メーデン十三代時記 巻3

・第零章/狂騎士とお喋りな魔剣 /第一節、「長閑な村の一件」  騎士団の先を語る前に触れておかなければならないことがある。  C.1782年。当時ガリ家が支配していたクランベルにおいて、一際長閑な村があった。  ピラド=ヌボーヌ公爵家が治める地方は険しい山岳と僅かな草原、そして鬱蒼とした森林を含んでいる。今では「パンジーのある沼(Pensee Bruc)」と呼ばれる、沼を囲う森林地帯の一角。そこに形成された長閑な村は人口200人あるかないかの小さなものであった。  現在では復興のシンボルとして映え渡るパンジーも、当時はまだ産み出されてもいない未来の花弁。つまりはその頃、本当に取り柄の少ない、しかし平穏で静かな村であった。  そこの開けた草地に乳牛を飼って生計を立てていた「レイヤード家」が存在した。村の興りから関わった一家として比較的裕福だったようで、使用人も幾らか抱えていたらしい。可愛らしい娘二人に恵まれていたが、どうにも当主は息子を望んでいたようだ。「今度こそは」と意気込んだ三度目の挑戦によって、遂に男子を授かることになった。その子は「アシェル」と名付けられ、当主の期待に沿って逞しい青年へと成長していく。  姉二人が「疲れる」と嫌がった牛の乳搾りにも精力的に励み、使用人達にも友人として同じ目線で関わるような、実に爽やかで当たりの良い男。アシェルの評判は村でもとびっきりなものであった。  アシェルは美男子というわけではない。しかし彫りは深く、鷲鼻がシャルマンだと男女問わずに慕われた。その上体格が良く、村の誰よりも(実のところ、若い熊ならば相手にならないくらいに)大層な力を持っており、それもあって頼りにされていたという。  アシェルがそうであるように。村全体を見ても人々は互いに親切で、旅人にも大らかな気質だったらしい。辺境の村となれば閉鎖的で内々のしきたりに凝り固まる場合が多く見られるが、この村に至ってはそんなことはない。だからこそ平穏であった。  その村にある日、4人の若者が訪れた。いずれも身なりはあまり良くなく、「落ち延びた」という表現がしっくりするようなやつれた形相をしていた。  訳があるのは明白であり、「厄介だ」と門前払いする村もあるだろう。それは決して防衛の観点から見て間違いではなく、自然である。ただ、この気の良い村人達は野垂れ死にそうな若者を放っておけず、迎え入れて介抱してやった。レイヤード家もこれに積極的で、敷地の一部にある小屋を善意に貸与えた程である。ここまで親切にしたのには理由があり、レイヤードの当主が4人の瞳を見て、彼らに「何らかの決意と勇気」を見出したからとされている。  4人の若者はしばらく休養すると日に日に元気を取り戻し、十分に動けるようになってからはレイヤードの牧畜などを手伝うようになった。村人との交流も盛んで、一月も経つとすっかり馴染んだらしい。  4人の内訳は男3人に女1人だったのだが、これの中心人物は紅一点の女性である「ラズリーン」という人。他の3人に比べて何歳か上で、それはアシェルからしても同じことであった。  交流を深める内に、どうやら彼らはクランベルの都会から来たということ、クランベルの主要な地では圧政に耐え兼ねた不満が噴出しているということ、そして暴動に対する残酷な制裁が加えられていることを村人は知らされる。  何せ辺境もいいところで。他の関わりある村すら小ぶりな事から、村人は都会の情勢などまったく感知していなかった。全ての情報が新鮮であり、しかしなんとも対岸の火事というべきか……自分達の国という意識が低かった。  村人の多くは「酷い話だ」と世の政を同情の心で貶す。  だが、アシェルは同じく「酷い話だ」と答えつつも、それの源を身にかかる火の粉への怒りとし、その一大事に気がつかずにいた自分を恥じた。何とも勇ましい感情移入具合である。その理由は彼が聡明ということもあろうが、何よりラズリーンという魅力ある人に惚れ込んでいたからだろう。  また、ラズリーンからしても精悍なるアシェルは頼りがいがあり、これまで周囲に慕われる側であった彼女にとって求めていた存在だったのかもしれない。二人の仲は急速に縮まっていった。……それを良く思わない人もあったのだが。  ――来る翌年。若者4人が長閑な村を訪れてから3ヶ月が経過したある日のこと。  周囲を森林に囲われ、遥かに山岳を望む村。空は曇天で、いつ一雨来てもおかしくない様相。  その日は村の祝祭日であり、昼間からでも酒を飲み、歌い、寝っ転がるような一日である。狩りの神に感謝する日だからこそ、祭りの声を雲に遮っては欲しくないものだが……こればかりはどうにもならない。  レイヤード家の小屋では4人の若者が酒を飲んでいた。常人の理解を超える怪力を持つアシェルだが、酒については弱い部類に入る。それでも彼はラズリーンに良いところを見せようと無茶をした。ワインの一瓶に挑んだものの、半ばも飲めずに撃沈。小屋の藁の上に大の字で倒れて「アハハ」と笑い上戸に声をあげている。