込まれた……。  ――テッドは未成年ながら大変なことをやってしまった。  父親はこれまで我が子に甘い裁定を下してきたのだが、今回こそは厳重に対処する必要があると決意。また、スチュアート家は当然として訴えを起こすものだと考えられた。  ……しかし、キャリーは「私が悪い」の一点張りでテッドを庇い、彼を裁かないでと懇願した。スチュアートと夫妻はそれでも「これは仕方がないことだ」と説得したのだが、件の経緯とキャリーの“想い”を知ったことで「法的な行動を起こさない」とスライ家に伝えた。  だが、厳格なテッドの父親は――例えキャリーが許そうとも――道理として息子に沙汰を下す決意をしたのである。一度の誤ちだが、種類限らず誤ちの数を考えればテッドはあまりにそれを積み重ねすぎた。スライ家の規律は罪を分別して妥協することを許さない。だからこそ、父は我が子に渓谷からの「追放」を命じることになる。  それは勘当に近いものであった。バッグ一つだけを手に、テッドはダイナ渓谷から去ることを強要されたのである。  母親は大切なあの子を追い出さないで、と訴えたが父は頑として認めない。時計職人の余談無い律儀さは生半可な温情を受け付けない。それは意地悪ではなく、真面目なだけである。  そして当のテッドだが……彼は一切、父親の判決に反論することなく、淡々として出立の準備を進めた。出立への理解として。一番の要因は、彼の鼓膜に彼女の悲鳴が残っていること、だろう。合わせる顔が無いとはこの事である。彼は誤ちを――その光景を思い出して、「あれはダメだ」と己に恥を覚えていた。  せめてもの手向けとして、母親は良い質の衣服を我が子に着せた。父親も馬車の手配くらいはしてやった。父は何も、テッドを殺そうという思いで追い出すのではない。本心には辛い感情が渦巻いていた。  出発の朝。兄は「内緒だ」と前置きして、テッドに時計製作の用具を持たせた。それは自分の物だが、何も術無く去ろうとする弟への精一杯の手助けだった。父が常々零していた「テッドの輝きを活かす切っ掛けがあれば……」、その言葉を信じて託したのである。  雪解けの季節。春風が渓谷を駆け抜けていた。  風に乗るように、少年テッドを乗せた馬車が奔り去って行く。 ――テッド=スライ――  後に“スライ財閥”の発起人となり、世界で最も繊細とされる機械式時計、“Dyna Ravine[ダイナラヴィーン]”を生み出す立身男。その始まりは贖罪という大望を抱くことから始まったのである。 ACT-4  1900年代。――それは歴史に深く爪痕を残した二つの大戦を抱える激動の世紀である。  テッド=スライが故郷を離れてスランガンドの首都を放浪し始めた頃、「再び戦争が勃発するかもしれない」……そんな噂が彼の周囲にあった。時代の大うねりの直前。テッドはその気になれば希代の盗賊になれただろう。彼の驚異的な集中力と天性の身体的加速力、そして大胆な本性はそれを可能としたと断じて良い。  だが、テッドは悪事で生計を立てなかった。彼は心に誓っていたのである。「いつか故郷に戻ってみせる。その時にまだ、顔向けできないなんてのは嫌だ」――と。  一人前の男として、故郷が誇れる存在に成ることを自身の道と定めていた。  大望への足掛りは別れ際に渡された時計製作の用具。それも充分ではない、あくまで持ち運べる範囲での、「お守り」のような物であった。しかし、テッドにとっては何よりも頼もしい希望だ。  何の背景も無い。提示できる経歴も、銭も無い。単なる一介の小僧……。  テッドは飛び込みで時計職人を訪ね歩いた。日々の糧は食品加工屋での住み込みや、靴磨きなどで限界ギリギリを綱渡る。  大半の職人達は薄汚いテッドを見下して放り出した。予断ならない分、都会の闇は浮浪児を野良犬よりも忌み嫌う。防衛中立を保つ為に保身へと急ぐ世論は完全に逆風である。それでもテッドは諦めず、自分の売り込みを続けた。  そして小さな時計工房にて小間使いとして雇われる事に成功する。社会の金網に見事掴まり、昇る機会を得たのである。  時計工房では数人の時計技師が働いていたが、テッドは中々作業に参加させてもらえない。機械式時計の精密な作業は、“失敗”に対してシビア。修理にしろ製造にしろ、僅かなミスが全てを壊してしまう。高価な金属を使う作業などは尚更だ。  テッドは伝達や素材業者からの受け渡しなどに従事した。一向に製作に携われない日々が続く。それは二年間に及んだ。  ――時計工房に異変が起き始めたのはテッドが来てから二年程経過してのこと。  『奇妙な異変』を体感した職人達は各々が当初、「疲労が溜まっているのか」と自分の身を案じた。互いに打ち明けるまで、誰もが“自分だけの症状”だと考えていたらしい。どのような症状かと言えば記憶障害もしくは夢遊病となろう。具体的には『朝起きると時計の修理が完了している』というものである。  やがて工房の全ての職人が同じ病を発症していると解り、パニックとなった。口々に「眠りながら修理していたのか!?」「労働条件が厳しすぎる、頭が狂った!」と狼狽え、経営者の元へと詰めかける。訴えを聞いた経営者は「そんな馬鹿な」と言い返した。職人の大半は工房居住区に住み込んでいる。しかしだからといって夜中に、無意識に、工房で作業をこなすなどと……馬鹿な話である。それも集団で発症しているなど有り得ない。  職人からの訴えを聞いた経営者は、数人の古参技師と共に夜間の工房を監視することにした。もしそこにフラフラと夢遊病の男が現れたら非現実的な事態でも受け止めるしかない。  経営者達が見張る夜中。眠気眼を擦り、欠伸をして待つ彼らはぼやっとしたキャンドルランタンの灯りを見た。古参職人が「ほら来たでしょう。やっぱり僕らは職業病だ!」と嘆く。しかし、よく注視していた経営者はそこにある真実を見定めていた。  夜中の工房に姿を見せたのは職人ではない。それは二年間、工房の小間使いに従事してきた少年、テッドであった。経営者が真実を伝えると見張っていた誰もが驚き、そして「あの小僧は一体、何しに来たんだ?」と懐疑して袖を捲った。  一人が言う  「部品をくすねに来たに違いない」  別の一人が言う「いやいや、事務所の金が目的だ」  すぐにでも飛び出して少年を捕らえようとする職人達だが、経営者は小声で「少し待て」と命じた。  そのまま物陰から様子を伺っていた経営者達。緊張を持って息を潜めていた彼らは次第に余計な事を考えなくなる。あまりに信じ難く意外な事実。精神の衝撃を受け、ただただ成り行きを見ていたのである。 ―――単に足が速い小僧だと考えていた。体力だけが取り柄の、寡黙な奴だと捉えていた。それらの固定観念はこの一夜によって打ち砕かれることになる。  職人の机を回って次々と、やり掛けの修繕作業を手際良く……それこそ工房の誰よりも素早く、画期的な手順で遂行していく。  夜の工房。金属の削り音とトンカチの打ち付ける音が小さく響き、移動の為にそれが止むと静寂の中に「チッ、チッ、チッ」時のリズムが鼓動を打つ。少年が机を移動する度に静寂で奏でられる時の鼓動は増え、多重奏となって工房内に時のオーケストラを作り出していた。  小間使いのテッドはこの二年間、軽作業に従事しながらも“観察”を怠らなかった。それは見習いの立場として最重要な事柄であり、驚異的な集中力を備えるテッドが本来得意とするものである。過去、父の作業を見ていた頃とは異なる。生きるために、大望を成すために。  郵便物を机に置く/材料を受け渡す/工房内を歩きつつ……テッドは鋭い観察力によって職人達の作業を学習し続けたのである。そして記憶を頼りに睡眠時間を大きく削り、兄から譲り受けた僅かな器具で粛々とした追体験トレーニングを行っていた。  スライ家のテッドは確かに足が速いし、大胆な気概も持ち合わせている。だが、真に彼の長所であるのは“強烈な集中力”。  父親が見抜いたように、それは技師として必要な才能の輝きだ。工房内で先輩職人達の作業を観察していたテッドには、彼らの作業がコマ送りのスローモーションとなり、1mの距離からルーペを使わずに緻密な工程を目視できていたのである。  ……経営者達は流れるような少年の作業にしばし見入っていたが、自分の仕事に手を付けられそうになった職人の一人が堪えられなくなり、思わず飛び出した。  テッドは古参職人達に取り囲まれてそのまま事務室へと放り込まれた。確かに見事な仕事ぶりだったが、少年のやっていたことは業務の規約から違反している。何より、先輩達に対して失礼なことである。  なぜ、テッドがこのように大胆過ぎる行動に出たのか。彼は事情を問いただす経営者に「自分の力を見せるにはこれしかなかった」と答えた。部品の欠損等、業務への支障はきたしていない。しかし、「夜中にこっそりと他人の仕事を奪う」という様は気が良いものではないだろう。  経営者、モリンガン=アッシュは実に現実的な感性を持つ老獪な人である。  彼は不届きで危うい大胆さと、輝かしく頼もしい才能を持つ少年に対し「次からは許可を得るように。それと、明日にも君の作業台を用意しよう――」と、しだれている長い眉毛を弄りながら、満面の笑顔で金の入れ歯を輝かせていた。  時計工房経営者、モリンガン=アッシュに見出されたテッド少年。彼は以後、メキメキと頭角を現し……三年後には工房長、翌年に新規工房の責任者、そのまた四年後に独立……と、二十代半ばにしてスランガンド有数の「機械時計製作者」となった。  モリンガン=アッシュのブランドから独立はしたものの、それは喧嘩別れではない。テッドが一介の雇われでは収まらない器量だとモリンガンが判じ、またその大胆さが恩人への遠慮によって封じられてしまうことを憂いたからである。  年功序列が強い職人の世界で、若者のテッドが頭を抜け出せるように支える……そう言った補助の役割をモリンガンは選択した。彼もまた、有能な経営観を備えた存在であり、それをビジネスパートナーにできたことはテッドにとって最大の幸運とも言えよう。  テッドの武器は「トゥールビヨン」と呼ばれる重力に配慮した機構を内蔵する腕時計製作。これは当時、欧州において11名しか使えない技術で、大いに宣伝材料となった。――しかし、それでも群雄割拠の業界では中々独走とはいかない。  テッドはスランガンドの首都にブランドの居を構えていたが、古来の派閥による流通阻害などで苦戦を強いられた。また、トゥールビヨンの発祥地でもある隣国は常に最先端をひた走っており、そのプレッシャーがスランガンドの職人達を抑え込んで業界全体が鬱屈としていた。  ……青年テッドが苦戦を強いられていた頃。かつてより心配されていた大戦が遂に勃発。世界を巻き込む大騒乱の中、中立を保っていたスランガンドには多くの芸術家、技術者が難民として逃れる事態となった。  スランガンドは既に「時計製造の過密地」。国の職人達は仕事の奪い合いを恐れ、その事態に難色を示した。職人同士の繋がりを重んじたブランドはよほどの有用性が無い限り雇用を見送り、流入した技師の多くは満足な雇用に有りつけなかった。  そこにおいて大胆な指針を打ち出したのが“ダイナブランド”の長――テッド=スライである。  彼は分け隔て無く流入技師を受け入れた。当時は「職人長の下に無数の職人」という技術に基づいた序列を形成するブランドが多く、上記の問題にはこれが根幹としてあった。  テッドは違う。モリンガン=アッシュによる経営者、従業員、事務の分別――つまりは「ギルド(組合)」ではなく「カンパニー(会社)」として技師集団を形成する術を学んでいたのである。  まだ健在であったモリンガンの助言もあり、テッドは「技術が未満の者であっても知識があれば他の分野に活かせる」としてドンドン新規を迎えた。例え小間使いであっても、技師見習いと“小間使いのスペシャリスト”とでは圧倒的に仕事量が異なる。もっと言えば、「小間使い」を細分化して「営業」「経理」「人事」「広報」などに分業した。そしてそのどれもが「製品に関する専門知識を持つ」のである。これは当時の他分野において既に珍しくもなんともないのだが、これを頑固な職人社会に率先して導入したことが大きい。  モリンガンのブランドも更なる受け皿として働き、効率化された「ダイナブランド」は次々に新事業所・工場を開設した。加えて有能な技師の「独立」を推奨することで、名の変わった「ダイナの子」がスランガンドに蔓延るようになる。  大戦後、祖国に帰る技師やデザイナーも快く見送った。それらは全て、国境を跨ぐ伝手。国外進出の足がかりとして存分に機能したようだ。  テッドは幼少から落ち着き無い性格であったが、経営者となった彼にはそれが“柔軟さ”となって顕れている。他事業にも手を広げ、やや圧力的ではあるものの、傘下を増やす術にも長けていた。  大戦の勃発前から終戦以後にかけて。テッドのブランドは巨大化した組織に飲み込まれ、「スライ財閥」という大きな枠組みの中核として収まることになる。モリンガンという老獪な人が並び立つことで体裁を保ち、スランガンド内での発言力も高まった。  モリンガンはこの過程でプライベート・バンカー協会の会員となり国家の重鎮に食い込んだ。機械式時計全盛の象徴的存在として、彼の名はスランガンドの歴史に深く刻まれたのである。  テッドは四十手前に差し掛かっていた。いや、それでも若い。その影響力を考えればあまりに彼は若すぎる。  大望を抱き、靴磨きの浮浪児から財閥の頂点にまで登り詰めた彼は「今こそ時期だ」と意を決したらしい。しかし、その決意はテッドにとって遅すぎたと言えよう。  ―――二十年以上の時を経て、一台の馬車がダイナ渓谷を訪れる。中から姿を現した気品の良い青年。渓谷の老警官はすぐにその正体を見抜いた。狐のように吊り上がった眼にはかつての面影が有りありとしていたのである。  老警官はあの乱暴者だった小僧の気品に驚き、懐かしさに涙を浮かべてこのニュースを渓谷中に届けた。  素朴で限られた生活域。かつての子分達はそれぞれが一家の主になっていたが、久しぶりの親分を慕って彼を囲む。テッドは彼らの顔ぶりを見て、少し昔のノリを取り戻すことができた。  そして・・・・・テッドの生まれ育った家。  多少の増改築は施されていたものの、概ね変化なく、それは同じ場所に佇んでいた。  扉を開いて最初にテッドと接触したのは母親であり、彼女は突然の幸運に大泣きした。泣き声に驚いて階段を降ってきた父親は、黙って帰郷した次男をリビングに迎え入れる。彼は突然の帰郷に驚きはしたが、息子の変化にはそれほど意外を感じていなかった。なぜなら、テッド=スライの名は新聞で幾度か目にしており、全て記事を保存して何度も見直していたからである。「今更なぜ戻った」などと問い詰めていたが、本心ではこれほど嬉しいことはなかったのである。  久しぶりの父と母にテッドは感涙した。それから一時間経たず、彼は兄と幼なじみのキャリーとも再会することになる。  ――この帰郷はテッドにとって遅すぎた。  キャリーは主婦となっていた。過去の件についてテッドが謝罪しようとすると、「気にしないで」とむしろ申し訳なさそうに言った。その傍らに立つ夫、キッド=スライは「立派になって誇らしい」と弟の帰郷を心から歓迎した。  テッドは兄と幼なじみに対して感謝の思いを伝えると共に、二人の仲を祝福する。もう十年も前に婚姻したようだが、まだ子供はできないという。テッドは「それは兄貴、頑張らないとな!」と、笑顔でエールを送っていた……。  この訪問直後。首都に戻ったテッドは一心不乱に時計製作を開始したらしい。  半年に渡って隠居生活のように工房へと篭ったテッド=スライ。彼が次に公の場に姿を現した時、その手には彼の生涯最高傑作である高精度機械式懐中時計、[Dyna Ravine]が握られていた。籠のような外見から覗く緻密な構造がなんとも儚気であり、そして美しい。  後にブランドが危機を迎えた際に競売へと掛けられ、ディラハの富豪に買い取られることになるが……そこで美術館に展示されたことで、むしろ名が広まっている。  [ダイナラヴィーン]はなぜ作られたのか。ブランドの象徴として今も時を刻み続けるその超緻密な世界には、一体、どのような想いが込められていたのだろうか。  テッド=スライが多くを語ることはない。謎は謎のままである。 /COINS/ ++++++++++++++++++++++++++ SECTION:B 「キッシュ=スライ」 ACT‐1  外では色々とあったらしいが、ダイナ渓谷の長閑な風情に大きな変化はない。変わらず牛は鳴き、各家庭の屋根裏から金属を削る音が溢れている。しかし、この風情が激変するとはこの当時、住民の誰もが予想もしていなかった……。  渓谷の運命を変えるその人物は、外の騒乱も収まった頃。待望の子としてスライ家に加わった。女心と秋の空――という諺もあるが、“彼女”ほど気性の激しい女性ともなればそれは暴風雨に例えた方が良い。  「キッシュ=スライ」は母キャリーと父キッドJr.の長女としてこの世に生を受けた。母キャリーがAround40にしてようやく授かった子で、1900年代当時としては現在よりも一層の危険が伴った。母子無事であったことに家族どころか渓谷中が歓喜したものである。祖父となったキッドSr.(老スライ)の軟化した変貌ぶりには周囲の誰もが驚いたことだろう。生真面目な父、キッドJr.もようやくの我が子を溺愛した。  キッシュは類稀な気性の強さを持っていた。目つきからして鋭く、男子相手にも容赦なく苦言を吐く口うるささは、“小さな先生”とあだ名されるほど・・・というより、渓谷に唯一の学校で教鞭を執る先生に対して、その生活態度を注意する姿はどちらが本当の先生なのか解らない有様である。  山々に囲まれた草原でのびのびと育ったキッシュは明らかに異質な存在だった。  勤勉な態度で挑む学業は渓谷の授業における許容範囲を凌駕し、学校は彼女の為に山の向こう側から高度な教材を取り寄せる必要に迫られた。  細身で非力ではあるのだが、瞬発力と持久力はあり、駆けっこでは誰も敵わない。また、キレのあるビンタと蹴りは学友の男子を震え上がらせ、彼らの苦し紛れの抵抗も精密な反応で尽く回避してみせた。  そして非常に活動的で大胆な発想を持つ人物であり、人々を引きつけて従える才能を生来に備えていた。彼女の存在が潜在意識に刷り込まれ、渓谷における次世代の男女パワーバランスが大きく傾いたとまで言われている。  ……ただ、当時はまだ社会の風潮が現在ほど整っていない時代である。幼少時はともかく、大人になるにつれて性別による隔たりが確かに存在した。特に就労に関しては顕著で、都会ならいざしらず、まだ静かだった渓谷では選択肢がどうにも少ない。その頃のダイナ渓谷では、成長した女性は主婦となって家事を中心として生活することが基本であった。今では渓谷の代名詞でもある時計製作・修繕も男性の専門職という認識が強く、キッシュの父と祖父もこれを踏襲して技術を積極的に伝えることはなかったようだ。  キッシュは父や祖父が行っている作業を観察するのは大好きであった。しかし、周りの子らと同じく特に不満を言うことなく、そのままならば母と同じに穏やかな一生を送ったことであろう。 ACT‐2  キッシュが10歳になった頃。一年に一度、ダイナ渓谷の地を訪れる彼女の叔父がプレゼントを持ってきた。叔父がプレゼントを持ってくるのは毎回の事で、それは彼が訪れる日がキッシュの誕生日と決まっているからである。それ以前にも不定期に訪れていたらしいが、彼女が生まれてからはそのように定期化された。  叔父はスランガンドの首都で暮らしているからだろう、ハイカラな装いで持ってくる物も渓谷では見ないような珍しい物が多い。例えば町に走っている汽車の模型や、精巧な細工の施されたブレスレットなど……値も張る品を惜しみなく与えてくれた。  父が常々「彼は大きな仕事をしている」と誇らしげに言っていたので、「お金持ちなのね」とキッシュは叔父のことを尊敬しつつ……心に若干の距離を作っていた。それは彼女が賑やかさに憧れているからであり、気品のある叔父に嫉妬していたからである。お金持ちの遊人だと勝手に決めつけていた。  そんな叔父が十歳の誕生日に持ってきたプレゼント。豪華な包装を施された箱の中身は――とてもではないが10歳の少女に相応とは言えない、最高級で最先端の技術を詰め込んだ“機械式腕時計”。父と祖父の仕事を見ていたキッシュは、技術が無くとも知識はそれなりに蓄えていた。だからこそ、しげしげとプレゼントの時計を観察したことで、それがどれほど素晴らしい物かを感じ取ることができたのである。 「叔父さん――これは凄い物でしょう?」  いつもは単に「ありがとう、嬉しいわ」程度で済ませる彼女が、この時ばかりは瞳を輝かせ、興味津々に叔父を見上げた。  叔父は穏やかな表情でいつもキッシュを見ているが、作りとしては目つき鋭く、いかにも勝気な顔をしている。