トンボの詩

・主な登場人物

$四聖獣$

 秋のある日、信彦は裏山に入った。彼は山菜取りに行く、などと母親に言い残して家を出たが、実際は違っていた。彼は不思議な臭いのする草を採りに山へ向かったのだ。  あまり紅葉しない木々に埋もれたケモノ道を登っていく。  三日ほど前、偶然見つけた草畑。一見、平凡な草の茂ったなんともない景色なのだが、同じ草が整然と・きっちりとまとめられた一画に興味を抱いた。注意深くそのうちの一本を千切ってみると、何とも言えない奇妙な気配がした。  好奇心で葉のにおいを嗅いでみると鼻の奥がむずむずと疼く。その幹はぽいとすぐに投げ捨てたのだが、気になったので何枚か葉を千切ってみた。  それを噛んでみた時―――途端に意識がふんわりとして、尚且つ空でも飛びそうな爽快な風が心に満ちた。矛盾を解決したかのような心地よさに信彦は感嘆し、しばらくその葉の香りを嗅ぎ続けた。  しばらく舐めたり嗅いでいると意識がもわもわと中途半端になり、心地良さが際限なく増していく。不思議な体験である。そしてこの日以来、彼はこの不思議な草のファンになった。  一時間ほど腐葉土を踏みしめていると、目的の場所に到着。信彦は鼻息を荒げながらその草へと近寄った。  申し訳程度に張られた網の下から手を伸ばし、草の内の一本を引っこ抜いた。  そのままそれをすぅっと香ってみる。慣れてきたせいか、次第にこの草の香りも楽しめるようになった。むしろ、食事と合わせるなど、応用することも覚えた。  いつものように葉っぱをちぎり、家からくすねたライターで炙る。大きく息を吐き出して。さぁ、オモイッキリ香りを吸いこもう――――とした瞬間。 「やめときな」  背後から人の声が聞こえた。おかげで吸う息も中途半端にむせ返る。とっさに信彦は葉を掌(てのひら)に握り込んだ。  焦って振り返ると、そこには一人の少年が一枚岩に座り込んでこっちを見下している。  這いずるように信彦はその少年から距離を置く。 「だ、だれだい!?」 「それはこっちのセリフだよ」  少年は頬杖をついてリラックスした姿勢で信彦を見ている。  帽子の紐を首に引っ掛けて、後頭部に帽子を被っている少年。テンガロンハットのツバがやけに広く感じるのは、身長と不釣合いだということだけのせいではないだろう。 「ここがどこだかしっているかい?」  テンガロンハットの少年は畑を指差した。 「どこって……双葉山さ」  信彦は至極当然に答えた。 「チガウよ、もっと小さい規模で。 ここの一部分のことだよ」  あきれた様子で強く地面を指差す少年。 「? なんなのさ。いや、それより君は誰だい? 村じゃ見ない顔だ」  信彦が戸惑うのも解る。国際化の「こ」の字も見当たらない山奥の村で、明らかに異国出身の顔立ちをした人間を見ることになるなんて、初めての事だからだ。赤みがかった茶色い瞳に自然な茶髪がなにより珍しい。 「さっき言ったろ、“こっちのセリフ”だって。ここは関係者以外立ち入り禁止の私有地だぜ?」  溜息を吐いて不機嫌に言い放つテンガロンハットの少年。足で岩をコツコツと叩く。 「しゆうち?」  イビツな発音で信彦が問い返した。 「特定の持ち主、誰かの物ってことさ。この場所は」  少年の言葉に、信彦は不満そうに首をかしげた。 「誰かの? 山は皆のものだよ。“誰か”のものじゃないよ」  信彦の言葉を一層大きな溜息で返す少年。 「それは形式上、あるいは一部のことで――って何やってんだ、俺」  額に指を置いて頭を抱える。またまた溜息が口を吐いた。  テンガロンハットの少年はしばらくその姿勢で考え込んだ後、思い立ったように岩から軽く跳んだ。  静かに着地し、頭を掻きながら信彦に歩み寄る。 「とにかく、その手に握っているものは今すぐに捨てろ。それはロクなもんじゃねぇ」  額を掻きながらぶっきらぼうに言い捨てる少年。  信彦はそんな少年の忠告にいまいち納得できない。同い年くらいの少年からなんだか偉そうに忠告されても、素直に受け取るなんてそうそうできない。  掌を握り込んでキリっと見返す。 「どうしてさ。なんで君がそんなことを言うんだ」  強い口調の信彦。目の前の少年を威嚇するような調子だ。  テンガロンハットの少年は疲れた様子でガックリと肩を落とした。  あきれてその場を立ち去ろうとした時。  彼の視線はある一点に止まった。 「!! 動くなっ」  信彦の頭を注視した後、途端に声を強める少年。  信彦の体が硬直する。いやに圧力のある言葉だ。  少年はゆっくりと信彦の頭へと手を伸ばしてくる。視線は一点を見つめたまま。