それを横目にするラズリーンは若干顔を赤らめただけで、涼しい流し目を彼に送っていた。他の2人の若者もすっかり良い調子で飲み交わし、リオールの流行歌を奏でている。  ラズリーンは藁の上で無防備に横たわるアシェルの半身を少し上げて、そっと彼の頭部を自分の腿の上に乗せた。  彼女はアシェルに恋心を抱いていた。しかし、落ちぶれた戦士の勘はそれ以上に見抜いていたのかもしれない。その逞しい青年が、後に何か事を成すのではないか――美術館に眠る宝剣の欠片を握らせたら、何かが起きるのではないだろうか――そんな、強者に対する尊敬が彼女の心に飛来していたのだろう。  だからこそ、ラズリーンは真っ先にアシェルの身を護った。泥酔してとても目を覚まさない彼を、自分の身よりも優先したのである。  ――小屋の外が何やら騒がしい。眠るアシェルは無論として、ほろ酔いの若者2人も気がつかない。だが、ラズリーンは嗅ぎ慣れた火薬の匂いと、剣のかき鳴らす鋭利な金属音を感じ取っていた。 「おい、皆いるか!? すぐに逃げろ!」  小屋の入口を配慮なく開き、慌ただしく面子を確認する村人。彼は仕切りに「逃げろ」「危ない」を繰り返している。 「どうした、何があった!?」  ラズリーンも立ち上がろうとしたが、その前に膝で寝ているアシェルを下ろす必要があった。  「うっ」と、村人が顔を歪めた。その胸元から突き出ている訓練された刃が、心臓を一つ破壊したのである。「ここか、レジスタンス!!」と声を張り上げたのはクランベル正規軍の制服を纏った人。  軍人が村人の遺骸を投げ捨てて顕となる前に。ラズリーンは咄嗟の判断でアシェルを藁の中へと押し込んだ。 「無駄に抵抗するなよ。そうすりゃ少しは長生きできる」  銃剣を構えた軍人は小屋へと入り込み、その切っ先をラズリーンの喉元に向ける。それに続いてズラズラと、8人ばかしが小屋へと雪崩込んで他の若者2人を取り押さえた。若者2人にとっては、驚いて酔いが覚めたのは不運としか言い様がない。いっそ、意識が朦朧としたままの方が幸せだっただろう。 「人数は?」 「3人! 全てです!」 「よし、連れ出せ」  一際偉い男の号令と共に小屋から引きずり出されるラズリーンと2人の若者。兵士によって連れ出された彼らが目と耳にしたのは、至る所から聞こえる悲鳴と、立ち上る煙であった。 「そいつらを村の中央へと運べ。剥くのはそれからだ」 「村は如何いたしましょう?」 「ン――何、村だと? ここに村などあったか? 私には木々の柔らかな緑と、小鳥の囀りしか聞こえん。反逆者を匿う不快な村など……断じて、無い!!」 「ウィッ! そのように!」  軍人の一括を聞いた兵士は笛を鳴らし、他の兵士へと指示を伝えた。  村の外れにある小屋は放棄され、藁の下にある微かな寝息のみが残されている――。  200余名の悲鳴が木霊し、轟々と盛んな炎が木造の建造物を灰に変えていく。  灰になるのは建物だけではない。そこに住む人も、使い込まれた家具も、思い入れのある小物や装飾も――全てが焼かれて消えてしまう。  村を焼く炎はしばらく荒れ狂い、結果として確かに、村は無くなった。  何時間が過ぎた頃であろうか。藁の中で眠っていたアシェルは眼を覚まして起き上がり、周囲を見渡した。誰もいない。小屋の中には自分独りである。  焦げ臭さと生臭さに気がついた彼は、開きっぱなしの扉から見える景色だけでは理解できなかった。長方形のそれが絵画か何かに思えたのである。それほど、彼にとっては現実味のない景色であった。  小屋を出たアシェルの視界。そこには、焼くものが少なくなり沈静化しつつある炎と、見慣れない廃墟の光景が広がっていた。舞い飛ぶ灰が口に入って、咳き込む。鼻を突く刺激臭で涙を浮かべながらも、彼は整理のつかない頭を抱えてとにかく自分の家へと走った。  家は無かった。焦げた廃墟があるだけだった。  石造りの立派な壁面は焼け焦げているものの、原型は保っている。しかし未だ信じ難いアシェルは自宅と思われるそこに足を踏み入れた。いくらも探さずに見つけたのは、刺殺され、尚も焼かれた姉達の姿である。  呆然とするアシェル。そこに、微かな声が聞こえてきた。声の方向を見ると――そこには、焼け爛れて指も動かせない状態の人が倒れている。  父だった。レイヤード家当主であり、優しく、時に厳しかった父である。焼け爛れた父親は灰で曇った右目を我が子に向けていた。アシェルは微かに口を動かしている父に近寄ったのだが、どう触れていいかも解からず、何を言えばいいかも解らずに、「父さん」と一言声を出すのが精一杯であった。  アシェルの父は懸命に口を動かしている。焦げて固まった唇が僅かに上下しているのを見て、アシェルは耳を寄せて傾聴した。  父親として、別れの際に話したいことが沢山あったはずだ。思い出を語りたいという事もあったかもしれない。だが、アシェルの父は健全な様子の息子を見て予想をたて、自分の欲を殺し、今伝えるべき“事の成り行き”を話した。