その彼が、優しさではなく“真面目さ”を出して少女の問いに答えた。――“ああ、そうだよ。私が丁寧に作り上げたものだ”。  キッシュは打ち震えた。金持ちのおっとりした中年だと思っていた叔父の表情は、父が作業机に向かう時と同じく、毅然とした技師としての迫力を十分に備えていたのである。いや、その“深み”は父や祖父と比べようがない。渓谷の自然寒波ではなく、都会の社会的風雨に晒された歴戦の顔つきである。それは生真面目さと大胆さが共存するキッシュの、満たされていない大胆な一面を大いに揺さぶるものであった。  そして叔父はこう言った「キッシュ、君も機械仕掛けの宇宙を作ってみたいかね?」。少女キッシュはほとんど反射的に「私もできるの!?」と、更に瞳をらんらんと嬉々にした。  彼女は常々。内心、自分の将来に疑問を抱いていたのだろう。  ――キッシュの叔父であるテッド=スライは最上級の時計技師であると同時に、事業を多方面に展開している実業家でもある。  彼は数年前より「時計技師学校」に力を入れており、既にスランガンド内に複数、国境を越えても関連学校を経営するようになっていた。国からも強い支援を受ける、真っ当な技師育成機関である。本人も希望する道であるのならば、その誘いは実に魅力的なものであるといえる。  しかし、両親はその話に乗り気ではない。何せ都会には危険な事も多いと聞くので、渓谷育ちの娘が心配でしょうがいないといった様子である。祖父に至っては「可愛い盛りになんてことを!」と断固してその道を否定した。  キッシュ本人は是非ともという感じだが、彼女は父・祖父と違って半端な甘えは許さない母親にだけは弱く、母に止められると萎縮してしまう癖があった。  叔父のテッドが出した提案だが、それは単に姪っ子の将来を気遣うだけではない。これはまだ幼いキッシュには伏せられた話だが――テッドは独身であり、後継が存在しなかった。スライ財閥という大きな組織を動かす彼としては、どうにか自分を次ぐ“渓谷の血筋”が欲しいと言う。そもそも彼が財閥を築いた目的は「故郷への贖罪」もしくは「恩返し」であり、現時点ではそれほど故郷に変化をもたらすことができていないのである。  山岳をいくつか挟むダイナ渓谷は、陸の孤島と言っても良い地勢。今はまだ良いが、きっと未来には人口の偏りが発生するとテッドは読んでいた。都会の賑やかさを実感した彼は後の世代の軌道を予測して「過疎」を憂いていたのである。現にそういった地域は既にいくつも出現していた。  このままテッドが引退すると、ダイナ渓谷に目を向ける人は恐らく財閥に皆無となるだろう。その時に渓谷を気にする人が欲しい――と、彼は兄とその妻に力説した。キッドJr.は難色を示していたが、妻であるキャリーは割と早くに納得して夫にも理解を求めるようになった。これは母として、娘の自由な未来を優先したからではないだろうか。  祖父は最後まで「どうにかそれだけは!」と拒否を続けていたが、結局のところ両親と本人が選択したことで、(号泣しながらも)愛する孫との別れを認めることになる。  キッシュの出立を惜しんだのは家族だけではなく、渓谷に住む人が大半同じ心境であった。しかし、キッシュの突出した個性に異質さを感じていたのも正直なところで、「きっと彼女は町でも上手くやる」と確信もしていた。  先生や警官など、大人達は有望な少女の前途を祝い、過去に故郷を去った少年の時を思い出して彼に「任せたよ」と信頼を託した。  学友の少女達はみんな涙して悲しんだが、「ちょくちょく戻ってくるから」とキッシュが言うので「絶対だよ」と念を押した。少年達はむしろ強敵との別れを喜んだ風にしてはやし立てたが……実はほとんどが影でむせび泣いていた。  確かにキッシュという少女は憎らしいが、同時に憧れの的でもあったのである―――。  雪解けの季節。清浄な空気に排ガスの煙がもうもうと舞っていた。  風を割いて、少女キッシュを乗せた自動車が奔り去って行く。 ――キッシュ=スライ――  後にダイナ渓谷の景色を一変させ、“銀の狂気”を生み出すことになる女。その暴風の如き生涯は、平穏を捨てる旅立ちから始まったのである。 ACT‐3  スランガンドの中心都市、ジュラ。ジュラ州の中心であるそこにはおよそ40万の人々が文化を築き上げている。人口3000人に満たないダイナ渓谷と比べて、なんと巨大であろうか。キッシュ=スライが叔父に連れられて40万の一員に加わった時。彼女の驚きと興奮は計り知れないものがあった。  まず、時間の流れが早く感じられた。あらゆるものが速く動作し、行き交う交通機関はさながら恐竜の群れが如く、轟音を立てて彼女の前を通り過ぎていく。叔父に手を引かれていなければ駅から出る事もままならなかっただろう。  しかしキッシュは生来豪胆な女で、用意された家屋に住まうと早々に街中へと繰り出すようになる。使用人として配された同性は彼女にとって「都会で初めての友達」であり、堅苦しく接せられることを寂しく感じた。故郷で活発に家事を手伝っていたキッシュは進んで使用人の作業を奪い、あくまで仕事量は分担であるべきだと主張し続けた。そうすることで故郷の生活と似た環境を作ろうとしていたのかもしれない。  スライ財閥が運営する時計技師学校は来るものを基本的に拒まない。それは設立者のテッド=スライ自身の体験からくる方針で、例え浮浪児であろうとも迎え入れる準備があった。  スライの技師学校大まかに「学園」「訓練所」「施設」の等級に分類される。 ・「学園」は私立学校に似た形式で、学費などに負担を要するものの、設備から教育資材まで非常に高い品質のものを約束される。高名技師、芸術家や資産家の子息がここに入ることが多い。 ・「訓練所」は工房に併設されるものが多く、“働きながら学ぶ”ことを旨としている。つまりは職人見習いの使いっぱしりにされることになるが……常に現場体験を受ける意義は有る。助力を受けられない子供や、中流以下の学生がここにあることが多い。 ・「施設」は主に“福祉”を目的としたもので、学業・訓練よりも困窮極まった少年少女の保護を優先している。しかしここで才能を見出されれば工房、場合によっては学園への入学も有り得る。系列外に向けての里親探しも重要だ。  ……これらの技師学校において、全てに共通することがある。それは「ほとんど少年ばかり」ということだ。  現在ではそうでもないのだが、1900年代などはまったくもってほぼ男性のみと言ってもよかった。なぜかと言えば、当時は「職人は男の職業」という固定観念が強く、女流技師への社会的風当たりも凄まじかったのである。一応、「施設」には少女の姿もちらほら見受けられたが、それは福祉的意味合いからであり、時計技師育成――という目的からではない。  キッシュ=スライはそんな時代の真っ只中。「ジュラ州スライ時計技師学園」へと入学することになる。  前述のように。「学園」は高名技師やら名家の子息らがうじゃうじゃしているのだが……特にスランガンドで最も栄えるジュラ州中心部とあっては一際の状態であった。  そもそも技師、職人という存在は当時の観念からすると地位が高いものではない。一部の工匠がやたらに強いだけで、大半は貧困である。  それを踏まえ、技師学園へとリッチな子息が送り込まれる理由は“そこがスランガンドだから”であろう。加えて、スランの技師学園は高い学力を誇っており、選択によっては時計知識は触り程度に留めておくことも可能であるからだ。  しかし、そうすると「どうして時計技師の学校に?」という疑問がわく。答えはつまり、“そこがスランガンドだから”である。  スランガンドにおいて強い影響力を持つ職人組合。一部の工匠はかのテッド=スライの如く、政界に割り込むほどに発言力が大きい。例えばテッドがそこまでに至ったのは、技術もそうだが――何より、「伝手[コネクション]」が存在したからである。有力技師は政財界の実力者を欲し、政財界の実力者は有力な技師を欲する。矛だけを揃えても、盾だけを揃えても上手くいかない。社会地位を得る近道は、左右の手に別々の力を握ること。  「学園」はそれを実現する格好の“社交場”である。時計製造に興味が薄い者も、学園にとっては必要な存在。スランの技師学園では“技術が未満の者であっても知識と繋がりがあれば他の分野に活かせる”という方針を掲げている。  学園の生徒は、多くが寮にて共同生活を営んでいた。しかし、寮といってもジュラのそれは城か宮殿かと見紛う立派なもの。技師学校でも一際高嶺にあるここでは入寮者に最低一名は使用人が付いていたらしい。  ――ジュラのスラン技師学園は多額の寄付も受けている。コの字型の学園は緑に溢れ、至るところに設置されている時計は全て高級品。  欧州中から集めた各分野の著名学者は全て一教員に過ぎない。何気なくベンチで読書にふけっている老年男性は中性子の存在を世に証明した経歴を持つ。そして彼と対等な人はここに珍しくない。天才、アレックス=バリレイが卒業時に残した振り子の掛け時計は、少年棟の廊下で時を刻んでいる(これは近年1億6000万円で取引されて少し話題になった)。  ……行き交う少年の全てが上記のような環境を当たり前としている。  そんな生徒数200名程度の中に、どこぞの渓谷から連れてこられた田舎娘が「ほぃ」と放り込まれたのである。  キッシュが学園設立者の親戚という話は事前に伝わっていた。だが、10歳の彼女が少年棟に初めて足を踏み入れた時。教室では自己紹介と共に小さな笑いがそこかしこに湧いたらしい。 「クック……これは聞きなれない言葉だ」 「いや、解るぞ! あれで僕らと同じ言語だよ。……ただ、少し訛りが……ネ」 「あーあ、土臭いなぁ。ちょっと窓を開けてくれないか? 空気を入れ替えよう」  それらは耳打ちするような小声だったが、キッシュは緊張からかとても集中していた。彼女の優れた集中力は小声とニヤついた表情変化を見逃さなかった。  キッシュは鼻息を強く押し出すと、そのままフンスフンス鼻を鳴らしながら大理石の床をひた歩く。教室の少年は全て、淀みなく歩き始めた毅然としている少女に目を奪われた。彼女は教室の一番奥の一点で立ち止まると、肺一杯に空気を吸い込み、それらを音の衝撃波に変えて解き放つ。 << 笑ったのはお前かッッッ!!!!!! >>  耳が張り裂けんばかりである。周囲でヘラヘラと座っていた少年達は肌にビリビリと刺激を感じ、大声を直撃された一人は耳を抑えて仰け反っている。  