戻る<< >>最初へメーデン十三代時記 終巻
・第十五章/ 片鱗 /第一節、「積極性の発露」 1999年も夏場に入った頃。メーデン皇帝領では皇帝の発案で大花火大会が執り行われた。5万発もの花火を海上から打ち上げるという豪快な催しを楽しもうと、領民はこぞってベストポジションを探し、高台や断崖沿いの道路へとシャシャリ出た。中でも白城カントラックの敷地内は絶景ポイントとして大々的に宣伝されており、解放された庭園には人々が押し寄せ、それはそれは大変な賑わいだったという。 メーデンの象徴たる騎士団は秩序の維持に大忙しとなったが、彼女らを統率する7人の騎士は割かし好き勝手にしていたらしい。生真面目なエリーナは職務に励んでいたものの、例えばラコッタなどは「大きな音は嫌い」と吼えて宮殿内でのパーティに専念し、少しも職務を全うしようとはしなかった。 リオナは解放区の庭園まで出向いてエリーナの手助けをしていたようで、多くの目撃情報が残っている。 メーデン騎士団における権力者たる七騎士、その内でも格別に実力者とされる3人の「オールドガード」。当時の顔ぶれはリオナ、ラコッタ、そして“フィアラ”である。 花火大会の日。リオナとラコッタに関しては前述のように振舞っていたので、何をしていたのか記録としても残っている。しかし、フィアラだけはその時何をしていたか、という公的な記録が存在しない。 よってあくまで噂の類なのだが……どうやら彼女はそのとき、皇帝の部屋で共に花火見学をしていたらしいのである。騎士団の歴史上、唐突に出現した彼女はトントン拍子に出世街道を進み、入団から半年足らずで「オールドガード」の位に就いた。オールドガードは皇帝に一番密接な役柄。彼女の出世はその実力も然ることながら、皇帝自らが強く推し進めた結果であるという。――つまり、皇帝とフィアラの仲は相当に親密なものであったと予想される。 話はそれだけでは済まない。 フィアラは以前まで最高の実力者とされたリオナを決闘(*擬似的なもの)で圧倒しており、その後他の騎士からの認知も広げ、何より皇帝から妙に寵愛を受けていた。 これら三つが重なったことからか、彼女は異例の速度で「騎士団長」という地位にまで昇り詰めることになったのである。ある種の狂気すら感じる皇帝の後押しが決め手となったのであろう。公には言われていないが、大花火大会は実のところ、皇帝からフィアラに向けての「就任祝い」だったのではないかという見解もある。 フィアラ自身が積極的に団長を目指していたという話はない。むしろ消極的だったとさえ言われているが、皇帝は“彼女でなければ務まらない”とばかりに、関係者に向けての熱心な演説まで行った。それによって半ば強制的に戴冠(*団長=剣帝位)することになったのであろう。 10年間空位であった「団長の席」が埋まるということに、関係者は色めきだった。助言者もともかくはホッと胸を撫で下ろしたようだが、いくつか気になる事もあったようだ。 第一、あまりにも昇進が早すぎる。中にはフィアラに対する不快感を顕にする人も多く、皇帝の妹であるラコッタ等は「そこまで認めてはいない」と、やりすぎな感もある兄に対して苦言を呈したらしい。もっとも、そこでは皇帝が珍しく彼女の意見を退けたようで、「皇帝が妹を怒鳴りつけた」という記録は幼少時から見てもこの時くらいしか見当たらない。 逆にフィアラの騎士団長就任を歓迎したのは友人のエリーナである。「彼女こそ適任」と疑いないようで、エリーナの言葉によってフィアラも覚悟を決めることができたようだ。 また、同じく友人である「リオナ」も歓迎の意思を表していたのだが……彼女については色々と複雑な思いもあろう。7割本音の3割嘘混じり、くらいの意思表明だったのではないだろうか。 真意は、彼女本人にしか解らない………。 /第二節、「心残り」 花火大会から数日が経過した頃。フィアラの騎士団長就任については、その頃はまだ「確定的である」という段階で、「就任した」という状況ではない。しかし、どの道後は本国クランベルとの兼ね合いによる処理だけなので、数日の内に領内へと就任が発表されることだろうと言われていた。 リオナ=ウィンガルは騎士団長の座が自分以外の人によって埋められることに戸惑いを覚えていた。だが、二度の敗北によって身を引くことを決めた彼女に今更出来ることなどない。精々、粛々と職務に励むのみである。 祖国リングランドへの交渉事の為に出向いたリオナは、すっかり“メーデンの人”となったことを咎められ、まともに情報を渡さない姿勢を追求された。しかし「厄介者扱いして追い出したのはお前らだろう」とリオナは強気で、元所属していた組織の方々は意図がバレていたことにショックを受けて怖気づいた。 だが、「騎士団長にはなれそうか」という質問について。リオナは押し黙ることしかできず、ここぞとばかりに反撃に打って出た元同僚の嫌味に耐えるしかなかった。どうせ半月もせずにば発表されることだが、「新団長」に関する話題を広げることはリオナにとって屈辱以外の何物でもなく、目頭が熱くなった。 久しぶりのスーツ姿。リオナは取り敢えず“メーデンからの”仕事は終えたので、逃げるように祖国を離れた。本来あった諜報員としての役割はもう放棄したも同然だが、そもそもリオナを放棄したのは祖国が先である。それに明確な裏切りでもないため、出国までネチネチと嫌がらせをされるに留まった。それらは「警告」の意味も兼ねている。 リオナはストレスを感じている。それは祖国における元同僚達からの嫌がらせも原因だが、比べ物にならないくらいに重いのは「新団長」のことであろう。 海峡トンネルを走る列車の中で、リオナは一人涙を零していた。 声を出して泣いているわけではない。しかし、どうにも無念な想いを抑えきれず、リオナは涙を流している。 メーデン領内にいる時は、例え誰の目もない自室であろうとも泣きはしなかった。それが国外へと出た途端、「騎士」の役割を一時的に解除されたような錯覚を得て、心が緩んだのであろう。本当ならば半年前に体感した“二度目の敗北”の時に流れるべきものが、今になって溢れている。 花火の日、皇帝陛下とフィアラが共にあることは知っていた。 だからこそ、宮殿から離れて解放区の警備を手伝うことにした。 自分はフィアラの立場にはなれない――と、リオナは決め付けていた。 最初の目標であった騎士団長の席……それが叶わないという事実も悲しいが、それ以上に寂しいことがある。今後の自分を考えて、敗北者として生きる自分の先を虚しいものだと決め付けていた。 『――つまるところ、悔やんでいる。もっと言えば、憎んでいる……』 耳が詰まったような感覚。エレベーターに乗った際に体験された方もあるだろう。加えて偏頭痛と共に、リオナの耳は「...ィイーン」という耳鳴りを感じていた。 最高で時速300km/h出る列車の中、しかも海峡トンネル内……そこに持ってきて体調不良となれば、頭痛の一つが生じても致し方ないところであろう。 リオナは最近常に持ち歩いている頭痛薬を2錠、ボトルの水で流し込んだ。女性には頭痛持ちが多いと聞くが、リオナもその例に漏れないということであろうか。 海峡のトンネルを走る列車は、クランベルの首都、リロールの駅ホームへと侵入して行く―――。 ・第十六章/ 王子 /第一節、「コンタクト」 クランベルの首都、リロール。古くから貴族文化が栄え、「華の都」とまで言われる優雅な都市。過去に栄華を誇ったガリ家は今でこそ堕落の象徴とまで言われるものの、その「堕落」を言い換えれば「華」ともなる。 ところ変わるが。食物を腹に収めてから吐き出して奴隷に食わせるのも一種の「華」であり、広場に人を集めて罪人を断頭台に掛けることも一種の「華」である。 ガリ家による「華」はそういったものに比べて理解しやすく優雅であり、荘厳な建造物内で行われる社交の舞踏会は今も尚、人々の憧れとなっている。ガリ家を嫌うのならば、そう言った「華」も嫌って然りだろうが……どうしたことか。現在のクランベル有力者達も伝統あるダンスパーティーが大好物である。 祖国への外交を命じられたリオナには、もう一つ指令が与えられていた。それは通りがかりにリロールの社交会へと参加し、数人の要人に対して直接次期団長に関する意見を仰ぐというものである。 スーツからドレスに着替えて、リオナは少し赤くなってしまった瞳を目薬で癒しつつ、舞踏会場へと参入した。 瀟洒な使用人の案内を受けて会場へと入り、リストされた数人へと決まった順序で声を掛けていく。この順番を間違えると後々言い訳が面倒になるので、気をつかって回る。 メーデン皇帝領から来た騎士団、その七騎士ともなると例え滅多に出向かなくても顔くらいはそれなりに知られている。中には皇帝領に詳しい人もあり、ドレス姿のリオナに「さすがの中将も、甲冑を着たままでは踊れませんか」などと声を掛けてくる男も存在する。しかし、リオナが「ドレスは似合いませんか? ならば甲冑と剣を持参して参りましょう」と言ってシャル・ウィ・ダンスの構えを見せることで、「とんでもない、お美しいです!」と苦笑いして退散するのである。 そうしてリオナは、嫌味ちょくちょく賛美極希な状態で会場を巡り、リストアップされた要人との接触を一通り完了した。 後は会場を出るだけなのだが……そこに、ホールを統括する役人がリオナの元へと寄ってくる。役人の風貌は少々変わっており、目元を隠す銀製の仮面が特徴的である。白いタキシードを着込んだその人は怪しげだが、壇上で挨拶をしていたこともあり、立場に嘘偽りは無いとリオナは思い込んだ。 彼は「皇太子様がお呼びしております」と言う。リオナは「えっ」と小さく意外そうな声を出した。それはそうだ。面識も何も無いリオナには、王子に呼び出される理由が見当たらないのだから。 理由が見当たろうが無かろうが、王子に呼び出されたとあっては無視するわけにいかない。既に現皇帝と婚姻を結んでいるため、まず間違いなく彼を守護することにはならないだろうが……それにしたって国の重要人物からのお声掛けである。行くしかないだろう。 いくらかの迷いを持ったまま、リオナは役人に案内されて王子の元へと向かっていく。 ――今は亡き前騎士団長、ミコラの忘れ形見は1999年7月の段階で満15歳。まもなく16歳を迎えようとしている、若き王子である。 次期皇帝と目される彼は、かつての13世と同じく国を挙げた宣伝を受け始めていた。彼が注目されるのは正妻であり、騎士団長でもあった人の子供だから――というだけではない。 13世ことキャーサルは「ノトンの再来」と謳われた。ノトン=クローヴァクスはガリ家に追いやられた王家の基盤を築き、メーデン皇帝領を成立させた偉人である。 対して、この若き王子――サルベウス=クローヴァクスはクランベルという国を成り立たせた最初の王、初代ルトメイアの生まれ変わりと銘打たれていた。 随分と大きく出たものだが、何もそれは国家の虚勢ではない。理由がある。 現在でもリロールの美術館には“ある細剣の欠片”が厳重に保管されている。展示されているものはレプリカなのだが、それは万が一にも本物が持ち出されることは許されない――とまで言われるが故。その欠片は「世界で一番偉大な欠片」とされている。その正体は初代ルトメイアが用いたとされる剣の欠片であり、少なくともクランベルにおいてはそれ以上に権威ある歴史的遺産は存在しない。 歴史上、王家を排斥したガリ家すら慎重に扱ったとされるその欠片は、代々「国王としての資格を持つもの」によって触られてきた。具体的には「手の上に乗せる」のである。 貴重な歴史遺産を触るとは……と思われるかもしれないが、伝統だから仕方がない。しかも、それはガリ家によって辺境地へと弾かれた王家ですら例外ではなく、王の息子ならば必ず一度はリロールに招かれ、この欠片を「手の上に乗せられた」という。 ・・・あくまで伝説としての話だが。初代ルトメイアの握る細剣は、塔色の輝きを放って目前に迫る雪崩のような敵軍を瞬時に消し去ったと言う。そして、彼の遺したとされる言葉に「此れを輝かせる者在れば、それは時代すら両断してみせることだろう――僕のように」というものがある。 つまり、代々王家もガリ家すら、この伝説を信じてわざわざ伝統を続けてきたということである。最も、長いクランベルの歴史においてすら伝説を証明する例は一つも現れた事は無い。何度がそう言った話はあったが、いずれも「泊付け」の為に用いられた嘘であった。 ――が、サルベウスは違う。彼が6歳の頃、美術館の秘匿部屋にて行われた“伝統”において、剣の欠片は塔色の輝きを放ち、部屋を明るく照らしたらしい。どの程度輝くのか不明だった為、代々できる限り暗くして行われていた伝統だったが――そこで放たれた輝きたるや、まるで太陽の如し。あまりの輝きによって失明者まで出たと言われている! ……という噂だ。 「失明者が出たという割には、当のサルベウスは失明どころか左右2.0ではないか」とか、「過去にも嘘はあった」という事実からこれの正当性を問う声は多く、公衆の面前で実演されないことからも疑問視する声は多い。 とは言え、サルベウスという少年が有能であることは事実で、伝説云々抜きにしても期待は大きい。 緊張した面持ちでリオナは王子の部屋に入室した。 皇帝と共に暮らしていないとは言え、血を継いでいるのだからきっと穏やかな人だろうとリオナは考えていた。しかし、サルベウス王子はリオナの予想に反した人物である。 「――リオナ=ウィンガル。君には一度、会っておきたかった」 そう切り出したサルベウスだが、リオナは少し面食らった状態にあった。何せ王子は、背中を見せたまま窓の外を眺めて、振り返ることもしないからである。 「リリアンナを打倒したのは君だと聞いたよ。――感謝している」 続けるサルベウスだが、リオナは二重に困惑した。まず、父とは異なり過ぎる冷たい態度に戸惑い、そして発せられた感謝の内容に当惑した。 「次の団長は君だろう? 煩い人もいるけどさ、割と黙らせたから今なら行けるよ」 そう言われてようやくリオナは気を取り直した。王子の発言の中で、早々に進言せねばならない事柄が聞き取れたからである。 「申し訳ありません。次の団長は……私ではありません」 できれば口に出したくなかった。事実関係の秘匿性を重視したからではなく、これを口に出すことでリオナの自尊心が酷く痛むからである。 「――違う?」 「はい、今日はその件に関する事で参りましたので、近々お耳に入ることかと思われます」 「―――ふぅん。ラコッタは有り得ないし、誰だろ」 いくら王子とは言え、メーデン領内の重要事項を指示もなく伝えることはできない。「自分は違います」というのが精一杯与えられる情報だろう。 サルベウスは「それは残念だな」と言うと、ようやくにリオナの方を向き直った。 まだ若年ながら、背が高い。スラッと伸びた足は父親譲りである。 顔つきは切れ長の目元に皇帝の面影があり、鼻の形と輪郭は父親のそれと異なっている。どうやら母親譲りらしく、これによって皇帝よりも「細い」印象を受ける。言い換えれば「鋭い」というものであり、それは彼の眼光が父親の暖かなものとは真逆ということも理由であろう。 「僕は君を高く評価している。もし、その気があるならば――どうだろう、僕の代に仕えてはくれないか?」 「!!? 王子、私は―――」 「知っているよウィンガル。なに、珍しいことではない」 「………。」 リオナは言葉を失った。王子の誘いはあまりにも突発的で、尚且つ無礼であるからだ。 無礼とは現皇帝に対してのことで、彼の提案はつまり、過去のライオラ等に見る「皇帝との離縁」を促すことに匹敵した。 言葉を発せずに硬直するリオナに対し、サルベウス王子はようやくの笑顔を見せ「僕の下でなら団長になれるよ」と加えてみせた。 リオナは顔を赤くしながらもできる限り自制し、「申し訳ありません、王子」とだけ伝えた。ほぼ一回りも年下な少年からの無礼な言葉に憤りを感じるとともに、少し揺れた自分自身にも恥を覚える。 「――新生活に嫌気がさしたらまた来なよ。待っているからね、リオナ」 馴れ馴れしくそう言うと、サルベウスは再びリオナに背を向け、窓の外に視線を戻した。 リオナはドレスの生地を握って感情を溜め込んでいたものの、さすがに王子に対して突っかかることはできず、「……御心遣いに感謝します」と言い残して部屋を後にした。 窓の外を眺めるサルベウスは何を思うか。 彼は市民の行き交う大通りを見下し、やがてそこをツカツカと歩き去って行く人の背中を冷えた視線で見送っていた―――。 /第二節、「ギミック」 メーデン皇帝領に新たな騎士団長が君臨しようとしている……。それは彼女の実力もあるのだろうが、皇帝による加熱な推薦こそ最大の理由であろう。 助言者オルターは皇帝の指示に従い、同時進行である挙式の準備も整えていた。 されど、皇帝よく知るオルターには疑問がある。皇帝ルトメイア13世は一度情熱的になると過剰な判断を下す人で、過去にも実力不足の女を騎士団長として仕立て上げたこともある。だが、それは数年を経て培った恋愛の上でのことであり、だからこそオルターも「協力しよう」という気になれた。 ルトメイア13世は恋に慎重な人で、重要な岐路における判断は相手に委ねるか、限界まで喉の奥に引っ込めておくような人物だ。過去に愛した人に対しても、その想いを伝えるまでに長い時間を要した事実もある。 ――が、今の彼はおかしい。普通ではない。 湧き出るように現れた「フィアラ」という女。彼女が皇帝にとってどれほど魅力的だと写っているかは解らない。解らないが……13世という一介の男性が傾ける愛の量は異常だと、傍から見守るオルターは“不審感”を抱いていた。 何が不審なのか。それはオルターにもはっきりとは言えないが、少なくとも親友たるキャーサルはこれ見よがしに花火を上げる男ではないし、周囲の意見を聞かずに牢獄へと毎日通う男ではない。そこまで豪胆な男ならば10年に渡る騎士団長空位という体たらくは見せていないだろう。 年を取ったことで性格に活動的な変調があったのだろうか。いや、オルターからすれば、キャーサルはむしろ日に日に内向的となっていたように思われる。だからこそオルターは活動的なリオナを宛がおうとしていたのに……。 オルターは強い違和感を覚えていた。 ――マラソンなどの長距離走を行っているランナーに現れる現象として、「ランナーズハイ」というものがある。 それは本来なら疲労や苦痛によって憔悴するであろう状況にも関わらず、多幸感を覚えて気分が高揚し、足取りが軽くなる現象を指している。同様にボクシングなどの激しい闘争においても似た現象は確認されている。単独で黙々と動作するより二人以上で競う方が高い効果を期待できるとされ、選手同士で高め合うように“己の身体を厭わず好調のまま競技に没頭する様”はミックスアップと呼ぶ。 それらはつまり、作業に没頭して極限にまで視野が狭くなっている“過度な集中状態”とも言えよう。苦境に立たされ、同時に強い感情を抱いて事に当たっている場合に発生しやすい現象で、極端な例ではなくとも、徹夜に及んで仕事や勉学に励んだ経験がある方ならばなんとなくその“病的な高揚感”を彷彿できるかと思われる。 原因は神経伝達物質であるエンドルフィンの分泌にあるとされており、これは別名「脳内麻薬」とも呼ばれる。 つまり、読んで字が如く。ランナーズハイに類似した所謂「ハイな状態」というのはアップ系のドラッグを使用して“通常ではない”精神衛生をもたらされている様に極めて近いということだ。脳内麻薬についてはそれそのものに「依存性」という言葉を当てはめて良いかは微妙だが、少なくとも「性行為を行うとβ-エンドルフィンが分泌される」という事実から本能的に人はこれに溺れる傾向があると考えて問題ないだろう。 「ハイな状態」は本来、健全で穏やかな精神状態にあっては起こりえない。上記の如く、激しい競技の最中であったり、過度の疲労を覚えるような状況がベースとして必要となる。 脳内麻薬は疲労を忘れさせて限界以上に人を突き動かしてくれる。何故、人体はこの便利な神経伝達物質を常日頃から分泌し続けないのか……もしくは気軽にドパドパ出るスイッチでも設けてくれれば良いというのに……追い込まれなければ分泌されないのは何故だろう? それはリスクがあるからに他ならない。 限界を超えて身体を突き動かす原動力は、いずれにしても「狂気」に近い“感情”となる。