「レジスタンスであるラズリーン達を、軍人が殺しに来た」という旨を伝え、最後に我が子の幸運を祈りながら……レイヤード家の当主はその生涯を終えたのである。  この時点におけるアシェルの嘆きはどれほどであったのかは解らない。しかし、彼にはまだ確認せねばならないことがあった。  直視したくない惨状の村を歩き、もう区別もつかない友人たちの焦げた姿を見る。道端に落ちたネックレスは略奪の痕跡であろう。途中、呻く人を見つけたのだがどうすることもできない。その人はそれから1分後、永久の沈黙に至っていた。  アシェルは村の中央――村人達の憩いの場であり、今日も夜には盛大な宴の会場となるはずであった、馴染みの深い広場に足を踏み入れる。  ――カラスが何羽も留まっていた。彼らの鳴き声が途方もなく耳障りだ。  逆さに吊るされた友人達をついばむそれらは――何よりも目障りなものに思えた。  無数の刺し傷を持つ吊るされた3体を前にして。アシェルは表情を無にし、微動だにしなかった。高性能な人間の脳でも感情の演算には限界がある。  曇天が堪え切れなくなったのだろう。雨粒がポツポツと、暗い空から落ちてくる。  やがてザンザン降りとなった雨は今更にも廃墟の消化を行い、火の熱で乾いた亡骸を潤していく。湿ったことで腐敗は増長され、早くに崩れて跡形もなくなるだろう。 「――――――――――!!!!!!!!???????」  アシェルは咆哮を張り上げた。しかしそれは多勢に無勢。数の多い雨に負けて、ハッキリと響かない――。 /第二節、「魔剣」  三日三晩、雨は止まなかった。三日三晩、アシェルの嘆きは続いた。叫び続けたアシェルの身は見る影もなく汚れ、さながらはぐれて飢えた狼を連想させる。  アシェルはフラフラとその場を立ち去り、村を離れて周囲の森へと向かった。その心境に渦巻く感情は人間のものとは思えず、無表情な汚れた顔は破棄された人形のようである。鳴り響く耳鳴りは、雨音の残像であろう。  森には沼がある。当時は何の色気も無い沼だが、それには良い部分もあった。だからこそ、今は無い村が出来上がったと言って良い。昔――つい三日前まで存在した村は、沼地に巣食う沼鰻を目当てに寄ってきた人々の馴れ合いから始まった。各人の役割を持ち、資材を運び入れて森の近くに家を建てたことが村の興り。レイヤード家はこの時多くの資材を用意したので後にまで感謝されたと聞く。  沼の辺に立つアシェルは亡霊のようである。雨天を越えた空は明るく、日差しがキラキラと沼の面を照らす。単なるスミレの一輪が風に戦いでいる。柔らかな緑に囲われた景色には、小鳥の鳴き声だけが無邪気に目立っていた。  アシェルが沼地に足を踏み入れると、膝までドッと沈んだ。常人ならこれまで。ここで足を動かせず、徐々に沈んで死ぬることが出来ただろう。だが、アシェルの歩みはその程度で止まらず、彼は沼地の先へと足を踏み出すことができた。  どこかで力尽き、奈落の泥土に埋もれることを望んだか。しかしアシェルは歩けど歩けど沈めず、不思議なくらい奥地へと進めていく。耳鳴りが終わらない。精神的なショックに過酷な三日間が重なり、聴覚が狂ったのだろう。  沼地を進むアシェルは屈強そのものであったが、限界はある。流石に腰まで埋もれると彼は前に進めなくなり、“諦め”がついた。膝の力を抜いて静かに沈む。精も根も尽きた彼は望むように手を伸ばし、沼の中に片手を押し込んだ。 『憎らしいな、ここで終わる虚弱な人よ――』  耳鳴りは――いつしか、“語りかけて”いた。 「……そうでもないさ。全てを失ったからね。気力も、感情も……」  アシェルは耳鳴りに答えた。もはや幻聴も何も区別がないのであろう。 『嘘をつけ、誇り亡き人よ。お前の心はこんなにも醜い渦に満ちている』 「自己嫌悪さ。間抜けな俺がお笑いなんだ」 『自身を間抜けと呼ぶ者がその身を試すものか。お前はやはり虚言の人だ』 「――決め付けて。誰だよ、あんた」  幻聴から小馬鹿にされたアシェルは少し頭に来たらしい。伸ばした右手に力が入り、それは泥土の中で硬い何かを掴んで握り締めた。 『知りたいか? ならば起き上がるがよい、謎多き人よ。私はそこにいる』 「無茶苦茶だな。俺はこの通り、身を起こす力も残っちゃいないよ」 『滑稽とはこのことか、無知なる人よ。程度を図るのは愚かなお前ではない――私だ』 「何を!? 誰かは知らないが生意気だな。勝手に決めてくれるな!」 『粋がるな、ここで果てる弱者よ。君の最後はみすぼらしいのがお似合いだ』 「舐めてくれて! 見ていろ!」  アシェルの目は「カッ」と開き、背筋を用いて仰け反るように半身を起こした。更に左の手で沼地を叩くことで沼は裂け、その裂け目に足を掛けてのそりと下肢を引き抜く。ヘソの上まで沈んでいた彼は難なく跳び上がり、3mは楽に越えて沼地を脱した。辺の岩へと降り立った彼は熱り、「これでも弱者か!!」と憤慨ししてみせる。――そして、叫んだ後にハッと我に返り、驚いたように自分の四肢を眺めた。  確かにアシェルは常人を超えた筋力の持ち主だが、腰まで浸かった沼から“3mも跳び上がって岩の上に飛び乗る”など、あまりに度が過ぎる。