教室の最奥で、見るからに邪魔そうな指輪や腕輪を無数に装備している少年。垂れ目の気取った表情はキッシュの一声で耳鳴りの苦悶に変わり、続いて襟首を掴まれたことでいよいよ狼狽へと進展する。 「おっ、おっ、なな、何をするぅ!?」 「お前な、お前っ――私、初対面だぞ? 頑張って自己紹介してんのにさ! それをお前―――馬鹿にすんのかぁッ!!?」  キッシュは仰け反っている少年の首をガクンガクンと揺らした。明らかに作業の障害となる装飾品を付けているその少年は、「うわわっ、パパっ、パパァ!!」と悲痛な声で喚いている。彼にとってのスーパーマンはそれなのだろう。――が、パパは来ない。  怯えた装飾過多の少年を椅子に叩き落として、次々に先ほど笑った少年へと攻撃を開始するキッシュ。  呆然としていた貴族出の先生が見かねて「お待ちなさい!」と制止にかかっても、そう簡単に小さな暴風は停止しなかった―――。 ACT‐4  キッシュ=スライの入学は衝撃的であった。  珍しい女生徒ということもあるが……鉄道も走っていない田舎出身という境遇は異例中の異例。その上どういうことか常識外れのガサツな気性を備えており、それは淑女に慣れきった少年達にとってショックが強すぎた。  猛烈な件数であったという。その日、学園に寄せられた苦情はどれもこれも熱情に満ちており、ありありとした“怒り”が込められているものが大半だった。特にある軍需企業の要人からのお叱りは凄まじいものがあり、「我が子の首に後遺症が残ったらどうするつもりだ!!」とカンカン。  しかし、この時誰よりも狡猾な人は冷静だった。「彼」は苦情のほとんどをいつもにも増した圧力で抑え付け、重要な激怒に対しては“キッシュが最も年下のか弱き少女である”という事実を盾に周囲の同情を伴って対抗した。  大戦後の情勢において求められる「平和」の概念。キッシュの行いはこれに反するが、それ以上に“軍需”そのものが危うく、永世中立の国家理念からも「保身の為」を示し続ける必要がある。子供――特に少女に対して、世論はとろけて甘けさせたがる。気取った知識階層には尚、顕著。……キッシュの初日騒動は問題として比較的軽いもので済んだ。  入学早々問題を起こしたキッシュだが、恐怖を植え付けたという意味では成功かもしれない。彼女の保護者がどれほど肩入れしているかも知れたので、おおっぴらに馬鹿にされることはなくなったようだ。  だが、今度は小さくて目立たない嫌がらせが頻発した。「女が技師を目指すものかね」と本人に聞こえないように言い合ったり、彼女の所持品をくすねる、など。未来の紳士とは到底思えない悪戯。  それらの指揮を執ったのは、時計製作どころか何事にも手抜きな御曹司。彼は装飾品塗れで学内を闊歩している。まるで歩く宝石の見本市だ。  キッシュは気に障る悪戯を無視した。いや、時折ちょっと怒鳴りつけたものの、問題となるまでにはしない。それは彼女が叔父思いの子供であり、また自立への気構えが高い人だからである。  少年棟で唯一の少女は確かに嫌がらせを受けていたが、中には「嫌がらせではない」迷惑行為もあった。例えば所持品――ペンの一本が失くなったりする現象は、“彼女に興味を抱いた結果”である場合も多々ある。これも未来の紳士としてどうかとは思うが……つまり、キッシュに好意を抱く少年が目立たない程度の所有物を盗んでいたのである。  複数存在したらしい。中でも「ミシュラ」という少年は敢えて盗んだ上で「落ちていたよ」と親切に差し出していた。不特定の被害を与えた後に実名を伴って救済する、マッチポンプの囲い作戦である。環境に慣れない無垢な少女に対する計略は成功し、キッシュとミシュラは同じ授業を受ける仲になった。……が、彼はやりすぎた。猿のように何度も何度も計略を用いたため、遂にキッシュに窃盗現場を発見されてしまったのである。  キッシュは大胆で荒れ狂う性格が目立つものの、生真面目かつ厳粛に罰する律儀な面も持ち合わせている。「私を騙していたのね!最低っ!!」――と一喝して以来、途端に口も聞かなくなってしまった。  なぜ、ミシュラは仲良くなった後にも計略を続けたのか。それは盗み、感謝される背徳的な感情にハマってしまったからである。彼は目覚めすぎたのだ。  キッシュは故郷時代からよく学業に専念してきた。わざわざ高難度の教材を取り寄せてもらうほど、周囲もその勤勉さに期待するほどである。  当初はそれでも、学園の水準からすると低いものであった。しかし彼女には叔父が用意したスペシャルアドバイザー達が自宅待機しており、帰宅すると毎日彼らの教育を受けた。まずは学問――叔父はキッシュを数年かけて周りの水準に並ばせるつもりだったらしい。時計技師としての発展よりも、社交、経営の知識を備えた後継者として期待していたのだろう。  キッシュは早くから「時計製作を学びたい」と叔父に伝えていたが、中々その授業には参加させてもらえなかった。叔父からはよく、「まずはしっかり勉強してから」と返されたらしい。  ………キッシュ=スライほど勝気な女性はそうそう存在しない。  男が相手だろうと一歩も引かない大胆さに、小声の悪口もはっきり判別する集中力―――キッシュは学園入学から一年経たずに、少年棟の学力平均を抜き去った。むろん、良家の子息が集ってはいても落ちこぼれは少なくない。それによって平均は下がっていたかもしれないが……それにしたって彼女は最年少である。曲がりなりにも故郷での独学も生きたということと、彼女の持つ素晴らしい才能があったからこそ。  それに、叔父に希望を聞き入れてもらえない不満への反抗心も合わさった。  また半年するとキッシュは少年棟で常に1、2を争う学力となっていた。この向上力には教師や学友の誰もが驚いたが、一番喜んでいたのは叔父である。  遂に技師授業を受ける許可が下りたキッシュ。  地盤を固めた彼女は学力の質を保ちながら。徐々に、秘められた技師としての輝きを放ち始める。 ACT‐5  キッシュ=スライが12歳の頃は、ようやく時計技師としての技を学び始めた時期である。  学業もそうだが、技師授業に関しては一層に周囲の目は嘲笑を帯びていた。「女の子には裁縫の方がいいよ?」と親切を装った意地悪も言われたが、「女々しいあんたがやれ!」と返して追い払った。  少年棟唯一の女子であるキッシュはどうしても“浮いた”存在となっていた。いくらか好意的に話せる人はあるものの、それらですら上記の意地悪を言うのである。……しかし、時代的にはむしろキッシュが異常な時勢ではあったので、その孤独は避けようがないものだとも言える。  また、まだ紳士の卵である良家の少年達には「田舎から来た少女」というものをどう扱っていいか解らなかった節も強い。いくら学力があっても、それが淑女であるとは限らない。キッシュはまだガサツで、貴族マナーやダンスの心得――そういった文化的な対応力が不足していた。ませた少年が気取って花言葉を送っても「まぁ、うふふ」ではなく、「そんなの知ってるわよ!バカにしないで!」と返されては引っ込むしかない。  なんとなくキッシュも、自分が孤立するのは周囲だけでなく自分に不足があると感づいていたようで。それが更に彼女を刺々しくする原因となった。  少し、故郷の友達を懐かしんで瞳が潤むこともある。そんな時は学び始めの時計製作に打ち込んで気を紛らわせるしかない。……すると、自然にキッシュの意識は時計製作に没頭し、注目はそれに関することになる。  廊下に掛けられた一見質素にしてその実、複雑な「音」を奏でる振り子時計  学舎の屋根に置かれた巨大なベルを司る、金銀煌びやかな大時計  高名な技師が教鞭を執る、技師としての技術指導  そして、ロバート=ブラウニーである。  「ロバート=ブラウニー」は二つ年上の学友。ほとんどの技術授業ではレベルが違いすぎて一緒にならない。それはもちろん、ロバートが上なのである。  接点があるのは学問授業においてで、そこではむしろロバートが下。それほど差はなく、よくキッシュと学力トップの座を競っていた。しかし、「競う」と言っても互いにいがみ合うわけでもなしに、まず、会話すらない。  ロバートはキッシュに悪戯を仕掛ける連中とは距離があった。連中はどちらかと言うと技師よりも実業家寄りであり、生粋の職人肌であるロバートとは根本から異なっている。話が噛み合わないのもあるが、何より単体でもロバートは一目置かれていたので媚を売る必要が無い、というのも大きい。  ロバートの兄は数年前まで学園青年棟に在籍していた「アレックス=バリレイ」。苗字違いはアレックスが幼少時に養子として出されたからで、父母は共通している。付き合いとしても親密にしており、彼の影響があってロバートは技師学校に入学を決めた。  アレックス=バリレイと言えば、当時若手時計技師でダントツの有力若手とされ、ジャスティアの企業に引き抜かれてからアジア方面にも広く名前が伝わっていた人物である。  学園在籍時からキャビノチェ(一流独立時計師)として活動しており、その「機能性」「整備性」に主眼を置いた作品は「デザインについては何も考えていない」と本人に言わせつつも、無意識の内に質素で過不足の無い形を成し、“時を刻む完成品”とまで評価されている。  その弟であるロバート=ブラウニー。幼年期より兄を目指し、その高い技術を目の当たりにしてきたことで、彼もまた将来を羨望される技師学生となっていた。  昼食も蔑ろに没頭するロバート。教室の隅でひたすら作品とにらみ合ったり、書物を読んで最先端の機能と美を学んだり、常に頭の中は「時計、作る」の二語で埋まっていた。  キッシュは彼の姿がとても気になったらしい。あたかも実家の屋根裏で仕事に没頭する父を見るように、気がついたら彼の作業台の横でその手元を観察するようになっていた。  ふと見れば、作業台の横に座っている少女――。ロバート=ブラウニーには言いたいことがあったのだが、彼女の眼差しがあまりに真剣に手元を見てくれているので「邪魔をしないのなら……」と放っておくことにした。  いつしかそれは当たり前となり、ちょっとしたこと、それこそ「今日もお昼食べないの?」という一言から少しずつ会話が増え始め………。  周囲の誰もが介在する間もなく、常に二人は学内で行動を伴にするようになった。高難度の技師授業においては、ロバートがまず手本を見せ、それを真似てキッシュが続く。  ロバートが驚いたのはキッシュの器用さ。大体は手元をちらちら横目に見てくるのだが……それで彼女は緻密な師匠の手際を把握してしまうのだ。