異常な多幸感がもたらす副作用は、「妄想性」「凶暴性」「執着性」である。徹夜や重大な試験を終えた後に、やたらと開放的になったり性欲が強くなったりするのはこのためで、異様な集中力の一点化もこれらが原因。 傍から見たハイな状態にある人は、「活動的になった」「意欲的になった」と捉えられる場合もある。それが行き過ぎると「我が儘になった」「周囲を軽視するようになった」と思われる事態へと発展してしまう。それらは身近にある人ほど普段との違いを考慮して察し、強い違和感を生じさせることであろう。 人体には「ハイな状態」――脳内麻薬に溺れる為の裏技が存在する。 一流のプロ選手は、試合前や試合の最中に何らかの「儀式」を行う場合がある。例えば特定の音楽を聴いてみたり、ユニフォームの袖をまくってみたりとそれは様々なものだ。中には頬を叩く、抓るといった少々荒い儀式を行うケースも存在している。 応用として、試合の中で危機に陥った時にミスを忘れると言った事もあるようで、いずれも“感情のコントロール”を目的としている。つまり、内的/外的刺激を用いることで意図的に感情を鎮めたり、昂めたりするということである(*β-エンドルフィンには鎮痛作用がある)。 「エンドルフィン分泌→感情の変化」ではなく、「感情の変化→エンドルフィン分泌」であり、エンドルフィンが不必要に分泌されることは性格の変貌すらも引き起こす。もしくは、一つの事柄や“一個人”への急速な執着心すら呼び起こすことが可能であろう。 例えば人の心に生じた水たまり……凪の状態にあるそれは本人の意識によってのみ、コントロールされるものである。時折他者の助言によって意識は変わろうとも、水たまりを気化させるか荒げて海原とするかは本人次第。その心は干渉されるはずもない無数の水たまりで構成されている。 ――“彼女”からすれば。それは拾った石ころを投げ込む程度の事でしかない。しかし、それは他の誰もが真似できない直接的な干渉力であり、何よりそれだけで十分なのである。 切っ掛けとなる水たまりさえあれば、彼女はそれを目ざとく見つけて悪戯に小石を投げ込むであろう。 ……助言者オルターと皇帝ルトメイア13世が突然として険悪になったことは数日の内に宮殿内へと知られることになった。 詳細は誰も解らない。しかし、皇帝の居室から響いた乱暴なオルターの声と辛辣な皇帝の声を聞いた者は多く、仲の良い二人だけに言い争いを聞いた人々は大きな不安と異常性を感じ取ったらしい―――。 ・第十七章/ 二つの伝説 /第一節、「効かない薬」 クランベルの首都、リロールには先進的な景色と何処か冷えた風情がある。夏場故に実際温度が低すぎるということはないが、古びた建造物の岩肌には木材と異なる趣があるということであろう。無機質ながらも堅牢な造りは地域の人に安心感を、慣れない旅行者には毅然として揺るがない誇りを教えてくれる。 市街地を裁断するのは土瀝青が塗りたくられた道。過去にここは投げ捨てられた廃棄物や汚物にまみれ、見れたものではない有様であった。それが一大都市整備によって現在にある「都市構造の見本たる市街」へと華麗なる変化を遂げたのである。もっとも、それは著名な建築史家からすれば「衣装を押し込めた箪笥」に見えるほど対外的な要素が多い。体裁を繕った代償として、解体されたスラムの秩序崩壊が今になって都心へとなだれ込もうとする危機を招いている。 駅もそうだが、リロールの主要機関、とかく人の集まるところでは注意が必要である。旅人が無用心に出歩けば、それはリトルギャング達にとって格好の糧となるだろう。「華の都だから心配ない」などと言ってホテルを出た呑気な新婚二人が、ものの30分も経たずにカメラと鞄を失った事もある。その場合、悪いのは無用心な旅行者であり、どうしても思い出を取り戻したいのならば新婚旅行の時間を質屋巡りに当てるしかない。 しかし、そこはさすがに大国の首都であるので、出来るだけ影にならない道を通ればそうそう新聞紙を広げた子供達に囲まれる事も無い。 無い、はずなのだが……。 仮拠点としていたホテルから不機嫌にツカツカとチェック・アウトする女性。スーツを身に纏う赤毛の「リオナ」は、ホテル前にたむろする少年達を見て気分を一層に害した。彼らに憎悪を向けた訳ではない。報告によれば近年増え続けているらしい彼らのように不憫な子供達……それを生み出す社会とその頭脳に怒りを覚えているのである。 リオナは知っていた。自分が騎士団長となる上でその足を引っ張る存在があったことを。元々祖国の特殊機関に在籍していた彼女は、情報を集める能力に長けており、同時にそれは任務の一環であった。だからこそ、リオナは国の上層部にある派閥の片翼を大いに憎み、苛立った。 (肥やす私腹の半分でも、どうして自国の未来に割けないのか――)過去の自分がそうであったように、訳のある子供達を見る彼女の瞳は、慈愛とその裏に向ける吐き気で渦巻いている。 リオナ=ウィンガルは苛立っていた。それはストリートのリトルギャングを見たから――ではなく、王子から言われた破廉恥に心を惑わされたから――でもあり、そもそも酷い頭痛と耳鳴りが継続していて薬がちっとも効かない――ということによる安定しない精神にこそ本質的な理由があった。 ナーバスな時にはかえって傷口を見てしまうものである。リオナは過去の敗北と後にある屈辱的な世界を断片的に連想し、瞬巡して足元を揺るがせた。 『――悩みというのは水辺の淀みと同じ。一つ対処が遅れると溜まりに溜まって、やがて心は濁った泥土で埋め尽くされる。淀みの解消に波は必要で、波紋を起こすことは決して間違いではない。我慢することなどないのだよ――』 ホテルを出たリオナはリロールの通りを歩く。目的は果たしたので、あとは駅へと向かい、皇帝領行きの列車に乗り込むだけ……そんなことは百にも承知であるはず。だが、リオナは耳鳴りと悩みに意識を囚われていたのであろう。考え事に熱中してうっかりしていたようだ。 気がつくと、リオナは駅と正反対の方角へと歩いていた。ふと見上げれば異国民のリオナからしても馴染みある(むしろ何度も旅行で訪れた経験のある)威容がそこに広がっていた。 リロールを――クランベルを――それ以上に世界的な権威を持つ“ルーヴル美術館”前は多くの観光客で賑わいを見せている。 その姿に「宮殿」を連想するのは当然で、実際に過去の時代ではガリ家の宮殿として用いられていた経歴がある。さらに言えばここは本来「要塞」として作られたものであり、外観に物々しい面影はほとんどなくとも、名称そのものに名残を残している。 リオナはしばらく「何故自分がここにいるのか」を呆然として考え、ほどなく道を間違えたことに気がついた。そしてじきに頬を赤く染めて恥ずかしさのあまりに顔を伏せる。 どうしてかと言えば、この美術館の所在などクランベル居住者であれば誰もが知っていて当然であり、例えメーデン領民だからといって言い逃れできるものではない。それが駅と道を間違えてここに至ってしまうなど、飲み会において失敗談として語っても周囲から引かれてしまうような馬鹿々しぃミスだ。 キンキンと耳元で煩い耳鳴りが尚更酷くなる。きっと、ミスをしたという自覚が精神負担となって体調を悪くしているのだろう――と、リオナは自分の状況を分析していた。 しかし。今度はそうする内に、これも無意識に彼女は美術館の中へと入っていた。 「入場料も払っていないのに!」などと狼狽える前に、“リオナの前に立つ人”は極々平常な様子で彼女を気遣う。 「どうかされましたか、中将?」 彼は不思議そうに首を傾げ、心ここにあらずなリオナの表情を伺っている。彼の装いは少々変わっており、目元を隠す銀製の仮面が特徴的だ。 見覚えのある白いタキシードに対して、リオナは「どうしてここに」とでも言おうとしたらしい。しかし、鳴り響く耳鳴りの圧力に屈して言葉を忘れ、壁へともたれかかってしまった。 白いタキシードを纏っている彼は、美術館内の衆目から離れるように、薄暗い廊下を歩き始める。 耳鳴りは頭痛と区別がつかないほどに耳をつんざき、止まない雨音のように脳内で反響して意識を朦朧とさせた。だが、リオナはその状態でも重い足を引きずりながら彼の後を追った。 まるで土砂降りの中、泥に足を取られつつも進んで行くように―――。 /第二節、「目覚め」 薄暗がりの廊下に白いタキシードの背中は良い目印となる。時折彼は足を止めて振り返り、リオナがちゃんと着いて来ていることを確認すると再び顔を前にして歩き始めた。激しい耳鳴りに襲われる状況にあって、リオナにはその背中が唯一の拠り所に思えていたのであろう。 銀仮面の彼は足跡代わりに言葉を残していく。 「サルベウス王子の印象はどうでした?」 「………」 リオナは答えられる状況にない。だが、激しい耳鳴りの中で、不思議にも彼の言葉ははっきりと聞こえていた。 銀仮面の彼は無返答に構わず続ける。返事がなくてさも当然、といった具合に。 「この美術館に秘蔵されている剣の欠片についてはご存知で? ――ああ、結構。剣の帝を目指す騎士団員にこれは無粋な質問でしたね。 では、王子が希代な人であることもご存知ですかな。それとも巷に同じくゴシップだと考えておられましたか?」 「………」 リオナは彼の言葉について返答はしなかったが、反射的に欠片の伝説とそれを輝かせたという王子の眉唾話を思い浮かべた。 「よろしい。では、これはご存知で? この美術館には周知である剣の欠片の他に――もう一つ。剣にまつわる夢物語があることを……」 「………」 「細剣の欠片とは異なり、レプリカすらも展示されていませんが……ここにはもう一剣、伝説を持つ刃が保管されているのです。それも、こちらは完全な形で」 「………?」 異国育ちであるリオナはすぐに思い当たらない。この国に伝わる宝刀と言えば、欠片の話しか知らなかった。 「そのことは知らずとも、“乳搾りのアシェル”の話は聞いたことがあるでしょう? 王家に直接関係する話ではないので、もしかしたら騎士団といえども重要視していないのかもしれませんが、『それはここにいるのですよ、愛しき人―――』 リオナは時折壁を頼りにしつつ、朦朧とするままに銀仮面の彼を追っていた。