彼自身、それを思って呆けているのである。 『やはりか、偽りの人よ。お前のなんと荒々しいこと。それでよく精も根も無いなどほざいたものよ』  耳鳴りは止まらない。しかし、それはもう耳鳴りというより明瞭な「言葉」である。 「これは……?」  岩に立つアシェルにとっては見知らぬことである。突如として限界を超えた力も、そして、右手に握る“剣”のことも――。  沼地から引き抜かれた物は単に剣と表するだけでは足りない。柄は太く、刃は綺麗な平行を成して切っ先の二等辺三角形に帰結している。そして通常の物と比べるもなく分厚い。  “大剣”と読んでようやく事足りるであろうそれは、黄銅鉱[キャルコパイライト]の如く碧を基調として金/紫/緑の色合いを混ぜ込んだユニークな色。見ると、どこか混沌とした想いすら浮かばせる不安定な色彩である。 『私は聖剣、“ディスペア”。沼に封じられた悲しき剣であり、お前の望みを叶える存在だ』 「ディスペア――俺の、望み??」 『そう。今更隠すなよ、アシェル=レイヤード……』 「お、俺の名を!?」 『――このディスペアの不遇は動けぬこと。長き眠りで私は衰弱していた。沼に沈んだ私を拾ってくれてありがとうよ、強き人。ところで、助けられた私に恩返しをさせてくれまいか? 何、お前はだた私を動かすだけでよい』 「待て待て、何を言っている。君は俺に助けられた? 恩返しだと? 君が俺に何をしてくれる?? いや、その前に。俺の望みなど―――」 『だからくどい、偽るな。お前はこれほどまでに“憎んでいる”ではないか。そうだろう、なぁ、生まれ育った村を破壊され……愛する人を殺された、悲しきアシェルよ。これを恨めど“復讐”に至らず、沼に埋もれて尽きるがお前の本懐か? ならば私の力は必要ないな』  自らをディスペアと名乗る不思議な剣は、鍔である水晶体の中に人のような眼を見開いた。すると、途端にアシェルの視界は現実のものではなくなり、確認した惨劇の景色が繰り返し何度も高速で展開されるものとなった。 「う、うぉぉ!?」 『おお、そうだろう可哀想なアシェル。憎いなぁ、憎いなぁ……それは正常な考えだよ、人間。そして絶望することはない。今のお前は元よりの力に加えて、私の魔力が備わっている』 「……!!」 『私の力を受け入れよ、それだけで“契約”だ。さすれば、いよいよお前の力は増幅する。――成せるぞ、成せるぞ。さぁ、怨敵を討ち果たそうではないか、勇猛なるアシェルよ!!』 「ォォっ……おぁあああああッ!!!」  アシェルは咆吼した。吠え渡る声は沼地を荒ぶらせ、足場の岩に亀裂を生み、柔らかな木々の葉を容赦なく吹き飛ばす。近くにいた小動物は、それだけで命を落とした。 『ハハっ、素晴らしきは人の思い遣りよ……さぁさぁ、依存し合おう! 安心しろ、汚れはこのディスペアが全て請け負ってやるよ! キャッハハハハっ!!』  剥き出された感情を持つアシェルは猛り、全てを奪い去った軍人――そして彼女が語った現政府への怒りを爆発させた。  狂人となったアシェルの肉体は異常筋力である事実を超え、人の領域から逸脱したものとなる。今の彼は刃で突き刺されても、銃弾で肉を吹き飛ばされても、数秒で元の姿に戻ることができるであろう。「ディスペア」をその手に握る限り……。  全てを見た上で導いたディスペアにとってのアシェルは長年望んだ宿主の完成体であり、人の命を啜る為に重要な手駒である。  ――“魔剣、ディスペア”。出自の知れないそれが持つ本来恐ろしい所は「人の肉体を強くする」ことではない。何よりも残虐で効率的な彼女の魔力は……沼地の中から村を眺め、青年の恋心を呼び起こし、女の本能を感情にすり替え、羨む若者を裏切りへと走らせる――それこそ人の心を弄ぶ“魔性”である。  狂戦士アシェルは確かに屈強であった。彼は槍で貫かれても何食わぬ顔で反撃し、砲丸を片手で掴んで投げ返してみせた。封じられた2tの門を呆気なく個体で突破した際には城の誰もが絶望して神に祈ったことだろう。  しかし、何よりも彼が狂戦士たる所以。それはアシェルが襲来する前に、不吉の予兆が如く辺り一帯の人々が耳鳴りを覚えたことに直結する。  堅牢な城内では仲違いが生じ、アシェルが迫ると勝手に殺し合いさえ起きた。素質ある者は進んで歩み出て、無抵抗にアシェルの持つ大剣へと首を捧げたらしい。  ――――欲望、願望は容易く伝播する。人の心は温い液体。水面にイシを投じて波紋を起こすように、人の心を波立たせるには感情の巨魁を用意すれば良い。後はただ、それを投げるだけで済む――――  魔剣は血を啜りながら、上機嫌にそう言った。 /第三節、「記録にない顛末」  C.1800年間近の世紀末。絶対的に思えたガリ家の威光は風前の灯となっていた。同等に張り合えるほどに成長した革命軍は勢いつき、更に数年を経て遂にガリ家の圧政を打倒する。  「狂騎士アシェル」は戦場において表立つことはなかったが、それは彼が半ば獣のようになってしまってまともな人付き合いができなかったからである。