間近に見る少年の顔は、同じ人間とは思えないほど綺麗である。村で一番モテる大ちゃんなんかでは相手にならないな、と信彦は感じた。 「捕まえた。ほらっ」  テンガロンハットの少年がまた声を張り上げた。少年の指は昆虫の羽をつまんでいる。  サイズがでかい。それはトンボである。 「それがどうしたの?」  信彦は首をかしげて少年に問いた。 「いや、デカイなと思って」  少年はトンボを突き出した。“持ってみろ”と目線で言ってくる。  信彦は掌の物を腐葉土に落とし、トンボを受け取った。そして軽くそれを見つめて肩を竦める。 「この辺じゃ普通だよ、これ」 「そうなの? へ~ぇ」  興味深そうにテンガロンハットの少年はトンボを眺めている。  信彦にとってはそのリアクションの方がよっぽど珍しい。  暫く眺めていると、トンボは突然に暴れて信彦の指を離れた。 「あっ!」  二人が声をそろえた時にはもう手遅れ。  トンボは刹那に勢い良く空へと飛び上がっていき、“あっ”という間に木々の彼方へと消えていった。 「行っちゃった……」 「うん」  それを見送る二人。 「「…………」」  暫く空を見上げた後、揃って顔を見合わせた。  よくは分からないが自然と笑顔が溢れた。トンボが飛んでいったことがそれ程楽しかったのかは解らない。でも、二人は声を上げて笑っていた。 「まぁ、あれだ――」  やがて笑いも収まってきたころ、テンガロンハットの少年が切り出す。 「とにかく、この草にはもう近寄らない方がいい。悪いことは言わねぇから」 「う~ん……」  やっぱり納得がいかない信彦。 「いいから聞いとけって。 じゃ俺はもう行く」  信彦に背を向けて歩き出すテンガロンハットの少年。 「まってよ、君の名前は?」  遠ざかる背中に問いかける。 「秘密さ。 その草と同じで、ロクなもんじゃないからな……」  立ち止まることなく、少年は言い捨てた。そしてその言葉を最後に、少年は信彦の視界から消えてしまった。  以降。信彦が彼を見かけることはなかった――  ――あれから、何年が経過したのであろうか。  もうすぐ人生二十二年、人生の岐路を迎える年齢である。  信彦の家は都心の外れに建つ築八年のアパート。家に帰れば愛猫のブッチが「にゃ~」と鳴き、台所に立てば使用済みの食器が洗い場に雑々と積み重なっている情景が広がる。  「燃える・燃えない」に分けられたゴミ箱。その「燃えない」方からプラスチックの容器が溢れ落ちている。  六畳一間に座り込み、コンビニのビニール袋から今日の飯と酒を取り出す。  この時、いくらゆすっても他には何もビニールから出てこない。 「――あのクソ店員っ!」  一言吐き捨てると乱雑な台所へと向かい、使用済みの箸を探り出した。それを軽く洗って先程の場所に座る。微妙に冷めかけている弁当の薄いビニールを剥ぎ、ゴミは丸めてテキトウに投げ捨てた。  TVを付けると今日のニュース。違法薬物の常習犯が捕まったという報道。  信彦は報道を鼻でせせら笑った。  空の弁当容器が置かれている。  中身の無いビール缶を灰皿に一服ふかす。四方の壁は大分黄ばんでしまっている。借り物の部屋だが、どうせ越す予定は無いのでどうでもいい。そんなことよりタバコが美味いことが大事。  自分では気がつかないが、他人からすれば結構気になるらしい自分の体臭。少しは気にしたこともあった、女が毎日五月蝿くしていた時だ。 「最近あんた、親父臭いわね」  そんな憎まれ口を言ってもらえた時期が懐かしい。  女と寝た布団には、ここ数年自分以外の人間が横たわっていない。そして、そんな布団もやはり黄ばんでいる。  街の人混みに始まり、コンビニ弁当を経由して黄ばんだ布団で終わる毎日。たまに店のベッドの上で見知らぬ女と絞める日もあるが、余計に虚しい。  でも、そんな日々にはもう慣れた。  ちょいと昔、信彦の同僚がこんなことを言っていたことがある。 『俺、小さい頃から警官に憧れていたんだよ。 俺のできるかぎり、人を守るんだ!』  署で始めて顔を合わせたとき、そんなことを言っていた同僚。丁度今、信彦の隣で小さな米俵のようなものを鞄に詰め込んでいる男がそれだ。  頬はこけ、目の下にクマもこさえた。机に置かれた自分の手帳を掴んで乱暴にポケットへ突っ込む男。  信彦はその隣で清潔そうな窓の外を眺めた。 「おう、行くぞ」  そう言って上の空の信彦を小突く。そのまま扉を開けて出て行く同僚の男。それに少し遅れて信彦も続いた。  取引は至極順調、滞りなく行われている。  千葉県のある位置。若干の潮風が匂う場所で、信彦は同僚と共に仕事をこなしていた。  