しかし、いつの間にかその背中は無く、まるで嘘幻であったかのように消えてしまっている。代わりに、煌々と照らされる室内の明かりがリオナの瞳孔を責めた。 不意に開かれた扉から溢れた光。薄暗がりの廊下を歩いていたリオナは思わず背を丸めて目を閉じてしまったが、次第に瞳が順応していくことでようやくに目を開き、周囲の様子を知ることができた。 そこは一言に「殺風景」であり、見立て5m四方あるかないかの広さで天井もそれほど高くはない。単に二本の蛍光灯が不釣合に眩しいだけの、光量が多い一室である。 室内はあまり丁寧に掃除されていないのか、四隅に埃が確認できる。明るすぎて逆に埃が目立ってしまうことで、かえってみすぼらしい印象すらあった。 窓のないそこは閉塞感があり、展示室ではなく倉庫、もしくは牢獄の如く場末感が漂っていた。あたかも洞窟を歩き詰めて行き当たったかのように息苦しい。 殺風景な部屋の最奥に展示ケースが一つ、唐突な様で設置されている。それは台座を含めて高さ1.5m程度、横幅は3m近くあり、何か細く長いものを収めるのにちょうど良い形状に思われる。 他に物という物は存在せず、せいぜい床と壁と天井と電灯と埃くらいしか無い室内にあって。その展示ケースの立派さはこれまた不相応で侘しい雰囲気である。 ガラスのケースには綿埃が張り付いていて中身がよく確認できず、台座の黒塗りには白いフケのような粉埃が散見された。保管というにはなんともズボラな有様である。スンスンと鼻を利かせば建築材の衰えた酸味に、若干の鉄臭さが混じって鼻腔を困らせてくれる。 そしてリオナは気がついた。 先程まで意識を朦朧とさせていた耳鳴りが嘘のように静まっていることに。――しかし、その実耳鳴りは継続されていて、違いはリオナに影響を与えるか否かでしかないのだが。リオナはそこまで気がつけない。 『待ちわびた。あなたを待っていた、悲哀の人よ……』 だから、リオナは新たに聞こえてきたその“声”が本質の所で自分を苦しめた耳鳴りと同じということを知ることはできなかった。 「……今のは、声?」 リオナは周囲を見渡すも、ここにある人は自分のみである。ならばそれは病による幻聴であろうか。 『いかにも。さぁ、よく見てごらんなさい。私は君の前にいる―――』 君の前……と言われても。リオナの視界にあるのは黒の台座とガラスのケース。それに、埃で曇ったケースの中にぼんやりとした長い影が透けるのみである。 リオナは指先でケースの埃を一部取り払った。目を凝らせば、ガラスの囲いに守られた重厚かつ鋭利な存在が確認できる。リオナは剣士の感性によって、飾られているそれが己の用いる得物に極めて近いものではないかと直感した。 『初めまして、私は“聖剣ディスペア”。長く忘れ去られた、嘆きの剣……』 「聖剣――ディス、ペア―――?」 『この透明な囲いは長くに渡って私をこの世から隔離しておりました。どうか、麗しき人よ。この囲いを外してはくれませんか?』 リオナは当面の事を現実だとは思えていない。確かに目の前に剣を確認できるものの、聞こえる声は病による幻聴だと考えている。 しかし、この幻聴があまりにもしつこく『息苦しい、この囲いが憎い』などと訴えてくるもので。さながら夢の中で敢えて転んでみるような実験的感覚でガラスのケースを持ち上げてみた。 こういった展示ケースならば無論として施錠されているのだろう、とリオナは考えていたのだが……やはりこれは夢なのであろうか。あまりにも無防備にガラスのケースは持ち上がり、粉埃を落としながら床の上へと置かれたのである。「こほっ、こほっ」とむせ返る自分にリオナは違和感を覚えた。埃でむせ返るなど、夢にしては妙にきめ細かい仕様であろう。 埃塗れのガラスを外されたことで、剣の全体が鮮明にリオナの視覚へと写りこむ。 それは単に剣と表するだけでは物足りない。 柄は太く、刃は綺麗な平行を成して切っ先にて二等辺三角形で帰結、尖った切っ先を形成している。また、その全体は一般的な剣と比べるもない程に分厚い。しかし2mを超す無骨な鉄塊を振り回すリオナからすると、それよりも若干短いこの剣は手頃なものに思えた。 ――囁く剣、『ディスペア』は黄銅鉱の如く碧を基調として金/紫/緑の色合いを混ぜ込んだ混沌とした体色をしているが、全体的に赤錆た色合いが混じっていて率直に申して薄汚い。あまり切れ味が良さそうには思えないが、見た目からして「押し切る、殴り殺す」ことを主目的とした存在なのであろう――とまで、リオナは瞬間的に考察できた。 『ありがとう、親切なリオナ=ウィンガル』 「……! 私の名を!?」 『ええ、知っていますよ、リオナ=ウィンガル。私はクランベルを見守る護国の剣。あなたが騎士団員として活躍していることも、存じております』 リオナは度肝を抜かれた。自分の名前を呼ばれ、立場を指摘されたことで夢だとか幻聴だとかと、突き放して考える余裕を失った。つまりは目の前の存在に「集中」していることを意味する。 『この封じられし身を救っていただいたことに、私は感謝したい。礼を尽くしたい――あなたの力になりたい』 「それはどうも……しかし、私の――力に?」 剥き出された大剣の姿。リオナは見惚れるようにそれを見ている。 『あなたはとても悔しい想いをしています』 「!?」 『不条理です。ええ、なんて可哀想なことだろう“弱き人”よ――』 大剣の鍔にある水晶体に生物の瞳孔が見開かれ、混沌とした刀身に見入っていたリオナの脳裏に、目まぐるしく記憶の映像を蘇らせていく。 それは苦労の記憶であったり、抱いていた責任感の記憶であったり、自覚した感情の記憶であったり―――敗北、喪失、嫉妬、妥協、悲哀、恋慕、悔恨、無力――悔しい、憎いという類の感情。 繰り返される映像。意識と潜在意識の境目を刺激して、道理に隠された本性を表層へと混ぜ合わせる。感情の爆発はエンドルフィンを撒き散らし、執着心を呼び起こした。彼女の脳は麻薬の海に溺れている。 「アっ、アアっ、アっ、アっ……!!」 『おやおや。憎い、憎い、悔しぃねぇ――みすぼらしい先の自画像は説得力があってとても写実的だよ。せがんで背徳、虚無の心に身篭って……悲劇の境遇に陶酔するのか、情けなき人!』 呼び起こされる悲しい記憶はリオナの心を苛む。怯えるように屈んで頭部を護り、開口してつばを垂らす彼女に向けて、ティスペアは言葉掛けを躊躇しない。 『――甘んじて絶望の先を展望するのか、誇り高きリオナ=ウィンガルよ。いつから君は衰えた? 何が君を貶めた? よっく思い出しでごらんなさい。さぁサ、何が“憎い”だろう?』 順風満帆に思えた頃。友と穏やかに語らい、もどかしくも想う人に一番近かった時期×最も決定的な日。運命とも言える不条理、彼の前で無様に膝を着いた時。 自分が落下する過程を短時間に、高密度で。繰り返し再生される、その身に刻まれた挫折の手続き的記憶。危機的な精神状況に置かれたリオナの脳は、通常有り得ない高い集中力を「対挫折」の解釈へと差し向けた。過度に熱中した人間は異様なまでの執着と欲望を顕にする。 『可哀想なリオナ……もう少しだったのに、“彼女さえいなければ”きっと成し遂げられていたのに……。しかし絶望するのは早計だ、正しき人よ。このディスペアが君の助けになるのだから』 頭を両腕で抱え込むように屈んだリオナだが、囁く剣の声は少しも弱まることがない。剣は言う、『さぁ、私を手に取りなさい――』。これを聞いたリオナは朦朧とする中で「お前が何をしてくれる!」と叫び、ディスペアはただ、『願いを叶える』と答える。 「願いを叶える――だと?」 『ああ、そうだ。君の願望を成就しようではないか』 「貴様に私の何が解かる!?」 『言わせるのかい、力に屈した人よ』 「……私は―――」 『君はもう、答えを導き出したのだよ。何が原因で、何が必要か。だからこそ、君は健気に修練を積み……尚、敗北した』 「――――それが節目だ」 『割り切れるかよ、人間。君はつまるところ――悔やんでいる。もっと言えば、憎んでいる……そして願っているのだろう、“自分がもっと強ければ”と』 「――――馬鹿にしないで……」 悪い夢のようだった。それはこの閉塞的な室内での苦悩ではなく、あの日初めて敗北してからの日々がとても苦しいものだったと、リオナは考え始めた。 お喋りな剣は繰り返す『さぁ、私を手に取りなさい。きっと願いが叶うよ――』。 甘言に唆されたリオナは、立ち上がってその混沌とした剣の柄を握り締めた。 常人ならば持ち上げることもままならない重厚な剣を、リオナは軽々と片手で振り上げる――そのように振る舞えることはディスペアにとっての最低限であり、素のままに彼女を振り回せる逸材でなければ次の段階へと進みようがないのである。 『このディスペアの不遇は動けぬこと。君が私を振るう事でそれは補われ、代価として私は君に魔性を――“与える”』 「!?!? ………ぐぅッ、ア!!?」 『支え合い、助け合う事は美徳であるなぁ……つくづく実感するよ、便利な人。これから大いに依存し、共存しようではないか! なぁに、きっと願いは叶う。彼の依存は取り返しがつかない。支えを外せば木偶みたいなものだよ――好きにすれば良い』 「ぐぅぅっ………ガァアァァアァァアッッッ!!!!!?」 リオナは咆吼した。苦しみのあまり悲鳴を上げたのである。 身体を流れるエネルギーが抗体作用を発揮したによって全身が発熱し、耐え難い苦痛を生じさせていた。それは病原菌に対する発熱と同じく、体内で戦闘が行われていることを意味している。しかし、ディスペアの魔性が早々にリオナの身体を蹂躙し尽くしたことでその苦しみもすぐに収まった。 咆哮の衝撃によって足元のガラスケースは砕け散り、蛍光灯も破裂して危険な雨となってリオナに降り注いでいる。 『どうだい。素晴らしいものだろう、欲望の発散というものは!! キャハハハッ!』 明かりを失った閉塞的な室内。佇むリオナの頬から血が伝った。 肩のガラス破片を払い、彼女は悠然と歩き始める。 シャリシャリと床を踏み鳴らして歩く彼女の手には、久方の血液に喚起する、お喋りな大剣が握られている―――。 /第三節、「ドライな関係」 リロールの大通りを望める一室。 