唯一の友と言えたのは愛馬ジャッケスくらいであり、言葉を操る魔剣が厄介者だと言うことはとうの昔に気がついていた。それでもアシェルが魔剣を手放さなかったのは悔しくもその力を得る為であり、薬に狂うように力に狂っていたからに違いない。だが、その狂気もまた、魔剣による補強が施されていた。  魔剣ディスペアが力を与えるなら、彼女にとっての見返りは「人の命」であり、これによって彼女は力を増し、何より存在を保てる。問題なのは上限無く溜め込めることであり、彼女の食欲が満ことは永劫に無い。  革命軍の旗色が強くなり、いよいよガリ家が追い詰められた頃。以前は探すまでもなかったガリ家に属する人ははっきりと少なくなった。ほぼ詰めの状況に入ったことで、クランベルの国内にはガリ家寄りの人間を炙り出す工夫が始まる。  だが、アシェルにとっての復讐はすでに終わっていたのだろう。かつては悪鬼の群れに立ち向かう心持ちであったが、今は散り散りに逃げる小ネズミを穴ぐらから引きずり出して駆除するような気分……いや、それも次第に変化していった。引きずり出して切り捨てているのは紛れも無く「人間」であり、怯えた眼を見るたびにアシェルの胸中で疑問が重なった。  迷うたびにディスペアは『復讐は果たされていない』『自分は満たされたから止めるのか? 私は満ちていないというのに』などとアシェルの心を揺さぶった。振り上げた剣を虚空に下げようとするアシェルに訴え、意識をあやふやにして勝手に振り下ろさせる。  やがてアシェルは「理解して」、人通りの無い廃屋に篭った。獲物に遭遇してしまえば決して彼女に抗えないからである。決意をしたからこそ、彼は孤独に廃屋へと篭もり、食事もせずに己の衰弱を待っていた。それでも供給される魔力のせいで中々力が衰えない。  篭るアシェルに向けてディスペアが四六時中、耳鳴りを響かせる。 『契約を破るのか――駄目だ、我が契約は破られぬ』  機械的に反復される決まり文句が何日も何日も続く。アシェルは沈黙してただ耐えていた。  ――そして、いつしか限界を迎えて反論の時を迎える。 「いいや、終わりだ。俺はもう、これ以上人は斬らない!」 『終わらぬ。私は満ちていない』 「煩い! 解るだろう、お前はもう知っているはずだ! “俺が奴らと同じことをしている”と知っていて、それでもお前は続けろと言うのだろう!」 『……可哀想なアシェルよ、あなたは勘違いをしている。君は君の故郷を襲った軍人とは違う』 「同じだろう!!」 『違う。君には理由があるのだから。やられたことを返して何が悪い?』 「――魔性の剣よ、もう建前は必要ないさ。ところで、そろそろ俺の代わりとなる者の目星は付いたかい?」 『………名を呼んではくれぬのか』 「誤魔化すな。こうして徹底的にすることで俺と同じく強靭で、憎悪に満ちた人を作るつもりなのだろう?」 『おお、待ちたまえ、先走る人よ。君は焦れている。本心では滾る怒りを次の獲物にぶつけたいのだろう。さぁさ、外に出て。無理は良くないよ』 「ハッハ、いいね。お言葉に甘えさせてもらうよ。もう、これ以上の無理は……辞めだっ――!!」  そう言い放ち、アシェルは肌身離さず持ち続けた魔剣を放り投げた。すると、途端にアシェルの体から力が抜けて、彼は座位を保つことすらできなくなった。 『おやおや、乱暴だね。しかし哀れなアシェルよ。君は既に―――』 「知っているさ、これでも俺の身体だ」 『……何?』  アシェルは理解していた。自分の身は魔剣の力によって保たれており、本来は既に息絶えていることを。手放せなかったのはこの事実に気づいて死を恐れたからでもあったのだが……彼は操られて生きる様が「命ある」と呼べない事を受け入れたのである。既に死しているというのに、今更仮初に縋って好きに使われる姿は、これ以上なく恥だと感じたのだろう。 『――アシェル、まだ間に合う。私を手に取れ』 「嫌だね」 『アシェルッ、なんて愚かな人!』 「アハハ……そうさ、愚か者さ。悪いかい?」 『言っただろう。思い遣りだよ……助け合いさ、人間! 私は動けない、君は生きていけない――ならば支えあおう! 依存し合って不遇を補おう!』 「もう、そこまで歩く力も無いさ。……目が霞んできた。お前の姿も見えないよ、魔性の剣」 『情けない人よ、私は近くにあるというのに!』 「見えない。見えないよ――もう、何も……ラズー…………」 『ここだ、ディスペアはここに居る! 近いぞ、這い蹲れ! 我が友!!』 「――――」 『ああ友よ、助けておくれ。私は動けないんだ、頼むよ―――おい! 動け!』 「――――」 『!! おお……なんという――――なんという役たたずよ、人間!!』  ――人知れず、誰からも忘れられた廃屋の中。  後世に伝説として名を残す「アシェル=レイヤード」は小煩い魔剣以外に知られることなく、ひっそりと命を手放した。  今ではその存在に真偽を問う声も多い「狂騎士アシェル」。だが、彼は確かに存在し、激動の時代を生きた。人里離れた廃屋の中。