そしてそっくり再現するように自分の手を動かすのである。  彼女はロバートと同じく、一度集中すると他を忘れて作業に没頭した。そして没頭しながらも二人は会話を交わすことができた。それは二人にとって、そこで交わされる会話が「作業」の一貫であり、実に心地よいものだったからである。  作業と言えば色気がなく感じるが、二人にとってはこれ以上に情熱的なものはない。  ロバートが青年棟へと移ると、それを追うように、翌年キッシュも青年棟に進んだ。  キッシュは15歳。ロバート17歳。ロバートですら一年飛び級なのだが、キッシュは更に二年段階を飛ばしている。傍から見れば。学園歴代でも希な高性能カップルのようであった―――。 ACT‐6  ロバート=ブラウニーは兄に憧れていた。それは彼の中で最大の行動原理となる。  学園卒業を迎えたロバートは、天才アレックスの弟として恥じない若手技師となっていた。最後の提出作品である掛け時計は学園の技師講堂に飾られることになる。  それから3ヶ月――ロバートは兄を追うことを決めて海を渡った。キッシュ=スライにとってのそれは師との別れではあったが、恋人との決別ではない。何故なら、二人は「恋仲ではなかった」からである。  どちらにも恋の感情はあった。間違いなく存在した。ただ、あまりに身近となりすぎて、一線を越える機会を逸していたのである。  照れ屋で職人肌のロバートは胸中の告白より前に「兄を追う」と告げた。彼の中ではそれが最優先の事柄なので、次いで想いを告白しようと考えていたのである。  ――キッシュには常々、もどかしさがあった。彼女はロバートを「師」と思っていて、それ以上はないと自分を納得させてきた。  しかし、その強引な手法は次第に無理を生じて、自分の深層にある得体の知れない感情に対して畏怖するようになった。いつかそれが解決されるのでは、と期待していたし、それはロバートでなければ出来ないことだとも感づいていた。  そこに来て、飛び出したのは「別れ」の宣告である。彼が次の告白をする前に、キッシュはカッとなって「結局はお兄さんの下に付くのね。あなたは生涯、目標を越えるつもりはないのね」とこれも別に抱いていた想いをぶちまけてしまった。  ロバートは……傷ついた。  キッシュの指摘に間違いはなく、それはロバートの急所を突いたものである。ロバートは否定も肯定もせずに、「さようなら」とだけ言ってキッシュの前から去ることしかできなかった。 (なんてことを言ってしまったのかしら……違うのに、ロバートはそんな人じゃないし、私だって――)  隣国へと向かう汽笛の響き。港のある国へと向かう有能な若者を、大勢の人間が見送っている。しかし、そこにキッシュの姿はない。彼女は自分の言ったことの重要さに気がつき、一人悲しんで、学園の技師講堂で涙を流していたのである。  その年はキッシュ=スライにとって悪夢のようであった。  ロバートと別れて数日の後。故郷から「祖父が亡くなった」という報せが届き、叔父と共に急いで帰郷するも、悪路の道中で車は苦戦。ようやく到着した彼女達を現実は更なる悲劇によって迎え入れた。  ダイナ渓谷にあった二人の「キッド=スライ」。その親子は近い日にちの内に連続して亡くなっていたのである。車中の叔父とキッシュはキッドJr.の死を到着して初めて知ることになった。もし、道中に苦戦がなければ父の死に目には間に合ったかもしれないのに……キッシュは優しい父と祖父を想って泣くに泣いた。  これで実家には母親のみが残される。キッシュの叔父は彼女に町での暮らしを提案したが、母親は「この家が良いの」と言って愛する故郷に残る選択をした。  ジュラ州に戻ったキッシュは学園を休むほど落ち込んだらしい。そして部屋に篭って感情をぶつける為に時計製作へと打ち込んだようだが……上手くいかなかった。この時点で“その腕時計”の原型は出来上がっていたものの、完成にはまだ及ばない。  立て続けの涙で使用人の前にも中々姿を見せないキッシュ。  悲しみの彼女だが、その孤独な闇から開放するべく、一人の青年が家の門をノックした。  使用人が迎えたのはキッシュの学友で、技師学園の代表だという。あまりにキッシュが来ないものだから心配して来訪したのである。  気遣いを無下にはできず、キッシュが広間に姿を現した。そこではソファに腰掛けている青年があり、彼は久方の友人を確認して「キッシュ、皆が心配しているよ」と立ち上がった。  スラッ、と背の伸びたその青年は得意とするテニスによって力強い体つきである。さすがにプレイ時は外すのだろうが、学生の身分にしては過度な装飾品が目に付く。  「ピース=ホーマー」はスランガンドの製鉄・軍需産業を牛耳る世界的企業、ホーマーカンパニーにおける三番目の御曹司。――余談だが、彼はキッシュによって泣かされたジュラ州最初の被害者である。  旧知の仲だ。少年棟から共に学んできたので互いによく知っている。ただ、青年棟に進学してからは、方や学園最優秀の知性、方や学園で最も人望ある存在として別個の集団に身を置くようになっていた。  キッシュは落ち込んでいたので、少し話をして帰ってもらおうと思っていたのだが……ピース=ホーマーは次から次へと言葉を繰り出して中々帰らない。ようやく帰ったと思いきや、翌日にまた訪れる。そしてまたペラペラと言葉をばら蒔いて去る―――彼はこれを一ヶ月繰り返した。  毎回よくも尽きないものだと豊富に話題を切り替え、そして決まって去り際にプレゼントを置いて行く。彼からのプレゼントは豪華でどれも一般的には珍しいものだが、キッシュの琴線に触れるものとは異なる。しかし、毎度高額な品を置いて行くのでキッシュは「ちょっと困る」くらいに思い、彼の振る舞いを「叔父に似ている」と感じた。  ――彼女にとっての叔父は自分を導き、支えてくれている有益な存在。それと同時にどこか信用しきれない、何か欠損しているような感覚の相手である。  迷惑になるようならば門前払いに処せばよい。ところが、キッシュは「面倒だなぁ」と考えつつもピース=ホーマーを毎度迎えていた。親切からの行動だから拒否し難い、というのもある。しかし率直に言えば彼との会話が「面白い人ね」となるので、ついつい部屋から出てしまうのである。その時ばかりは悲しみを忘れることができ、その効果も次第に持続するようになっていった。  唯一、彼を信頼しきれないところは――「どうして今になってこんなに親身になったのか」ということ。実際、彼女は少年棟時代に彼から嫌がらせを受けたことを決して忘れてはいないのである。  ピースが訪れ初めてから一ヶ月。いつものような会話の中で、キッシュは自分の抱く疑問を投げかけた。するとあれだけ滑らかに、テンポ良く繰り出されていた彼の言葉が詰まる。  しばらくの沈黙があった。これは実に珍しいことで、ギュッと目を瞑って何か祈っているような彼の姿はなんとも見慣れないものだ。不真面目な彼にそんな姿は似合わない。だが、真剣であることは解る。  キッシュがもの珍しそうにじぃっと見ていると、ピースは思い切った決意の表情で顔を上げ、口を開いた。 「ずっと――君のことが気になっていた。それは今だからではなく、もっと昔から……僕達が知り合ったあの日からなんだ。今更逃げはしない。僕がよく、君の迷惑になることをしたのはそれが理由で……あの時は他に手段が解らなかった。君に注目される手段が僕には必要だったんだよ。僕は今でも、自分の立場と君の境遇を利用して、注目されようとしている。――卑怯だろう? でも、全力なんだ。  君が学園に来ないことが苦しいし、君と学園で話せない小心な自分が切ない。――好きだから。君のことが――今も昔も、ずっと君のことが好きだから、僕は卑怯でも全てを尽くす」  彼は残らずさらけ出した。さらけ出したらまた大人しくなった。  キッシュ=スライは呆然としている。彼の話した内容をよぉく頭で反芻して、何度も確認してみている。そして見る見る顔を赤くすると、急に立ち上がって部屋へと駆け出してしまった。  ピースは……肩を落とした。恋の終わりかと思って静かに彼女の家を後にした。  しかし、彼のそれは早とちりである。翌日の学園にはキッシュの姿があり、ピースはなんとも嬉しい気持ちになった。されど、彼に気がついてもキッシュは反対側へと歩いてしまい、明らかに“避けている”ことが解った。再びピースは落ち込んだが、それも誤解である。  絶望してテニスのレッスンも放棄した彼はすごすごと帰路につこうとしたのだが、その一人になった瞬間を狙っていた人がある。何分、人望ある人なので、夕刻にようやく訪れたその機会。  彼女は彼を呼び止める。そして駆け寄ると、言葉の代わりに頬への口づけによって昨日の返事を終えたのである。  ピース=ホーマーが彼女に泣かされたのはこれが二回目だ。 ACT‐7  学園を卒業したキッシュは、叔父の設立したスラン財閥へと正式に加入。最大手の時計ブランドに入社して、学生時代と同じく飛び級の形でグングン昇進した。  恋人のピースと婚姻すると、ホーマー家の権力が合わさり、スラン財閥はいよいよ規模を増すことになる。ちなみに、叔父であるテッド=スライの頑とした要望によってピースはスライ性となった。三男坊とは言え、ホーマー家がこれを許したことに双方の力関係が垣間見える。  キッシュ=スライは、本人の技量とその類まれな頭脳によって着々と財閥内での地位を固め、亡きモリンガンから通ずるアッシュ派にすら影響を及ぼすようになる。そしてプライベート・バンカー協会の会員となり、若くして財界の重鎮となる。  キッシュの優れる一つに「同性支持」が挙げられる。技師学園時代にはナリを潜めた(というより異性ばかりだった)のだが、社会に出たことで才能が再び花開いた。  学園出の女流時計師、その先駆けとして自らを証明に女子の入学を推奨。彼女の時代を境に技師の男女平等化が一気に進んだ。また、ジェンダーに関して後進的だったスランガンドの職人業界に変化を与え、その影響力が強い国の風潮自体を動かすことになる。  絶大な女性支持は彼女らの立場が向上することで倍々式にキッシュの権力を高めることになる。100×1の力が100×3の力となり、相反する100×5の力を100×4の力程度に下げる効果もあった。  長女の出産なども挟み。夫と共に議会に入り込んだキッシュは、スライの権力をこれに蔓延らせた。そして叔父の念願である「ダイナ渓谷」への奉仕的着手を開始。