少年は片手にカップを持ち、打ち込まれるキーボードの音がチャカチャカと小煩い。 相対する鉄仮面の男はソファにふっかりと腰掛け、存分にくつろいでいる。 「――彼女はどうしたかな」 「無事に見送ったよ。持ち主の方は悪くない顔つきになっていたね」 「ラッピングも得意なのか」 「遊び心と手向けだね」 「生意気なやつだ。人間の真似事かよ」 「君の人間性の方が疑わしいね」 「ふん。もう用はないだろう、さっさと失せろ」 「ひどい人だ。他人をぞんざいに扱って―――」 鉄仮面の男はその言葉を最後に、ふっ、と姿を消した。初めから存在しなかったかのように、そこに痕跡はない。 対して、少年はまったく気にもせず。冷めた表情で液晶のモニターを眺めた。 リロールの大通りを望める一室。部屋にはやはり、キーボードの小煩い音だけが響いている―――。 ・第十八章/ 月 光 /第一節、「蔓延」 ラコッタ=フレイデルはその頃不機嫌であった。風が吹けば変わるような彼女の心情からして、「その頃」などと言うのも変な話だが。どういう訳か、ラコッタその頃安定して機嫌が悪かった。そういう時期という訳でもなく、“無性に苛立っている”という状態。一種のヒステリー。 彼女は「フィアラ」について、その実力を認めて七騎士となることを見逃してやっていたのだが……フィアラが騎士団長になる、という提案を聞かされて「そこまで言ってない」と強く反発した。 次第によっては周囲に言いくるめられる可能性も充分にあったであろう。だが、直談判に赴いた彼女を兄であるルトメイア13世が怒鳴りつけたことで事態は硬化してしまった。なぁなぁと懐柔することはあっても決して怒鳴るような兄ではなかった為、ラコッタは狼狽した。 傾倒する相手が自分の理想像に反する行いをした場合、思い込みが強いほどにそれそのものを疑おうとはせず、他に原因を見出そうとする。怒鳴りつけた本人である兄はラコッタにとっての信仰対象とも言えるもので、それを嫌うことなどはできない。彼女は兄の激昂に対して別視点からの理由付けを心中で行う必要性に迫られた。 彼女は即座に思い当たり、半ば錯乱した様子でフィアラへと怒りの矛先を向けたのである。 リオナ=ウィンガルが遠征から帰還してからというもの、ラコッタの不機嫌は加速度的に高まり、以前は単なる嫌味な人だったのがいつしか暴君とも言える有様にまで至っていた。最古参の変調は他の七騎士にも伝播し、たかでさえ油断ならない騎士達は攻撃的なラコッタに対抗するべく自らにも殺伐とした気風を纏うようになる。精々、人間関係に鈍感なエリーナくらいが呑気なもので、リオナも達観した態度を見せていた。 これに釣られるように周囲にも険悪な感情が蔓延っていく。一部では皇帝そのものへの不審感を持つ人も現れることになり、助言者オルターなどは人が変わったかのように13世から距離を取った。実質的な宮殿の運営を司る彼の態度は強い影響を持ち、他の助言者及びディレクトゥも思考の方向性を変化させた。 宮殿はフィアラの騎士団長就任を控えた状況にあって暗雲立ち込め、異様な気配を察したフィアラはなるべく対人関係を避けた。特に皇帝との関わりこそが危険なのだと判断した彼女は争いごとを避けるべく自室に篭もったのだが、城内に漂う陰険な魔性はそれを許しはしない―――。 /リオナ=ウィンガルはラコッタと接触することで互いの意見をすり合わせた。 フィアラは既に七騎士である。そして七騎士内での“決闘”には他の面子の許可が必要だ。その許可を得るべくして、リオナはお局に接近したのである。 執着心と猜疑心に満ちたラコッタの心情は、魔性にとって手頃な玩具足り得る。破格の集中によってフィアラを憎むラコッタは容易く提案に合意した。もっとも、その破格を生み出したのはそもそも魔性の行いであるのだが……。 /助言者オルターは酷い頭痛と耳鳴りに苦心していた。 心労が祟ったのだと恨み言を呟く彼の前にもリオナは現れ、これにも提案を行う。 道徳心から拒否の意を示すオルター。しかし、不意に湧き上がった怨恨によって活動的に判断し、“何も認知しない”ことを確約。日時を把握して下準備までも請け負った。 責任感と真面目さに満ちたオルターの性根は、魔性から見て虚弱な木偶に過ぎない。不満不平を内包して気遣う「出来た男」ほど魔性にとって使い心地の良いものもないだろう。 最後に、フィアラにとって心の拠り所であろう友のエリーナを引き落とそうと魔性は考えたのだが、まだ“生き物”であるリオナの反対を押し切ることができず、これは断念した。まぁ、どの道それはダメ押しのようなものなので、別段として“彼女”は気にしない。 『良いだろう、温い人よ。後に困るのは君だが、それについて理解しろと言うのも過ぎた期待。私は多少思惑を逸らされたからといって君を見捨てたりはしないからね』 ――かくして。 動乱の世に比べれば幾段とも手間が掛かったものの、魔性は儀式の舞台をきっちりと作り上げた。 根本的には変わらない。最後のステップを踏むためには必要なことだ。致し方がない。 /第二節、「月夜の決闘」 ある月夜の晩。ラコッタ=フレイデルがフィアラの部屋を訪れた。 気難しい人がわざわざ出向いたことで、フィアラはこれに応じるしかない。扉が開かれるとラコッタの丁寧なお辞儀があり、「月見でもどうかしら」などと唐突な提案が成された。 フィアラはどうにか断ろうとしたのだが、プログラミングされた人形のようにラコッタは意見を変えない。遂にフィアラは決意して、唐突な提案に応じることにした。 言われる前に双剣を携えたことで、ラコッタの後を付いて行く。 連れ出された先は監視塔の屋上。そこは庭園の闘技場と同じく、円形。異なることは優に地上15mはあることだろうか。 夜空に雲は無く、月光は存分に石造りを照らし出している。屋上では3人の騎士が待ち構えており、それぞれ屋上の縁にてフィアラを睨めつけた。 「――皆様お揃いで……。ラコッタ様、これはどういうことでしょうか?」 問いに応じず。ラコッタは縁まで歩き、手すりに腰を乗せた。 屋上の中心に置き去られたフィアラは周囲の騎士達を見回す。誰もが薄笑いを浮かべているようで、これは気分の良いものではない。 高所に強い風が吹く。絹のようにしなやかな長い髪は靡き、ワンピースの裾がはためいた。 石造りの階段を昇る足音。カシャン、カシャンと鋼鉄が打ち鳴らされる金属音。 「上手くなったものよね。随分と、流暢に言葉が出てくるじゃない……」 フィアラが振り向くと、そこには丁度階段を昇り終えた女性の姿がある。明るい月明かりは彼女の頭髪に赤の色彩を与えた。 かつてのように全身に鎧は着込まず、四肢以外は至って軽装。いや、ほとんど下着に近いそれは戦装束にはあまりにリスクが高すぎる。これでは「斬られること」が前提であるかのようだ。 「リオナ――やはり………」 「文武両道。私を打倒し、高い吸収性を見せて――・・・気に入られるわよね、当然よ」 赤毛のリオナは抜き身の大剣を手にしている。錆びてくすんだような色合いが金属質な反射で鈍く光る。 フィアラは首を振って訴えた「止めましょう、こんなことは――」。 「諦めの悪い女と笑いなさい。私は勝って笑ってみせるから」 「リオナ、強さなんて……友の間柄に重要な意味を持たないよ!」 「吐かせ―――重要だろうがッ!!!」 目を見開き、リオナは唸るように吼えた。 足元の石床に亀裂が奔る。風は向きを変えて吹き荒れ、大気を伝う怒りがフィアラの足を後退させた。 「―――どうして? 私達、仲良くなれたのに……どうして尚も戦おうとするの?」 「持つ者には持たざる者の心境など理解できまい! 二度の敗北によって失った私の誇りを、未来を……返してもらおう!!」 大剣を斜に構えて前傾姿勢。リオナは両の足に力の溜めを生みだしている。 彼女の右手にある刃。それは月光を斑な紫に変えて反射し、輝いている。おお、なんと禍々しい気配か。まるで高笑いのように甲高い耳鳴りが鼓膜を越え、内耳を駆け巡って直に頭脳を刺激する。フィアラは悪寒に身を震わせ、即座に戦士の勘を禍々しい大剣へと差し向けた。 「リオナ、その剣……一体、何? 私、とても嫌な予感がするよ」 「返して、返してッ! その立ち位置を寄こしなさい!」 「リオナ――。そうか、それだったのね、悪い予感は……」 「ああああっ、、、もう、斬るしか――― ない 」 リオナの焦点は微震して定まらない。歯を打ち鳴らして涙を流す彼女は何かを堪えているようだ。 彼女は電気ショックを浴びたように数回痙攣を起こすと、髪を振り乱し、荒れ狂う炎と同じ勇猛さで石造りの地を蹴った。 鉄靴が摩擦によって火花を上げ、月夜の舞台に閃光を撒き散らす。9m強はあろうかという二人の距離はあっという間に縮まってゆく。過程で跳び上がったリオナは低空で身を回し、禍々しい大剣を目標へと振り下ろした。 フィアラはこれに対して金と黒、二本の剣を交差させる形で受け止める――が、力及ばず。膝がよろけて体勢を大きく崩す結果となる。 フィアラは仰向けに倒れ、リオナはほとんど跳ね返らずに着地――。赤毛の騎士は眼下の女と右手の剣を交互に見てから、引き攣るような笑みを浮かべた。 彼女は舌をペロリと出すと上唇を舐め、大剣の柄を両手持ちにした。「アハハ」と声を出しながらそれを振り下ろすと、間一髪。フィアラは石の床を転がってそれを回避することに成功した。 禍々しい色の大剣は石を砕いて地に突き刺さっている。抉れ飛んだ破片がリオナの頬を掠めたようで、彼女は微量に血を滲ませていた。 「―――・・・」 フィアラは両手の痺れに耐え、周囲に視線を送る。そして彼女は見守る他の4騎士に向かい、「この戦いを止めてくれ」と叫んだ。 「ええ、叫んでくれて構わないわ。でも、誰も邪魔をしない、決闘の邪魔は入らない――陛下は教えてくれなかったのかしら?」 「リオナ、私の負けだ! 敗北を認める、認めるから……もう、止めよう」 立ち上がって訴えるフィアラ。しかし、それは逆効果というものである。 「……二度目の時。あなたはただ、動じずに私の剣を受けるだけだった。それは私の実力不足が理由かもしれない。だけど今はどう? 私、今なら貴方と本気で戦える気がするの」 「――ダメ、私は貴方を傷つけたくない……お願い、解って!!」 