白骨と化した空っぽのアシェルは今も孤独に眠り続けている。  ただし、一度も彼の骸を目撃していないかといえば――否。1人だけ、彼の骸を跨いだ男がいた。  魔剣は……報いだろうか。革命が完全に成り、クランベルではルトメイア王家の名誉がすっかり回復された頃。アシェルの落命から30年以上も経過したころに、ようやく拾われることになる。  拾ったのは個性が強い白コートを羽織った男らしいのだが、詳細は不明。現在解っていることはその男が魔剣を拾い、そして美術館へと寄贈したという事実のみである。アシェルの活躍によってその特異な形状は知られていたため、ディスペアは「一応本物」として美術館に収められた。  すっかり腹を空かした彼女は沈黙して、自らを扱える強靭な肉体の人を待つことになる。  彼女の相方足る条件はもう1つ。激しい憎悪――嫉妬でも良い。ともかく、これも常人を越えた“煮えたぎる感情”を持つ人であること。  これら2つの条件を満たす人は中々現れず、彼女は長く薄暗い美術館の保管室で眠ることとなった。  ――これが「魔剣、ディスペア」の実態であり、それを用いた伝説の戦士「アシェル」に関する事実である。 ・第十章/庭園での出来事 /第一節、「女の横顔」  読書の負荷で目が痛くなったのもあるだろう。窓から射し込む日差しがあまりにも健康的だったからかもしれない。ともかく、引きこもりがちだった“皇帝、ルトメイア13世”がふと、「散歩でもするか」と思い立ったのはまったく無作為なことであった。  彼は自室を出るとホワイトカーペットの廊下を行き、宮殿の階段を下って、給仕の者や見知ったディレクトゥ(*宮殿技師)との挨拶を交わしながら庭園へと出でた。  途中、妹のラコッタが「お供いたします」などと声を掛けてきたのだが……「少し外の空気を吸いたいだから」と言って丁重にお断りしたらしい。どうにも彼は昔からこの腹違いの妹が苦手なのである。頼りにはしているものの、面倒だとも思っていた。  久方の直射日光に対し、「眩しいな……」と零す13世。同時に、「外の明度を高く感じるのは自分の不健康さを表しているのだろう」と思い、身体の衰えを感じて気分を暗くしたらしい。  人の精神は生き甲斐を無くすと連鎖的にひび割れ、脆弱性を増してしまう。特に男は伴侶を失った途端に衰弱するケースが多く、脆さが目立つ。老人ホームの入居者男女比を見れば、女性の精神的強さを実感するだろう。「ミコラ」という生き甲斐を失った13世は公務をこなしつつも確実に弱っていた。隠してはいるものの、鋭い感性を持つ人ならばそれを察してしまうだろう。母性が強い人ならば尚のことだ。  立場と衰弱した心身から見て。今の13世はどう考えても「護られる人」なのだが、それでは彼の心に空いた穴は埋まらない。  ――白城、カントラックが誇る宮殿庭園。垣根で形成された回廊をルトメイア13世は彷徨っていた。  言わば彼の庭であるのだから、回廊の道順を知らぬ訳ではない。ただ、うろうろと漂うように歩くことで、足りない何かを探していることを訴えていたのかもしれない。誰にと言えば、「キャーサル」という己自身であろう。  ―――断崖に当たって弾ける波の音。  ―――ゆったりと流れる潮風の香り。  ―――日差しを照り返す、白肌の城。  庭園は静かで、これ以上なく平和なものである。だが、美しい庭園をもってしても彼の心は癒せない。彷徨う13世は時折立ち止まり、溜息を落としながら次第に庭園の際……“断崖の縁”へと向かった。  トボトボとした、それでいて気品ある歩み。そこに、「ガシャガシャ」と金属質な音が介入してきた。  13世は音の正体をすぐに察したようで、歩みを止めて振り返る。姿を現した騎士に向かい、13世は穏やかに挨拶をした。それはおっとりとした物言いだったのだが、本心では「ゆっくり散歩がしたかったのに……」と軽く落胆していた。何せ数分前に妹から絡まれていたので、二度目の足止めとなったことに嫌気があったのだろう。  金属質な足音をかき鳴らして現れたのはオールドガードの一人、「リオナ=ウィンガル」である。彼女は騎士として、主が一人で庭を彷徨く事に「危険だ」と忠言を申しに来たようだ。  13世としては騎士団に絶対の信頼を置いているし、半ば自棄な精神状態だったので余計なお世話にも聞こえた。ナイーブになっていたことで、やや過敏だったのかもしれない。「一人で散歩したかったのにな~、ちょっと疲れてっからアロマ効果で癒されたいのにな~(*意訳)」という旨の発言をしたのは、何もインドアな彼の本性が露骨になったからだけではないだろう。  ところが。リオナという騎士は優秀な人で……。  13世の意図を汲み取り、最小限の言葉のみを残してそそくさとその場を立ち去ろうとした。あっさり踵を返したリオナだが。振り返りざま、その横顔が寂しそうな表情であったことに13世は感付いた。  決闘で騎士仲間を打倒し、多くの騎士連中と対立して一歩も退かない。男勝りで勇猛な毛色が表す通りに図太く、悩みや弱みが一切無い豪胆なる女性――。