既に実行されていた“ダイナ鉄道”の開通作業に対する国からの援助を、大きく促進した。  キッシュが四十手前に差し掛かった時。順風満帆であった彼女に一通の悲しい報せが入る。  彼女はその時、鉄道開通を急いだことに大きな価値を見出した。今度は間に合ったのである。直前に開通していた鉄道によって、キッシュは母の死に目に会うことができた。海を渡って交渉に出ていた叔父は間に合わなかったらしい。  厳しくありつつ、いつでも一番に愛してくれていた母親。死別はキッシュにとって大変な悲しみであったことに違いはないだろう。ただ……キッシュには生真面目な一面があり、母との最後の会話はそういった所に強い衝撃を与えたらしいのである。  葬儀を終えてジュラ州に戻ったキッシュは、役割を一時的に捨てて集中的な時計製作を開始した。彼女は以後、半年に渡って自宅に篭ることになる。かつて引きこもった彼女を救い出した夫ですら、今度はどうすることもできなかった。  彼女が次に公衆の面前に姿を現した時。ダイナブランド最新作として彼女の渾身込めた美作、豪華機械式腕時計[Truth of Dina]が伴われた。若かりし時代の感性を土台として、0.005ct(1.0mm)のダイヤモンドが80個埋込まれ、それらに包まれる形で50gの幻影水晶が存在感を放っている。……彼女は「彼が主役なのよ」と幻影水晶を指差した。だが、価値としては周囲のダイヤモンドと比べてなんとも小ぶりである。それを踏まえて、彼女はそう言ったのである。  会見の時。目尻からは僅かに涙が溢れていた。  [トゥルース・オブ・ダイナ]はブランドが抱える優秀技師によって量産され、シリーズとして現在ではⅫ番目まで作られている。「渓谷に捧げる」と彫り込まれたそれがなぜ作られたのか。一体、どのような想いが込められていたのだろうか。  キッシュ=スライが多くを語ることはない。しかし、彼女が過剰な渓谷開発を行った理由の鍵はここにあるのではないか、と推測されている。 /COINS/ ++++++++++++++++++++++++++ SECTION:C 「ポール=スライ」 ACT‐1  1970年代。時計産業に一大変革の風が巻き起こった。―クォーツ・ショック―と呼ばれるそれは東洋の島国、日本から全世界へと波及していく。  水晶発振式と呼ばれるこの手法は、圧倒的振動数によって他を凌駕し、伝統ある機械式は時代遅れの烙印を押される。これの超小型化の特許はレッドマウント(ミツキ産業)が握っていたのだが、なんとこれが公開されてしまう。  各社一斉にこの流れに乗り込み、続々と技術革新が進んだ。コストダウンによる価格低下でクォーツは時計市場を蹂躙。オイルショック、国際為替の制度移行などによって苦しむ欧州・ジャスティア市場は壊滅的な被害を被った。  同じような現象は自動車産業などでも起こっており、暴動が発生する事態にまで発展した例もある。  このクォーツ・ショック。始まりはレッドマウント社からなのだが、実のところは企業連携による「特許公開を前提とした」開発であった。相棒となったのは当時ジャスティアで多岐業種に携わっていたCoins-Groupであり、ここが抱えるA&Rというブランドの力添えが重要な意味を成した。  A&Rは二人の独立時計師を中心として運営されるブランドで、その頂点に立つアレックス=バリレイは技師としてのみでなく、多彩な才能に溢れる人として知られている。実際のところ、彼と日本の技師数名が作り上げたものが例の特許であり、資本はCOINSとミツキ産業双方から潤沢に流されていた。  クォーツ・ショックによって多くのブランドが破壊され、そのまま朽ちるかいずれかの傘下に入って生き延びるかの選択を迫られた。時計産業の盛んなスランガンドでもこの現象は起きたのだが、大半は“スライ財閥”の傘下に収まることで現在もブランドを継続させている。  今では複雑であるが、スライ財閥も元を正せば機械式時計製作から興った組織。彼らのブランドが打撃を抑えられたのは総帥の柔軟な対応もあるが、何よりNO.2の座にある女傑、キッシュ=スライの伝手が大きい。  A&Rの片割れであるロバート=ブラウニーは彼女と面識があり、未然にクォーツ・ショックの到来を伝えていた。これによってスライ財閥はスランガンド及びその周辺国でのクォーツ取り扱いに介入し、崩壊どころか莫大な利益を得ることになったのである。  スライ財閥の根源的ブランド、“ダイナ”は活気溢れるジュラ州に本拠を置いていた。しかしクォーツ式時計の隆盛が一過すると、精巧かつ長持ちする機械式時計の需要が再び増したことで「工業化」の必要性が生まれた。  職人による手作りの良さを訴える声も多かったが、スライの女王と化していたキッシュ=スライは強引に計画を遂行。手狭な都市部を離れて十分な土地が余る片田舎、ダイナ渓谷の大規模開発を推し進める。あらかじめ見越していたかのように鉄道開通は完了しており、渓谷の開発は高速で展開された。  そこには長閑な光景があった。牛は鳴き、鳥はさえずり、清浄な風が流れいく――ゆったりとした風情、ダイナ渓谷。  これが数年の間に激変。鳥の声は行き交う自動車の音で掻き消され、アスファルトの豪壮な社屋が乱立。風は排ガスに塗れて牛舎は渓谷の端っこに追いやられる。ほとんど全員が顔見知りだった渓谷の住人は数多の新参者達に紛れ、物々交換を素朴に適用していた彼らは流れ込んでくる大量の土地代で価値観を狂わされた。  立派な警察署に裁判所、市役所、駅、郵便局、銀行、デパート、巡る舗装道路……そこかしこには資金を出している「Schley[スライ]」の名が入っている。  買収された機械式時計のブランドの半分は渓谷に移転させられ、名だたる看板が並ぶ様は“時計王国”の言葉を彷彿とさせる。  稼働しているクォーツ時計の工場も一つや二つどころではなく存在し、時計展示の為だけに巨大施設も建てられた。時計技師としてジュラ州のそれと二分する複合学園、「ダイナ技師学園」には全世界から技師を目指す者やデザイナー志望が集っている。  変わり果てたダイナ渓谷。そこに君臨するのはスライ財閥代表、キッシュ=スライであり、それは彼女の叔父が死去したことでいよいよ磐石のものとなった。  財閥代表が生活拠点を渓谷に移したのは意外と遅く、開発がほとんど完了してからのこと。四十歳を越えてである。  都会に育った彼女が拠点を移した理由には、母や叔父との死別が挙げられるが、一説によると「嫡子の誕生」が最も大きい理由であると言われる。はっきりしない物言いとなったが、それは【彼】の存在が公然としたものではないからである。  「ポール=スライ」は改修された渓谷の古城で育ったらしい。  スランガンドでは昔から「バルドラの雨」という御伽話がある。いわゆる吸血鬼伝説の一種で、大まかには『大雨は悪魔を呼び寄せる』――という、雨嫌いの迷信だ。地域開発によってうやむやになってしまったので、今では渓谷の一部老人達しか知らない。  御伽話の舞台となるのはバルドラの丘という地で、そこに現存している古城こそがポール=スライの住処であった。  彼は盟主スラン家とホーマー家の血を継ぐ者である。国の経済を支える両家の間に生まれた彼は、ゆくゆくを考えて然るべき教育を受けるべきであろう。注目されることに慣れ、関係作りとしての海外留学も視野に入れた方が良い。スライ家の伝統を考えれば時計技師学園に入る選択も俄然有りだ。  ――だが、古城に篭もって世俗に姿を晒さない。何故か。  それは、ポールが生まれ持って悲しい宿命を背負っていたからである。 ACT‐2  ポール=スライは世間から“隠された”存在である。古城に篭っているのは自発的なものではなく、“そうなるように言いつけられているから”であった。  先天性白皮症という病がある。遺伝子疾患による生まれ持っての病であり、メラニンの正合成に支障をきたすものだ。主な特徴として「肌や頭髪が白い」という点が挙げられる。他には視覚障害や紫外線への耐性が極めて低いなど、健康や生活に支障がある場合が多い。この遺伝子疾患を伴う個体を動物学では「アルビノ」と呼ぶ。  ポール=スライはアルビノであった。ほぼまったくメラニンが合成されない重度のもので、頭髪はもちろんあらゆる体毛が白く、瞳孔は虹彩と共に淡い紅色をしている。視覚的な問題は無いが、光に弱いので蛍光灯などを直視するとしばらく物が判別できなくなる。また紫外線への耐性が非常に低く、晴天下では肌が火傷を負い、曇天でも場合によっては刺すような痛みが全身をはしる。  日常生活を送る上で常に光と紫外線を相手にしなければならない彼は、両親にとって心配の種となった。  特に生真面目な母親は待望の男子を心配するあまり、本人以上に彼の敵を恐れた。堅牢な石造りの古城を再建し、なるべく窓は少なくして僅かな窓にはUVカットのフィルターを貼り重ねる。強い光を恐れて古城の灯りはロウソクでとるように指示を出し、息子が望むならばあらゆるものを与えてその心を癒すと決めていた。  数名の使用人はメイドと執事で構成され、執事はそれぞれ何らかのスペシャリストであり、家庭教師も兼ねていた。  何不自由なく与えられ、教育を受けるポールだが、いくら良いように言い繕ってもそれはやはり“軟禁”ではないだろうか。まるで「隠蔽」しているかのような環境はアルビノである彼を世間の目から遠ざける意図があったのではとも勘繰れるではないか。  実際に父親の方はそう言った心があったらしい。いや、彼がというより正確にはホーマー家の意見であるが。  対してスライ家の母は何がどうあってでも我が子の安全を優先していたようだ。例え過剰と言われようとも、息子から反抗の目を向けられようとも――彼女自身、厳しくも愛があった母を思い出しつつ、心を鬼にして息子を軟禁したのである。  ポールは古城に軟禁される幼少期を過ごした……しかし、だからと言って彼が貧弱であったかと言われれば、断然なる異を唱えよう。  彼は生まれ持っての遺伝子疾患を患ってはいたが、それ以外に関しては一般的な水準に変わりなく――もとい、それを凌駕する抜群さを秘めていた。  暗記が得意で、与えられた本は凄まじい集中力によって読みこなし、脳内に保管した。料理を学べば担当執事が「こんな弟子が欲しかった」と感涙。ヴァイオリンを鳴らせば「私では勿体無い」と担当執事が力量不足からの辞退を申し出た。この時に代わりに担当となったトルク=ワード執事は、ポールにとって数少ない心許せる存在となる。  