「あのね。そうやって手の内を隠されて、気遣われて、優しくされて……敗北する。これがどれほどに腹立たしいことか、あなたこそ解らないのかしら??」 リオナは頬の片側を痙攣させて、歪な微笑みを見せている。 フィアラは袋小路の精神に追い詰められ、唇を噛んで目を伏せた。 「戦士ならば、誇りを持って戦いなさい! 強者である限り、最後まで覚悟を全うしなさい! 弱ければ――全てを奪われる!!」 充血した瞳で相対する人を見据える。リオナは思い起こされる悔しさによって強く奥歯を噛み締めた。 彼女は地を蹴る。円形の縁にまで追い詰められたフィアラに向かい、駆けていく。 「それは違うよ、リオナ。そんな答えじゃ――弱ければ死んで、強ければ最後まで怯えて生きることになっちゃう……。平穏を望んではいけないの? 私も、最後まで戦わないとダメなの?」 大剣の切っ先を地に引き、火花を散らして迫る赤毛の騎士。 フィアラは双剣の片割れ、黒く刺々しい剣で虚空を薙いだ。 闇夜に突如として黒い旋風が巻き起こり、小竜巻となって迫る騎士を飲み込んでいく。 瞬間最大風速85.3m/sの暴風は、容易く人間一人を宙に打ち上げる勢い。激しい気流の渦が轟音を鳴らし、気圧の急降下によって周囲で見守る人ですら耳鳴りを感じた。 ――耳鳴りは、剣を振るったフィアラにもある。しかし、それは旋風によるものではない。継続して脳に響いている“メッセージ”。 暴風の余波でゆったりとした衣服の裾が持ち上がる。絹を思わせるしなやかな長い髪が揺れ動く最中、フィアラは息を飲んで言葉を失った。 到底人間が堪えられないであろう風圧。だが、黒色の旋風が衰える内にその赤は明瞭な様で現れる。大剣を石畳に突き刺し、膝を着いて祈る騎士の姿勢を月明かりが照らし上げた。 リオナ=ウィンガルはニヤリと笑みを浮かべて立ち上がる。そして何事も無かったかのように彼女は歩き、間合いを詰め始めた。 フィアラは小さく「リオナ」と呟く。それは、賞賛の意味と共に悲哀した感情を含んでいたのだろう。 振り下ろされる大剣の速度は常軌を逸したものだが、フィアラはそれを刃で逸らし、反撃を試みた。しかし、胸元に重い衝撃を受けた彼女は鮮血を吐いて石の縁に叩きつけられる。リオナは単に拳を突き出しただけで、それは充分に人を破壊し得る行為となったらしい。 余裕に笑うリオナ。見物人の耳に、高らかな耳鳴りが響いている。 最初の一合――。仰向けに倒された一刀の時点でフィアラは実力の差を感じ取り、今の彼女では手に負えない力だと悟った。だからこそ、彼女は悲哀の感情を抱いたのである。 フィアラは右手に持つ黄金の剣を夜空に掲げた。すると剣は眩い光を放ち、光はリオナの姿を飲み込んでいく……。 それは光子ではなく概念の風であり、真に照らすのは人の心。直接人間の精神を洗い流す光の風は、輝きを浴びた人の意識をホワイトアウトさせる。言い換えれば感情の“破壊”であり、相手の人格に多大な後遺症を残しかねない危険な行い。だからこそ、フィアラは出来る限りそれを禁じ手としていた。 しかし、それは適切に用いることで相手の戦意を削ぐ効力を発揮する。あるいは異常をきたした仲間の精神を宥める事にも活用できた。 フィアラにとっては最後の希望。彼女はリオナではなく、その手にある禍々しい剣に危険を感じ取っていた。マインドコントロールの類ならば、理性を取り戻させればもしかすれば……と、希望を抱いたのである。 光を浴びたリオナは足を止めた。表情からは笑みが消えて、途端に涙が溢れ始める。彼女は静かに首を振ったのだが、それは残る意識でせめて伝えようとしたのであろう。本来抱いていた想いを――。 リオナの大剣が悠々とした構えで振り上げられる。敵前にしてあまりにずさんなその構えは無意識の産物か。 フィアラはその時、争いを治めるにはどちらかが命を落とすしかない――と考えた。加えて言うならば、彼女は友人の命を優先したのである。意識を失って尚、戦おうとする執念を前にしては手の打ちようがない。 振り上げられた大剣を前にして、フィアラは瞳を閉じた。 ようやく手にした平穏だと思っていたのに、それはフィアラにとっての後悔として―――・・・ 『 どうした、平穏な余生はすぐそこだぞ? ―――刺せ!! 』 目を閉じたままだった。本心から命を諦めたままだった。 なのに、突如として湧き出た感情は理性のタガを越えて身体を本能に順じさせた。 顔に当たる生暖かい流体。ピチピチと肌に当たって弾ける感触にフィアラは恐れた。 突発的な、それは「出来心」という具合の動作。彼女はただ、瞬間的な発想で右腕に握る剣を前へと突き出したのである。 自分の行いに呆然として目を開くと、黄金の剣に伝わる赤い煌きが確認できた。月明かりに照らされる友の胸元には、しっかりと肋骨の隙間を通した刃が突き立てられている。本能のままに、優秀な戦士は敵対者の心臓を射抜いていた。 「ち、違――う。私は、私はこ、この身を捨てるつもりで………リオナ?」 自分の行いに絶望し、刃を引き抜いて取り繕おうとする。だが、突き刺した事実は決して消えはしない。震える声で友の名を呼ぶが、フィアラは取り返しのつかない事態であることを理解していた。 軽装であった赤毛の騎士。無防備に構えたその身を護るものは無く、戦いの中でこの結末となるのは仕方がないことだとも言えよう。問題は、フィアラにその気がなかったということ。 周囲にある騎士達は黙してその光景を見守っている。誰が駆け寄ることもない。 フィアラは両手の剣を落とした。そして剣を構えたまま静止している石像のような友の亡骸に、「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返して頬を寄せる――――― が。その時彼女の身体を、鈍い衝撃が貫いた。 衝撃の原因は息絶えたはずの騎士が放った拳撃。至近距離から繰り出されたリオナの左拳はフィアラの下腹部を撃ち、臓器を圧壊。現状が把握できないフィアラは後ずさり、石の縁に背中を預けて、呆然と目の前を見た。 そこには一人の騎士が立っていた。 その表情には笑みがあり、嬉々とした感情が溢れ出ている。 彼女は息も絶え絶えな獲物を見定めると、その身を引いて構え、囁く。 『ありがとう、強き人。おかげで依存は完了した――どうぞ、安らかに眠りなさい』 騎士の口元は動いていない。空に浮かぶものとは対照的に、下弦の形で固定されている。 彼女の声は鮮明に、大気を介することなく、直接意識へと響いていた。 「……お前は、一体……?」 『私か? 私は麗しき宝剣だよ』 「リオナを、どう、する……つも……り……」 『安心するがよい、哀れな人よ。私はこの者を救ってあげるのさ』 意識に囁かれる声に対して、フィアラは「これが救いか!?」と悲痛な叫びを浴びせた。だが、その声は風切りの音と突き刺された肉の重低音によってかき消された。 禍々しい剣がフィアラの胸部を押し貫く。鈍い切れ味の切っ先は、桁外れの怪力を伴ってフィアラの身を扶壁から仰け反らせた。 勢いのままに。彼女の身体は監視塔の外へと飛び出し、重力に引かれて遥か下の大地へと落下していく。雑に割かれた胸部より鮮血が帯を引き、地面の接触をもって傷口の大穴から骨と臓腑の一部がはみ出す。その瞬間をもって、「異界の剣士フィアラ」は絶命へと至ったのである。 フィアラは落下の途中まで意識があり、最後には「なんということだ」と友の身を案じた言葉を残していた。誰かにこの危機を伝えねばとも考えただろうに……全てが手遅れでしかない。それは無念の最後である。 ――夜空の下。禍々しい刃は鮮血によって潤い、上弦の月は血に染まった騎士の顔に濃い影を落とした。 穿たれた傷は見る見る内に修復され、失われた血の気も回復していく。 奈落に堕ちた人の血は未だに水気を帯びている。彼女は手甲についた死闘の痕を嬉し気に舐めた。 妖艶なその剣は求めるモノを麗しき彼女に与え、陰湿なその剣は過ぎたるモノを卑しい彼女に与えたのだろう。 闇夜に振るわれた剣から弧を描いて血液が飛び散る。赤い雨が点々と、塔の屋上に降り注いだ。 “魔剣、ディスペア”は高笑いを響かせた。 この日から。彼女の時代が再び始まることになる――――。 /第三節、「魔剣の成就」 1999年某日。心強き騎士が集うメーデン皇帝領にて、一輪の花が散った。 遺体は翌朝、助言者オルターが監視塔の真下で発見。死後数時間が経過しており、死因は転落による全身強打とされる。人目に入り難い位置はともかく、その様子から即死であったと伝えられた――胸部に穿たれた穴とはみ出した物については記録されていない。記録されてはいないが、後にオルターが遺した日誌にそのような表現が見受けられる。 彼女を慕う人はそれなりに増えつつあった。ただし、一般領民からすると不明瞭な存在であり、それは近日の内に大きはサプライズを持って披露される予定であった。 葬儀には騎士団の構成員がバラバラと参加し、柩に収まった彼女に別れを告げた。遺体は顔以外を美しい花の輪で覆われており、それは「せめてもの豪勢な手向けをしたい」という宮殿側の意図であると参列者は理解した。 報告は即座に本国へと渡り、これも突然な報に議会は驚きを隠さなかった。しかし、彼らの判断は今度こそ迅速であり、その上統一感があるものであった。 議員の大御所は言う「なに、ウィンガルがいるだろう。彼女で良い」。派閥の異なるご隠居は言う「仕方のないことだ。しかしこれ以上の空位は認めない、ウィンガルを推薦したまえ」。 打って変わってときたか。クランベルの頭脳は2つの派閥に分かれていたのだが、ここにきてどちらも大まかに意見を一致させたのである。尚、この期に及んでまだ反対する人もあったようだが、それもすぅっと手の平を上に回したらしい。それは主に沈黙の形となるが、反論無ければ充々。合意に等しい。 確かに煩い人らは黙っていた。 湧いたようにふと現れ、そして命尽きた彼女……。 領内でそれを惜しむ声や「どうしてその夜に屋上へと昇ったのか」と不審に思う声もあったが、日中訓練を行わない彼女の本性であると説明された。 彼女の日常を今一把握できていない人ならば、首を傾げながらも引き下がるだろう。何より、そこまで義理のある人はただの一人しかないのだから。 