以前の仕事は何かと便利ではあったが、リスクと気力の問題で転職を決意。今では堅気だった足に泥を塗り込んでしまっている。信彦は二度と、綺麗な足には戻れないだろう。  ケースを開けるお得意様。「誠実さ」を確認できたので、カッキリ物は渡しておく。  卑怯もへったくれもない世界だとちゃんとした人々は思っているが。実際にはマジな“律儀”が重要な市場でもある。  もちろん、薄汚い時もあるだろうけど。それは薬りすぎて欲張った結果だったとか、くだらない利権の問題とかによる。まともな神経を保っているのなら、リスクがライフと等価になる賭けは避けるはず。  そもそも脳の仕組みからまともじゃないって奴も溢れかえっているが。  信彦が高校生の頃だったか。最初は興味なんてなかったが、話を聞く内に「もしかしたら」と期待感を抱いた。  少年時代にハマったアレの正体がずっと疑問だった。引っ越しても、気になってしかたがなかった。  4年が経過して「いつか巡り合えたら」なんて思っていたが―――。  今ではもしかしたらも何もない。商売道具として付き合っている。幼心に刻み込まれたファン精神は腐れることなく、信彦に宿り続けていたということか。 「今後も御贔屓(ごひいき)に、頼みます」  同僚が崩れた笑顔で商談を締めくくった。  信彦も言えた義理ではないが、数年前とは比較にならない姿だとため息を抑えられない。  商売成立後こそ危ないので、緊張感は切らさなかったが。古びたビルを出てから早足に路地を抜けて、無事に車へと辿りつけた。  信彦と同僚は懐の一丁を使わずに済んだな、と拳を合わせる。  周囲を見回しても人気は無く、誰も後をつけてはいないらしい。まぁ、多少の反則行為なら前職の名残でどうにかできる自信はある。  すっかり安心したのか。同僚はケラケラと笑った。 「コーヒーでも買うか。へへっ、おれ、エメラルドマウンテ~ン♪」  設置されている自動販売機へと上機嫌に向かう同僚。割と良い仕事だったので、浮かれているのだろう。 「おう、おまえは――― ―」  振り返った同僚の言葉等が半端に終わる。  赤い飛沫が同僚の頭部から散布されて、道端の雑草が鉄の多い水気を摂取した。  棒切れのように横倒れに崩れる同僚。  意思を失った彼の眼球が信彦を見ている。  信彦は理解していた。彼は本来、利口で頭の回転が良いのだろう。  スカッと脳が晴れていた信彦は、家で寝転がってテレビを見ているような、普通な表情で顔を左方向へと向ける。  ほぼシルエットのみ。何せ、網膜がそれを見ていた時間は2、3秒程度なので。  ツバの広いテンガロンハットが特徴的で、ロングコートも目につく。  発砲して尚、気配が薄いその人物。完全に専門家なのだろう。  発砲した人物の表情は帽子の影ではっきりとはしないが。口の端を持ち上げて笑っていることは判断できた。  信彦は懐の拳銃を取り出そうとしたのだが―――すでに胸部が破裂している。  かなりの反動だ。前のめりだったにも関わらず一発で腰が落ち、体が後方に泳ぐ。 倒れながらも、いろいろと思い出される。  今住んでいる部屋の景色―――   顔が良いと思っていたが、単に加工技術が優れていただけの女―――    何本も歯が抜け落ちた口で懸命にあの植物を薦めていた友人――――     猫のブッチを拾ったあの雪の日――――― 「なんだ、いらないじゃないか」  信彦は呟いた。  意識がふんわりとして、尚且つ空でも飛びそうな爽快な風が心に満ちる。吸ってないのに、なんてことだろう。  ああ、しかし。この“娯楽”にあの植物を合わせたら、どんな世界に旅立つのであろうか。飯が美味くなるなんて、そんなものじゃないだろう。  巻き戻して、巻き戻して。自分の今までを展示会の絵画を見るように眺めて。 「    トンボが止まったんだ。 僕にトンボが。    彼はそれを慎重に掴まえたよ。 大きさに感動していたね。    見慣れたものだったから、僕はそんなに感動は無かったけど。    変な奴だったなー。 外人でさ、思えばあいつは知っていたんだろう。    ははっ。 そうか。 忠告してくれていたんだね。 今、解った。    親切な奴だったんだな~~~・・・…                                      」  広がる赤い水たまり。  ツバの広いテンガロンハットのシルエット。  その人物は水たまりから誠意の詰まったケースを取り上げて、現場を後にした。  去り際。その人物は独り言を呟いていた。  誰に問いているのかは解らないが、そこには誰もいないのだから独り言には間違いないだろう――――。