そして広大な古城は彼にとっての遊び場で、薄暗さもあって頻繁に姿を隠しては使用人達を困らせた。  息を潜める感性は野性的であり、その俊敏性には屋敷の誰もが追いつけない。とてもではないが一人で捕獲することは不可能となり、運良く数人で取り囲めるか彼が飽きるかしなければ騒ぎは収まらなかった。  見つけること自体はそこそこ簡単。彼の白い肌は薄暗がりでも比較的見つけやすい。ただそこからが大変で、すばしっこい彼を捕らえるとなれば相当な労力が必要となる。  隠れんぼもそうだが、少年ポールはとても悪戯好き――というより悪さが好き、と言ったご様子。  物を隠す、破損させるは日常茶飯事。メイドのスカートをめくり上げ、執事のズボンを下ろし、そして身を隠して怒りをやり過ごすのである。人が困った顔をすると実に嬉しそうにする姿がなんとも憎らしいものの、メイト達からの評判はすこぶる上々だったようだ。  色素が薄すぎるあまりにほのかな薄紅色を帯びる肌に、尖った鋭い目つき。やんちゃによって引き締まった細身のしなやかな体。如何にもな悪戯顔には愛嬌がある。もし、彼がもう少しでも早く外の世界と触れ合って育っていたならば。その一生はどのようなものだったのだろうか。  そんなポールが誰よりも懐いていたのは、姉のキャミー=スライと古城責任者のトルク=ワード執事。  姉のキャミーは一緒に暮らしているわけではないが、たまに彼女が訪れるとポールは途端に大人しくなり、彼女の傍から離れようとしない。そして決まって小説の本を何冊か持ってきて彼女に読み上げてもらう。それがポールにとって至福の時間なのである。  ワード執事は見たところガッシリとした40代の働き盛りだが、実年齢は初老に差し掛かった人だ。豪快でユーモラスな性格ながら、彼のヴァイオリニストとしての腕は一級品で、やんちゃな性格のポールが一聴して指導を願い出たほどである。いや、本心では「追いつこう」ではなく「もっとこの人の演奏を聴いていたい」だった。  信頼置けるワード執事は古城の責任者も兼ねるが、どうも一般社会ではワケ有りの人物らしい。ポールはそんなことまで知らないが、「隠匿」の為には人材を選ぶ必要があるということだろうか。  ただ、ワケがあろうがなかろうが。ワード執事がポールにとって良き父親代わりで、姉のキャミーからも強く信頼されていることは事実である。  少年ポールにとって、ワード執事は外の世界を覗く「窓」のような存在でもあった。  ワード執事は雨天になると傘をさしてほんの少しの時間だが、ポールを古城の外に連れ出してくれた。  急に日差しが射すと危険なので、なるべく大雨でなければならない。それに、遠くまで行くこともできないのだが……丘の周辺を見て回るだけでもポールにとっては目新しいものばかりである。 「すごい大きな草だ!」「あれは木、ですぞ」 「すごい柔らかい床だ!」「これは土、ですぞ」 「ロウソクも無いのに明るい!」「ずっとずっと、高いところにありますぞ」 「何だアレ、何だアレ!?」「狐ですな。さぁそろそろ戻りましょう、若様」「やだ!」  ………姉に本を読んでもらうのは一番で、二番目に好きなのはこの時間。この二つはポールにとってダントツで、くったくのない少年の笑顔はキャミーとワード執事にとって一番の宝物であった。  幼少期のポールはやんちゃだったが、「ご愛嬌」「悪戯」で済まされる範囲で行動を留めていた。  ――しかし、彼が10歳を越えると次第に行動はエスカレートする。  ワード執事と姉のキャミーでなければほとんど言うことを聞かず、それとは別に「甘え」から二人にも敢えて反抗してみせる始末。  特に問題となったのは“脱走”。年を重ねるごとに彼は「外の世界」への憧れを積もらせた。近場の木々や土ではなく……人間とその文明に触れたいと思ったのである。それは厳しくて好きではない母親の言いつけに反抗する、ちょっとした肝試しでもあったのだろう。  夜中にこっそりと窓を開けて逃げ出したのが最初で、その時は夜中の内に戻って来た。……しかし、土が靴に付着していたことで追求されることになる。得意の隠れんぼで凌いだものの、夜中に使用人が交代で見回るようになった。  だが、生半可な監視では彼を補足しきれず、数日の内にまた脱走。今度は学習して土や葉っぱに気を配る。これが成功したことで味を占め、何度か繰り返した。  そこまではよかったのだが――調子に乗って明け方に「日の出というものを見たい」と逃走したのは失敗である。彼は確かに日の出を見ることができたが、直射日光によって肌は赤く腫れて目は一時的に機能を失った。どうにか丘の窪みに逃げ込んだが、その場で意識を失って眠り込んだ。彼は数時間後にスランガンド軍兵によって発見され、秘密裏にスライの病院へと送られることになる。  重症ではなかったが、一歩間違えば命の危険になる事態。これを聞きつけてけたたましく病室の扉を開いたのは母、キッシュ=スライであった。彼女の怒りは凄まじいもので、ポールの姉が止めに入っても矛先を変えるだけで何時間も収まらなかったという。  ポールが古城に戻ると、使用人の大半は別人となっていた。  古城の責任者を務めていたトルク=ワードは役目を解任されて国外に追放されたらしい。行き先までを知りようもない。たったそれだけの情報を聞き出すのにも、使用人は戦々恐々として精一杯の様子だったからである。  新たな古城の管理者はポールから見て無機質な機械人形のように思えた。悪戯一つしようものなら容赦なくポールを捕らえ、未使用の倉庫に押し込むのである。錠前から鳴り響く音は幼い心を冷たく揺らした。  使用人達も態度が硬化し、かつてのように笑って許すようなことはしなくなった。些細なことでも全て新たな管理者に伝えるので、ポールは「皆に嫌われてしまったんだな……」と考えるようになる。全ての窓に取り付けられた鋼鉄の十字枠。少年にとってのそれらは監獄の檻に等しい………。 ACT‐3  些細なことではあるが、心境の転機はある日突然に訪れた。  冷たい空気の古城。外には白い塊がふわふわと舞い落ちている。  何気なく、ポールは十字枠の窓から腕だけを突き出して雪の一欠片を掴んだ。あっという間に溶けてしまったそれを見て、彼は「こんな日にはワードが連れ出してくれるのに」と、行方も知れなくなった友のことを想う。  すっかり雪の感触に意識を取られていたポール。彼は後ろから突然に「若様!」と声を掛けられてビックリした。振り返ると、メイドの一人がそこに立っている。彼女は困った表情で「窓の外に手を出してはいけません」と注意してきた。  少年はその小さな指摘を受けて「やれやれ」と首を振る。 「こんなに雲は厚いのに……腕だけでも外の空気に触れちゃダメかい?」 「申し訳ありません。城の掟ですので――」 「城の掟、か……そうだったな、それでは仕方がない。従おう」  腕を引っ込めて、十字枠の内側から窓を閉める。ポールは壁に寄りかかって俯いた。内心反抗的な彼の肌は、紅の色合いが強く感じられる。 「こんな些細なことでも言っちゃうんだろ? やれやれ、まるで俺は罪人だな」 「申し訳ありません……」 「いいよ、何せ生まれながらに暗がりが適所なんでね。倉庫の闇は心地いいくらいさ」  カリカリと自分の肌を爪で掻き、口に運んで角質を噛む。これはポール=スライの行き場ない怒りが自傷に向けられる初期症状。使用人達もこれくらいの癖は十分に把握している。  トルク=ワードが去った一件以来、あれほど活発だった少年はその活動性を封じられていた。檻に囚われ、鞭打たれて教育される狐のように――本来の気性を発揮できずに矯正される姿は哀れなものである。昔の輝きを知る人なら情が沸き起こっても当然であろう。 「………今回だけですからね」 「―――ん、何が?」 「今回だけ、私は何も見えませんでした!」 「・・・・・ぁ!」  唇に人差し指を当てて、女性はウィンクのサインを送ってくれていた。彼女の気心を理解したポール少年は、「ありがとう」と返す。彼の肌が更に赤みを増したのは、怒ったからではない。  メイドの彼女は約束を守った。小さな頃からポールの成長を見てきた彼女には、本来の姿を発揮できない彼の境遇が耐えられなかったのである。  ……しかし。何よりも“スライ家の意向”を重視するヴィクトール=サンバインにとっては責任ある城の秩序こそが全て。執念とも言えるその志が嗅覚のように働いたのか。古城の管理者は“違反”の一部始終を目撃していた。  ポール=スライが最後に“彼女”を目にしたのは横顔と、後ろ姿だけ。  頬を腫らした彼女は涙を流しながら、車の迎えもなく、渓谷の白銀へと去っていった―――。  ポール=スライは、生まれながらに大胆な性格と高い集中力を備えた人間である。  誰しも「衝動」という精神の魔物を胸中に飼っている。それは「経験」の鞭によってのみ抑制が可能で、教育と環境がなければ野放しとなるだろう。  衝動の魔物は殺してはならない。躾が過ぎて萎縮させてもいけない。  衝動の魔物を飼い慣らした人間に対し、萎縮して檻から出られない魔物を飼う人間は絶対に勝てない。いかにして魔物を育てつつ、必要な時にだけ芸をさせるか、噛ませるか……この調整を行うことが重要である。  経験は意図するものだけでなく、偶然によってももたらされる。しかし、あらゆる「偶然」を解釈するのは当人自身。責任はそこに存在する。 ――例えば“取り返しのつかない罪を犯した時”。  それを受け止めて罰を全うすることで、魔物は躾を受ける。  そして贖罪への道を目標として進むことで、魔物は成長する。 ――例えば“跡形もなく生活が一変した時”。  価値観の変化を恐れず反省することで、魔物は躾を受ける。  その中でも信念を持って立ち向かうことで、魔物は成長する。 ……例えば“長年に渡って封じられた時”。  優しさによって希望を見れば魔物は気を静めるだろう。必要性に納得すれば我慢することもできるかもしれない。だが、納得もなく希望を奪われ、深い悲しみに襲われたのならば……。  憎しみを糧に魔物は成長し、やたらな躾は意に反して、それを助長する手助けにしかならない。本性として持つ魔物が強大であるほどに、それは実に危険な事実となろう。  ポール=スライは、生まれながらに大胆な性格と高い集中力を備えた生き物である。  探究心に溢れ、頼めば何でも手に入る彼は多くの書物を読んだ。ただし、何を頼んだのかは全て知られてしまうので、そこに気を配る必要はある。  料理が得意だ。