そう思っていた彼女があまりに儚い顔をしたので13世は「ハッ」と驚いたようだ。  彼はその瞬間に彼女との挙式を回想した。挙式の後、以前にも増して眼をギラつかせていたのでやっぱり怖い人だと思っていたのだが……13世は咄嗟に「行ってしまうのか」と彼女を引き止めた。憐憫に映ったその人に、自分が求めるものを感じたのかもしれない。  引き止められたリオナも驚いた様子だったが、すぐにキリッとした騎士の表情に戻して散歩の護衛を引き受けた。  ・・・リオナは瞳がパッチリとしており、全体的には小顔である。劇場の舞台などに立てばきっと目立つであろう。  彼女は本来、無邪気な印象を与える顔立ちなので、不意に笑ったりすると5歳は幼く見える。子供や動物が好きなリオナはそういった場合に自然と笑顔になるのだが、彼女の微笑みは柔らかな印象を相手に与え、恐れられることはまず無い。  だが、騎士としてある彼女は……予断ならない身辺もあってか、常に鋭い目つきをしており、率直に申せば「おっかない」。主である13世の前ともなればより顕著であろう。  騎士の表情に戻ったリオナと憐憫めいた表情のリオナ。  「ガチャガチャ」と金属音を鳴らして庭園の散歩を共にする彼女に対して、13世は判断できずにいた。しかし確実に彼の心境は揺らいでおり、ここでリオナの本質を見極めようとしていたのかもしれない。  13世は騎士団の様子やら領内の様子やら、世間話で様子を探る。答えるリオナはとても真面目に、誠実に受け止められるよう毅然とした返答を繰り返す。  なんとも「強い」彼女に、13世は少し踏み入った質問をしようかと考えた……。  ――垣根の回廊を抜けると断崖の際に出る。風は強いが景色としては申し分ない。  その広がる大海のように、彼女にも心を開いて欲しい……いや、自分こそが心を開く時か。皇帝13世はそのようなことを思ったのだろう。  少し下がって歩いていたリオナへと、13世が振り返ろうとする。  しかし、一度は振り返った13世は「ん」と小さく唸り、ある一点を二度、見た。  それは人間。人が庭園の端。それも断崖の際に倒れていたのである――。 /第二節、「息吹く赤の芽」  遠目に「倒れている人」を確認した13世。彼は絹のような髪が潮風でサラサラ揺れていることからそれを女性だと予測した。しかし、例えそれが男性であったとしても彼は即座に駆け寄ろうとしただろう。  13世の心情を察したリオナは「お待ちを!」と言い放ち、警戒しながらも倒れている人へと駆けた。  寄ってみて、リオナは一瞬だけ戸惑った。それと言うのも、倒れている人の服装はリオナにとって見慣れないものだったからである。・・・というより、後ろに立つ13世を始めとして、メーデン領民の誰もが知らないものだろう。この地球の誰だって「なんだこの服?」と思うはずである。しぃて言うならば、SF映画が好きな人は何らかの作品名を口にするかもしれないし、日本人ならばとある戦闘民族を思い浮かべるかもしれない。その奇妙な形状は、行くところまでいった未来志向の先端ファッションなのかとも思える。  服の色合は全体的に淡いピンクで、触ってみると革でもビニールでもない。リオナにはその材質が即座に判断できなかった。しかし、クランベルの科学者が未だに解析できないものを判別しろというのは無理な話である。  そよぐ、金のしなやかな長髪。赤毛のリオナは内心、それを羨ましいと思う。 「――もしもし、どうされました?」  うつ伏せに倒れている女性の耳元で声を掛ける。しかし、奇妙な彼女は反応しない。  リオナが脈拍を確かめようと彼女の手首を掴んだとき――その人はむくりと起き上がり、“何か言葉を発した”。「何か言葉」というのは、それの意味が不明だからであり、少なくとも7ヵ国語を扱うリオナはまったくもって理解できなかった。 「○、△!?」  ・・・これは奇妙な女性の発言だが、それを表現するべき文字が存在しないのでご了承願いたい。  ともかく、彼女は手首を掴まれたことに反応し、何かを訴えながら振り払うように身を起こしたのである。攻撃的な動作ではなく、「驚いた」という反応だろう。  彼女は小さく飛び退いた――のだが。その動作はリオナに強い警戒心を与えることになる。半身を起こして膝を着いた状態から腕力のみで1mも跳ばれたら、誰だって「普通じゃない」と察するはずだ。  リオナはほとんど動揺無く、小脇に抱える2m超の大剣を構えた。  ――そもそも、奇妙な女性には行動を起こす前からいくつも不審な点が存在している。  まず、一般人が立ち入れない宮殿区には決まった顔ぶれしか無いはずである。騎士団ならば入ることもあるだろうが、予備生含めて全員の顔を記憶しているリオナは目の前にある人にまったく見覚えがない。もっとも、予備生如きが無断で宮殿に立ち入ったとしたならば、それだけでも処罰の理由である。  つまり、奇妙な女性は確定的な率で“不法侵入者”と言えるだろう。加えて城の立地と警護観点から考え、騒動なく侵入したことから相当な実力者であるとも推察できた。  