ただし、彼女の生活リズムを把握しきっている人間にとっては「ありえない」「どうして」となる。そこまでに彼女を想う人は一人であり、そこまでに彼女を知るのも唯一人。それこそは皇帝、ルトメイア13世に他ならない。 ルトメイア13世は報告を受けても事実を異国の言葉のように理解できず、彼女の亡骸、その表情を見ても蛋白であった。 何の前触れもない。誰が悪いのか、どこに責任があるのか。そういったことも無い。 ただ、唐突な事故によって「彼女」は死んだ。 普段通りにベッドに入り、睡眠によって数時間が消し飛んだ思いで目を覚ましてみれば、すでにもう、彼女はいなかった。処理ができずに、ルトメイアは半分口を開けて絶命している亡骸に向かって「どうやら良くない夢を見ているらしい」と見当外れの戯言を吐き、周囲を困惑させた。こんな時にも夢想家を貫くとは、いやはや、天晴れな浮世人であろう。 代々騎士団員が眠る地にて葬られる新たな柩を前にして、そこにある花に埋もれた遺体へと「君にしてはどうにも派手な装いだ」と忠言を投げかけた。些か以上に無礼な感想だが、二人の繋がりはそれを言える関係だと彼は信じていたのである。惜しむらくば、その繋がりは一方の欠如によって既に途切れていることであろうか。 ルトメイア13世の覚束無い現実感に対し。周囲はそこそこに注意を入れたのだが、中々彼の過ちを正すには至らなかった。そういった迷走は詰まるところ自己解決するしかなく、陶酔の薬を浴び続ける彼の深層は凝り固まった日常の破綻に直面して、ようやくの解釈へと至る。 通いつめた彼女の部屋。変わりなく足を運んだ彼は空っぽの室内に呆然とした。いやいや、物はある。ベッドも鏡台も、一流どころが揃っている。ただ、主がいない。それは彼にとっての伽藍堂である。 初日は以後に意味不明な葬儀へと参列したので、まだ誤魔化せた。だが、翌日になっていよいよ連続となると彼は「どうした?」と怯え始めた。 幼子のように宮殿を彷徨く皇帝に対して、すれ違う人は「如何いたしましたか、陛下」と尋ねる。皇帝は「彼女を見なかったか」と言って当惑する人を置いて徘徊を再開する。これを数回繰り返されることで宮殿内に「かの人がおかしい」という情報が伝わった。 宮殿を出て城郭にまで彼女を探しに行こうとする皇帝を見かね、助言者オルターは立ちはだかり、投げ捨てるように「彼女は地の底だ!」と叫んだ。 「地の底? 地下室にいるのか。ワインは苦手だと言っていたのに……」 「違う、昨日見ただろう。あの人は柩で眠っているのだよ」 「何、ベッドが不服だったのかな。それは申し訳ないことをした。すぐにディレクトゥをここに!」 「黙れ。いいか、キャーサル。永久の眠りだ。彼女はもう、ベッドを必要としない」 「オルター、君でも彼女を軽んじることは許さないぞ」 「弔いは済んだ。それとも外気に晒して、ベッドの上で朽ちゆく肉体を見たいのか?」 「―――朽ちることはない。彼女は美しい」 「死人がいつまでも鮮度を保つものか! アレは朽ちる!!」 「誰が死人だって? 冗談に付き合っている暇は……」 「黙れ! 部屋に引っ込んでいろ!!」 オルターの凄まじい剣幕に呼びつけられ、数人の騎士が物陰より馳せ参じた。騎士達は皇帝の身を確保すると、オルターの指差しを受けてこれに従う。 「冗談だろう、冗談なのだが――あれは、誰だ?」 記憶の解釈と現状に合わない辻褄に惑うルトメイアはロクに抵抗もせず、騎士達に連れられるままに自室へと送り返された。 オルターは立場を弁えない怒鳴り声を発した。それは正当に進まない問答に不快を覚え、頭の痛みで増幅した苛立ちを堪えきれなかったからであろう。 豪壮なベッドが鎮座する広間。それは皇帝の寝室である。 皇帝はベッドの端に腰掛けて虚空を見ていた。指を掛け合わせ、瞬きも少なく、なるべく生命活動を抑えているかのようなシン…とした在り方。個人的な祭りを終えてすっかり“落ち着いた”という、魂の休息した姿である。 扉が開いた。入ってきたのは一人の剣士で、その髪は炎のように雄々しく、背に担ぐ剣の色彩は混沌としていて禍々しい。 赤の剣士は無断に入室したのであって、これは皇帝が激怒しても仕方がない行いである。「立ち去れ」と命じられても不足であろう。 だが、この皇帝ルトメイア13世は実に穏やかなもので。物静かに、視線も送らず、蝋人形のように空虚な態度を保っている。 「陛下……私です、ウィンガルで御座います……」 赤の剣士はそう言うと、呆然とした皇帝の傍にまで歩み寄った。ふかふかとしたカーペットに沈む鋼鉄の金具が小さく擦れて、チャリ…チャリ…と音を鳴らす。皇帝は変わらずとても人間とは思えないほどに卑小な息遣いでどうにかそこに存在している。 赤の剣士は左右の手甲を静かに外し、ベッドの上に置いた。 「陛下。その心は今、誰を想っておりますか?」 皇帝は答えない。答えるような生物には思えない。 赤の剣士は屈んで鋼鉄のグリーブを外すと、これもベッドの上に放り投げた。 「陛下。その人間は幻です」 皇帝は背筋を一度震わせてから、静かに横へと首を回す。 赤の剣士は鉄靴を脱いでカーペットの上に揃えて並べた。 「陛下―――私は、勝利いたしました」 身を護る防具を取り払った剣士は、衣類というにはあまりに頼りないものを纏った姿で淑やかに言った。 「私は、その人間より――――“強い”」 噛み締めるような言葉。グッと末尾に力を込めて、剣士は右手を背に回す。 「陛下、私が一番強いのです。だから、彼女はもう、過去! 幻です、霧のように消えてしまったのです!」 華奢ながらも常人離れした筋繊維を蓄える身体。剣士の背から、一振りの禍々しい大剣が引き抜かれた。 皇帝は、赤の剣士に向けて問う「落下したのは彼女なのか?」。剣士は誇りを持って頷いた。 少し沈黙してから。皇帝は「葬儀は彼女のものなのか?」と聞いた。剣士はこれにも悠然たる笑みで頷いてみせる。 また少し黙してから。皇帝は「君は勝利したのか……」と独り言として呟いた。それにも剣士は健気に頷いて答える。 最後に。 「君が……………君が勝利したのは、彼女かね?」 と、聞いた。 剣士は涙を堪えて顔を紅潮させながら「はい、その通りです!」と答えた。 ――それは怒りでも憎しみでも嘆きでもない。 皇帝は目を文字通り丸くなるほどに開き、下顎を開いて小刻みに震えつつ、剣士の眼を直視した。 この時彼の感情は単に一つであり、それは「驚愕」である。全身が冷え渡るほどに血流が滞り、皇帝は驚愕したままに言葉を失った。 「私が彼女に勝ったのです。陛下、私です。私がここにいます!」 剣士の瞳からは涙が溢れている。辿り着いた――その想いが胸に去来している。 「ど、どど、ど、どう、し、ししし、ててって、どうし、って――」 暴れる下顎を制御できず、皇帝は酷く吃った様子である。歯の強く当たる音が紛れて、ほとんど言葉にはなっていない。人よりもそういう類の楽器に近しい。 「陛下の望む存在になりたいから――自身を向上しようと努めてまいりました」 剣士には達成感がある・・・そう、勝ったのだから。 これでもう、前途を遮る存在はいない。あとは想いを強くぶつけるだけ。以前はできなかったそれも、今なら出来る気がする。感情が爆発している。出来る、まるで生まれ変わったかのように――今なら出来る! 「つ、つと、め――望、むむ―――??」 「陛下は強い騎士を求めておられます。私は、その希望に答えたいと思い、そして遂に果たしたのです!」 「――つ、強――え? 希――望? え、え、え??」 「陛下、今なら見ていただけますか。今なら、最も強い私を……求めて、くださいますか?」 涙を流す剣士は、強く剣の柄を握り締め、獣のように愚直な眼球を赤く染めている。 皇帝は疑惑の表情を浮かべた。それは、剣士の言うことが何一つ自分の想いと合致していないからである。そして、その理不尽によって失われたことになる“彼女”の事がどうにも悔しくなった。 「な、なななんで、なんで、フィ、フィア、ラ、が――どぅ、どう、し―――」 「違ぁぁぁぁうッ、フィアラじゃないぃ!!」 剣士は突如として吼えた。彼女は片手で皇帝の顎を抑えると、強引に引き上げてベッドの上へと投げ飛ばす。皇帝の身はシーツを擦って宙を舞い、大型ベッドの中央へと落下した。 剣士の影は後を追って跳び上がり、馬乗りの体勢で皇帝に跨った。禍々しい大剣を振り上げ、女が訴える。 「陛下が望んだから! 弱い私のことを見てくれないから――勝つしかなかった!」 薄着の衣服を脱ぎ去り、全てを顕にして彼女は嘆く。 「私、たくさん悩みました。それでも届かなくて、辛くて、でも、いつかはきっと――そう思っていた、希望があった……なのにィ!!?」 喚く女に跨られた皇帝は狼狽え、反射的に抵抗を試みる。だが、王家の護身術云々以前に、その圧倒的な細身の腕力によって押さえられた。大剣の重みと怪力によって圧迫された肺から空気が溢れて呼吸を乱す。 残る腕で毟るように皇帝の衣類を剥ぐ女。敗れた眼球の血管から流れる赤い涙――彼女は今、悔しさによって涙を流している。 「どうすれば、どうすれば良かったの? どの道を行けば私は、彼女を――答えてくださいよぉっ!!!」 女は怒りの感情を想う人へと叩きつける。 狂気の光景――皇帝は恐怖の感情を抱いていた。緊急に至った彼の脳は状況から少しでも糸口を見出そうと集中し、何故現状があるのかを必死に理解しようとしている。 ――まったく優劣は逆だが。過去にも、怒りをぶつける女性がいた。 押さえ付けた彼女の恨み言は今でも皇帝の記憶に深い。 今、怒り狂う人は何を訴えているのか。何が彼女をここまで“不安にさせている”のか――キャーサルは妙に静寂となった意識の中で考えた。 『可哀想に、弱き人。彼女の答えはなんと皮肉なことだったか……』 響く言葉とともに、キャーサルの脳内に記憶が蘇った。 それは見覚えないものの、確かに自分の記録。自身からは決して見えはしない、誰かから見た自分の姿。 庭園を歩く我が身を案じて駆けつけたのは、職務ではなく――― 気高く強い騎士として隣にあったのは、弱さを隠すためで――― 思えば挙式の日。そうだ、その時彼女は怯えて不安そうに――― 『 ―― つまり、お前が彼女を殺したのだよ。