包丁やロングナイフを器用に使いこなして様々な食材を捌き、調理して、手際良くダイニングテーブルに並べることができる。コツもあるのだが、彼の生まれ持った瞬発力はカボチャも一刀にして両断してしまう。細身の体は、実にしなやかな運動性を備えている。  彼は雨が好きだ。それは二年前まで近くに存在した友人との思い出があるからだ。  雲の厚い雨の日は窓辺に座り、静かに景色を観察する。  落下する不安定な雫を眺めて、眺めて……ひと粒ひと粒の揺らぎをスローモーションの感覚で凝視する。窓に着弾した雫が流れる様に、書物でしか知らない文明社会の模様を見た。  姉が訪ねて来た。雨の上に彼女が訪れたとあっては、これは実に幸福な日と言わざるを得ない。  12年も離れた姉はその日で27になる。世間一般では女性の幸せは結婚であると読んだ事があるので、いい人に巡り合ってもらいたいものだ、とポールは考える。しかし同時に、自分のところに来なくなってしまうのではという不安も共存していた。それは厳しくて冷酷な母親が既婚者である事実。その認識が生んだ恐怖である。彼は自分の深層にある感情をよく自覚しているので、それが大好きな姉に向くことを恐れていた。  気を静め、姉の生誕日を祝う為に。ポールは立ち上がってヴァイオリンを抱えた。  理想とする存在がある。引き出す音階に、響き渡らせる所作に、学びきれなかった手本の影を懸命に投影する。  姉は頬に雫を伝わらせて感銘を受けてくれた。ポールはやはり、彼女こそが理解者であると確認して自らの涙を止めることができなくなった。  閉じ込められた人生。十五年間は常に本性と食い違う日々に負担を感じるものだった。気を和らげてくれる友人はあったが……些細なことで奪われた。辛い生活でも受け入れてくれていた周囲の人は笑顔を制限された。心から気遣って親切にしてくれた人は、それが原因で冷たい外の世界に放り出された。  次は何だ、真っ先に思いつくのは姉だ。それも奪われたらどうなる? 一人になる。  重要なものを奪った実行者は共に暮らしている。だが、それは機械人形みたいなもの。本当の意味での略奪者が存在している。  ヴァイオリンのガット弦がちぎれた。勢いで弾けた弦がポールの頬を掠める。薄らと血管が透けているその白い肌から、赤い雫が滴り落ちた。  心配する姉を制止する。ポールは頬の血を手のひらで掬うと、唇に押し込んで何事もないように微笑む。弦の切れたヴァイオリンを抱いて、彼は手当のために自室へと戻っていった。  頬から血を流したままでは会えない。その日は随分と久しぶりな……珍しく姉の誕生日を祝う為に、母親がこのバルドラの古城を訪れるのである。  夕食の席は賑やかになった。いつもならば一人で食べるダイニングテーブル。数人いる使用人はポールが食べ終わらないと食事をしない。例外は毒味の一人だけだ。  それがその日はポールに姉のキャミー、それと二人の母であるキッシュが同席していた。  ポールが調理した品々は、高級店が立ち並ぶダイナのストリートでも十分に通じる出来栄え。これに姉と母親は感心して彼を褒め称えた。 「素晴らしわ、ポール! さすがスライの嫡男ね。あの人に食べさせたらきっと驚くわよ」  母のキッシュはお世辞ではなく、本心から我が子を褒めた。もし、例えその料理が炭屑のような物体であったとしても、彼女はこれに近い発言をしただろう。 「有難う御座います、お母様」  ポールは薄く穏やかな表情をしている。顔見知りの営業相手と偶然街中ですれ違った、という程度に和やかなものである。 「実に利口で上品よ、ポール! ――本当に、立派に成長してくれたわね」  テーブルの向かい側。キッシュは瞳を潤ませて感極まりつつあった。  生まれた時に遺伝子疾患を宣告されて、ショックを受けたと同時に「この子を安心して生活させる」と誓った。立派に成長して、長く生きてくれればそれで良い――と、鋼の目標を屹立させた。そして今、目の前にある色白の少年のなんて眩しいこと……。  ロウソクの灯りに照らされる切れ長の目は明らかに母を受け継いだもので、それを見るたびに「ああ、立派に生きている!」と母の胸中で感動の波が押し寄せるのである。その状態で彼が作った料理を口にした場合、どれほどの化学反応が脳内に巻き起こるのか――本人であっても想像がつかない。 「あなたはどこに出ても胸を張れる、自慢の息子よ」  キッシュは涙をこらえるのに必死で中々料理も口に運べない有様。姉のキャミーが「お母さんったら。涙もろいんだ」と、普段社会に見せない母の姿を茶化してみせる。  対して、正面に座るポールは……表情から緩みを消し、フォークとナイフを皿に置いた。 「―――どこに出しても―――ですか。お母様、あなたはいつ胸を張るおつもりで?」 「えへ? いつって……それは今も、昨日も明日も今までからこれまでも全部! いつだってあなたを誇りに感じるわよ」  唐突な質問に母は至極当然とばかりに答える。  その返答はポールにとって、「理解者ではない」証明でしかなかった。 「お母様、私はどこにも出ませんよ。だから、あなたが私を誇りに思う必要なんて無い」 「ポール?」 「私はこの社会に存在していない――それと同じだっ! 私はこの古城にしか無い! 私を誰が知っている!? ここに見える数人と、あと僅かだけだ!! 私は何者だ!!?」 「………ポール」  彼は立ち上がった。勢いで倒れた椅子を気にせず、周囲の使用人が驚いていても構わず、彼は対面する母親に想いの全てをさらけ出す。 「私の人生はどうなっている!? この限られた空間が私の現実だ! それは観察ケースの蟻か?籠に住まう鳥か?それとも、監獄を這いつくばる鼠かっ!?そんなものが誇れますか、僕はあなたに誇られる為だけに生まれたのですか!?」 「いけないわポール、座りなさい!!」  荒れる弟を、姉のキャミーが諌めようとする。しかし、テーブルを回る途中で「止めないで、姉さん!」と一喝されて何も言えなくなってしまった。弟に怒鳴られたのは、これが初めての経験である。 「僕の疾患が心配なのか。でも、だからってここまですることないじゃないか! これでは僕は、何の為に生まれたか知れない! 僕はまだ、何も知ることができていない!」 「……………」 「……母さん――僕は……俺は……例え生きる時間が縮まってでも、この身を焦がしてでも外の世界に――――― 「 プゥオォォオオオォォルッ!!! 」  !!?」 「!!?」  母は絶叫した。強烈な拒否である。決してその先は言わせないとする決意が彼女を叫ばせた。娘と息子は親の叫びに対して無防備で、ビリビリと体を駆け抜ける衝撃によって一瞬、呼吸まで停止していた。  周囲で手をこまねいていた使用人達は、管理者のヴィクトール含めて全員がスライ姉弟と同じく息を飲んで言葉を失っている。  ふぅ、ふぅ、と気性荒く息を吐き出すキッシュ。彼女は椅子に座したまま、直立不動で硬直している我が子を睨み上げた。 「ポール―――あなたは私にとっての傑作であり、もっとも繊細で貴重な存在なの。あなたはね、決して他の誰かに劣ったりなんかしない。誰よりも長く生きて、何よりも幸福になるの。お母さんは全てを尽くすわ。だって、大切な大切な我が子ですもの――早く死んでしまう選択は絶対に幸せな道に繋がらない。それに、外の世界は不要な危険に満ちているもの……比べてこの城のなんて安全で充実したことでしょう? なんだって手に入るわ、お母さんが用意するもの!」 「母さん。だったら、俺は、“自由”が―――」 「ポール………ポールッ!!」 「か、母さん……!」 「あなたは自由よ。この地球上の何よりも安心で充実した古城で、あなたが一番よ。外なんて、世界なんて取るに足らないわ。貴重なあなたにはこの城こそが適所!!」 「・・――・。……ッ――く、――ぅ」  カチカチと音が重なった。それは歯を食いしばり、こめかみを震わせた表情で立つポールの歯ぎしり。それに、彼が右手に握るナイフが皿に当たっている金属音である。 「ポー…ル……?」  姉のキャミーは見たことのない弟の表情を理解できない。彼が何を考えているのか、まったく理解できなくなっている。 「………っ」  ポールはナイフを皿に落とした。そして、静かに自分を見つめ続ける視線が我慢できず、晩餐の席を逃げ出した。  残された使用人達とキャミーは「どうしたことか」と心配していたが、母のキッシュは「我が儘が言いたいこともあるわ。そして学んでいくのよ」――と、穏やかに周囲を諭した。 ――ポールは心の奥底に。激しく乱暴な、暴風に似た気性を閉じ込めている――  その日は姉の誕生日であり、ポールが胸の内を晒して返り討ちにあった日であり………そして、“知的で用心深いスライ財閥の代表が、ろくに人を連れずに一介の古城に宿泊した日”でもあった。  「彼」は驚いたことだろう。何せ、“自分の仕事の前に目標が息絶えていた”のだから。  僅かに射し込む月明かりを受けて、薄暗がりにぼんやりと、白い肌が浮かび上がっていた。付着した血液が黒色に輝いて、少年の腕を伝い落ちた。  茫然自失とした少年に、「彼」はこう問いかける。 『このまま檻に入りたいか、それとももう少しでも外の世界を謳歌したいか?』  暗闇の少年は答えた。 『少しだっていい。俺は―――知りたいんだ。自分の可能性を―――』  少年の答えに「彼」は満足した様子で、その金属質なウロコを用いて壁を壊し、闇夜の外気に少年を連れ出した。  「彼」は自分達の巣へと戻る際、少年にこれまでを“捨てる”ように言いつける。それはもちろん名前もそうする必要があるので、「彼」の独断と咄嗟の発想によって新たな名前が送られた。  月明かりを浴びて銀に輝く頭髪。  吊り上がった鋭い目尻。  細身で、しなやかな肉体。  振り切れたようにさらけ出された、狡猾そうな本来の笑顔―――。  雪解けの季節。春風が渓谷を駆け抜けていた。  風を裂いて、少年はダイナ渓谷を走破していく。  ポール=スライ――もとい、“銀狐[S.FOX]”。  罪を受け止めず、環境の変化にも我を貫き、恐ろしき“魔物”と成り果てた衝動に支配されたシリアルキラーは、こうして誕生したのである。  一大工業都市となったダイナ渓谷。多くの人間が行き交う賑やかしいその場所で、ポール=スライの存在を知る人は存在しない。  “突然死”したとされるキッシュ=スライは長女のみを遺して逝ったのだと……数名を除くこの世の全ての人は思っている。   Schley's Genealogy ―― END