愚かな王 ―― 』 「……すまない」 「――え?」 「すまなかった。君を寂しくしていたのは、私だった」 「―――――」 「私が、愚かだった。ウィンガル、これからは私の傍に―――」 「―――――陛下?」 女は静まっていた。彼女が跨る男は力ない表情で言葉を止めている。その様子は芯のない、萎れた草のようである。 『どうした、手に入ったぞ』 「……え?」 『お前の望みが手に入ったと言ったのだ、人間』 女は幻聴と会話をした。幻聴が言うには、女の望みが叶ったらしい。だが、真下で力ない男を見ると、どうにも女は実感がわかないようだ。 「………」 『仕方の無い奴だな――ほら』 幻聴がそう言うと、途端に女の身体は熱を帯び、沸々と情念を沸き上がらせた。 剣士は狂う。彼女は剣を片手に呼吸を荒げて、男の上で盛んに声をあげた。なすがままの男はこの日以降、最も近い存在として再び赤の剣士を傍らに置くようになる。 誰の耳にも単なる耳鳴りではあったが、事の運びに対する“魔剣”の高笑いは以後もリオナ=ウィンガルの脳内に響き続けた。 新たに騎士団長となるはずだった人を失った皇帝領。しかし、彼らはすぐに11年ぶりの団長を得ることになった。それは禍々しい大剣を担ぐ剣士であり、かつてのように足踏みすることなく、トントン拍子に就任へと至る。 待望の騎士団長……しかし、それも長期間というわけにはいかないものだった。 ――復活を遂げた魔剣の高笑いは遠く海を越えて、人伝いに「ある男」の耳に届くことになる。 ―メーデン十三代時記 END―メーデン十三代時記 ―追巻―
++++++++++++++++++++++++++++ ・TITLE:エリーナ メーデンの騎士団長としてリオナ=ウィンガルが君臨した後、宮殿内において奇妙な出来事が続いていた。それは領民、旅行者問わず、宮殿に足を踏み入れた人間が時折行方をくらませるというものである。厳密に「何処で」「どのように」と言った話はない。ただ、メーデン皇帝領に存在した女性がこの世からすっかり姿を消すのは事実であった。 行方不明者に共通することは「宮殿を訪れた」こと。より精細に言えば「宮殿へと向かったのを最後に目撃情報がない」ということである。公表される足跡としては「電車で領内を出た」などもあるが、それらは騎士団内からの証言に留まっている。 つまり、決して大きな声では言えずとも。領内において「宮殿」を疑う声が出ても仕方がない状況にあった。特に行方不明者に近い人からすれば尚更。 警察機構に在籍するラナッシュ=コス警部は本国クランベルから事件の真相を探っており、外国人観光客の不明をもっていよいよなりふり構わない捜査を余儀なくされた。しかし、男性禁制のメーデン皇帝領への捜査は非常に難解で、本来協力を仰ぐべき騎士団は腫れ物のように案件へと関与したがらない。それでもラナッシュは部下の女性捜査官を送り込むなど工夫をしていたのだが……記録上、彼の捜査は突然に打ち切られている。 どうやら内務省から直々に物言いがあったようで、以後は「介入部隊」と言われる特殊班が捜査を引き継いだ。これに対してラナッシュが異議を申し上げた記録もあるが、大臣直々の指令に抗えるものでもない。宮殿入りしているオルター=ノームも「彼らならば」と前向きな協力を惜しまなかったとされる。 ――だが、捜査はその後も滞り、事件が重なる毎に隠しきれない情報が増えていく。「領内にて行方不明者がある」という情報は公表されて然りだが、「宮殿内にて」という確証されていない情報が蔓延することは防ぎたい、とクランベル首脳部は考えていたらしい。 最もである。 騎士団の中でも事件を疑る人は存在した。ただし、多くは宮殿に足を踏み入れることもできないのでそれも憶測に留まる。 だが、城郭の守護者は気がついていた。宮殿への入退出記録――特に皇帝が語らいの相手として連れた女の記録が、定期的に書き換えられている事実に。 新たな友人を失って傷心していた城郭守護の「エリーナ」は、この時期に違和感を得ていた。それは長い付き合いがある友、リオナ=ウィンガルについて。彼女が騎士団長となったことは喜ばしいのだが、あまりにも上手く行き過ぎていることに疑問を持っていたのである。 あれほど皇帝との仲に苦戦していた人が、かの人の死を切っ掛けにして一転、これでもかと皇帝に取り入っている……リオナをよく知るエリーナだからこそ、それは不満で仕方がなかった。 律儀なエリーナは少々失望もしていた。どうも彼女は「友の死を利用して擦り寄るなんて!」とリオナの態度に汚さを見ていたらしい。空いた心の隙間を埋めることに卑怯も何も無いだろうが……エリーナは生真面目に「もっと哀悼の意を持て!」と憤っていた。しかし、彼女は目の前にしたリオナの有様を見てそれどころではない“驚異”を覚えることになる。 当初、エリーナは友人に対して諌めの言葉を送るつもりだったのだが――久方に対面した赤毛の友は目つきからして別人のようであった。エリーナはリオナを前にして無意識に刀の柄を握ったらしい。武人の心得高い彼女は友人に対して「護身」の必要性を感じたのである。 そして察した。友人が携える大剣。その禍々しい刃から血錆の香りがすることを。 「リオナ――その剣―――」 恐る恐る聞くエリーナ。それに対して、背を向けたリオナは「魔剣からは、逃げられない――」と答えた。 大剣の柄にある水晶の瞳がギョロリと動く。脳裏に響く耳鳴りに、エリーナは言葉を失った。 エリーナは友人の変貌を恐れ、同時に無力な自分を嘆いた。 彼女は城郭を離れて領内の関門へと部署を移す。それは友を恐れて距離を置いたことでもあるが、何より彼女は助けを求める必要があったのである。 そして彼女は伝手によってその助けを得ることになる。 彼女が部署を移して一月後。偽りの女性が二人、メーデン領内へと侵入した―――。 ++++++++++++++++++++++++++++ ・TITLE:ルトメイア メーデン騎士団、十三世配下三代団長リオナ=ウィンガルは公式として極度の衰弱による心不全とされた。衰弱の理由としては先天性の異常筋力症による心臓への負荷超過が原因ではないか、とされている。 しかし、同日には宮殿の一室が消失した事件もあり、時間帯の一致から何らかの関連性があると疑われた。 更に、突然死の割に不可解な点も多い。旧団長の死亡時刻はAM1時頃とされるが、その死亡場所は野外の大バルコニーであった。この時点で何故その時刻にその場にいたのか、という疑問がある。また、旧団長の死を看取ったのは同じ騎士団員であるエリーナ=ササクラなのだが、これもその場に存在するのは不可思議。一体、二人はその時何をしていたのだろう? エリーナの刀が抜身であった理由は何処にあるのか? そして状況整理の上で判明したことだが。エリーナの弟子である「エンリケ」という騎士の証言によると、どうやら件の時刻直前にエリーナはエンリケと立ち会ったらしく、旧団長の奇声も聞いたらしい。そもそもオールドガードでもないエリーナがその時刻に庭園を彷徨くことから奇妙であり、あまりに関連強い状況から彼女の身柄は一時城郭の牢獄へと移された。 率直に言って、旧団長の死及び宮殿客室放火に関わったものとして容疑が掛けられたのである。 後のことを言えば、放火については皇帝の妹であるラコッタ=フレイデル曰く「私の不始末」であり、旧団長の死に関しても毒物等、殺害の痕跡は発見されなかった。しかし、エリーナは「私に責任がある」と終始一貫して自白しており、少なくとも無許可にオールドガートと立ち会った罪は拭われなかった。 領内女性の行方不明事件に関しては、それが「殺人事件」であったことが解っている。これは後に波紋を呼んだ「オルターの手記」によって判明したもので、彼が遺体の処理に深く関与していたことも明記されていた。手記の通りに遺体が発見されたため、その信憑性は高いものと思われている……が。彼は相当に参っていたらしく、手記内には正気とは思えない「妄想」のような文も多い。 今では「無かった事」とされている手記の文面には、旧皇帝に対する謝罪の念が強く表れている。 行方不明事件に宮殿放火、そして団長の不審死と重なった当時――。エリーナやオルター、ラコッタ等、関連深いと思われる人々はそれぞれが何らかの“懺悔”を残していた。 そして、特に強くそれらを悔いていたのは他でもない、「皇帝ルトメイア13世」である。 皇帝は一切の事情を知らなかった。何も把握できていなかったのである。 彼からすると、ある日突然として妻でもある団長を失い、友を失ったという状況――その心労たるや凄まじいものだったようで、見る見る内に彼は衰えた。魔法が解けたかのように思い出された最愛の人の死と、その自覚。それは憔悴した皇帝を急速に老化させたらしい。 そして悪魔が訪れる。それは皇帝にとって見覚えのある人で、紫煙を燻らせる彼は“地声”にて事の次第を伝えた。悪魔の要求は唯一つで、護られなければ真相を世に解き放つと恫喝してきた。 皇帝は信じたくない思いから悪魔の発言を否定していたのだが、翌日にオルターの手記を知ったことで信じざるを得なくなった。しかし、どの道同じだったのかもしれない……少なくとも、決闘における罪はある。 真実を知った皇帝は牢獄の人に対して「領内からの永久追放」を言い渡した。彼女は粛々とそれを受け入れ、皇帝領を去ったと聞く。その後の行方は知れない。 誰よりも後悔し、尚も皇帝の立場から国家を重んじる必要があったルトメイア13世。 彼は自分の愚かさを認め、一連の不祥事を抱え込む生贄として皇帝領を去ることを決めた。 退位の発布は即座に行われ、ルトメイア13世は「在位中に二人の団長と死別した皇帝」、という哀れで不名誉な汚名と共に役目を終えたのである。 代わってメーデン入りを果たしたのは前評判の通り、サルベウス皇太子であった。 クランベルに伝わる伝説。“細剣の欠片”の伝説は長い歴史の中で幾度も偽りの泊付けに用いられてきた―――が、「ルトメイア14世」は違う。 メーデン皇帝領は新皇帝よって新たな時代を迎え、そしてクランベル――いや、西洋全体を巻き込んだ時代の動乱へと突入することになる。 |― メーデン騎士物語 END ―|