何より。彼女の腰にある『2振りの剣』が、リオナの脳にある警鈴を強く鳴らしてくれているのである。 「――私はメーデン領皇帝騎士団、オールドガードの称号を賜りし者、リオナ=ウィンガル。ここが何処であるかは解るな? 潔白と無意を証明したいのならば、そのまま大人しくしていろ」  毅然として、威嚇するようにリオナは言うのだが……対する奇妙な女の反応はあまりにもリオナにとって刺激的だった。  奇妙な女は察したように――もしくは安堵して気が抜けたように。リオナから視線を逸らし、広がる海と空を眺めた。その横顔には、どこか哀愁を湛えた表情がある――――が、しかし。その行いはリオナから見て「無視」に他ならない。  それ彼女の神経を逆撫でるのに十分な刺激であった……。 ・第十一章/遥かな地にて―― /第一節、「双煌を繰る者」  産まれた鴈の雛は母親を知らない。母親の顔を記憶に刻んだ上で産まれる赤子は有り得ないということだ。よって、彼らは最初に動き、音を発した物を母と認識する。瞬間的に成立するこの記憶は長期的ではあるが、高度な知性を持つ生物ならばその複雑な社会形状に伴い改訂される場合もあるだろう。  地球上にある全ての生き物には、必ず2つの母がある。1つは己を産みだした存在であり、通常母親と言えばこれを指す。ただし、これにはタツノオトシゴ等、例外はある。この母は、兄弟姉妹以外において統一性がほぼ存在しない。  比べて2つ目には例外無く、若干卑怯なまでの一貫性がある。“それ”は当文の前提としてある「地球」そのものであり、地球上に産まれたのなら文的な意味でも地球が母であることは例外と成りえない。  しかし、前提が異なれば……産まれて感じた鼓動が地球のものではないとしたら……同じ鴈でも、母は異なる。それは“どちらの母にも言える”ことになろう。  遥かな昔、昔、昔――。どこまでも広大で、何よりも光の無い海を渡った四人の兄弟があった。四人の船は長い航海の中で散り散りとなって別々に漂着したらしい。  草木の生い茂った星に漂着した兄弟。彼が夢見たそこは魔法が日常的で、それが当たり前な世界となった。  惑星が織り成す歴史の中では幾多もの英雄が生まれ、殊更“ある姉弟”は強烈な輝きを放った。姉弟は惑星を飛び出し、活動範囲を銀河へと広げ、やがて銀河団に関係する争いへと参加した。  争いの果てに……強い輝きを持つ姉は己の力と引き換えに、大帝を名乗る惑星と相打つ。しかしその間際。星の死骸、次元の狭間へと引きずり込まれる姉の名を呼ぶ弟にはどうすることもできなかった。  弟は涙を流して離れ行く姉の姿を見ていたが……姉の胸には安堵の感情が広がっていた。  姉弟の別れは辛い。しかし、争いは終わったのだ。これで、ようやく穏やかに眠ることができる――。  姉は弟に絶対の信頼を寄せ、自らの命などとうの昔に諦めていたのだろう。  強い輝きを失った姉は疲れ果て、何よりも争いに絶望していた。常に気丈として弟を導いた彼女は、役割を終えたことでようやく、弱さを見せる権利を得たのである。銀河の騎士として星々を護ろうとした彼女は本質的に……心の奥底で“護られたい”と願う姫の性質だったのだろう。  身体が強かっただけで、他の誰もが代わりになれなかっただけで。  心はただただ、普通の女性であった―――――。 /第二節、「それはフィアラ」  潮の香り……眼を開くと、青と緑の2色が確認できた。綺麗に右と左。分けて彩られた景色からしょっぱい潮の香りと青臭い草の匂いが鼻を突く。  虚ろな意識でしばらく2色の世界を眺める。その視界をヒントに、「どうやら自分が草地の上に横たわって倒れているのだな」ということを“彼女”は察した。  “フィアラ”はまるで一年間眠り続けたように、中々鮮明とならない頭脳に違和感を覚えている。身体にも力が入らず、血流までもが気だるく全身を巡っているような気持ち。しかし、それも悪くない。疲労ではなく、安らぎからくる感覚ならば悪くはない。  休日を迎えてだらだらと床に寝転がるような……そういった気の緩んだ心地良さをフィアラは満喫していた。  実際のところ、彼女は自分でも「死んだな、コレは」と思うくらいに絶望的な状況を最後に見たので、天国にでもいる気分だったのだろう。景色があまりに素晴らしいのはきっとそれが理由だとも考えた。  ・・・フィアラにはほとんど記憶が無い。それは次元を跨いだ衝撃なのか、それとも全てを忘れて楽になりたいと脳がデリートをかけたのか。彼女の記憶は言語の感覚と断片的な過去の映像を残すのみとなっている。何やら大事を片付けた気がするのだが……ともかく今はただ、「休みたい」という思いしかなかった。  口から涎が垂れている気もするが、それすらどうでも良い。それほど、フィアラはとにかく眠りたいと思っている。というより「死んでいる」つもりの彼女は、現状を死後の世界への待機時間くらいにでも考えているのだろう。  ――と、不意に。だらけ切ったフィアラの視界が揺れた。  最初は眠気が強くなったか、と考えて瞼を閉じたのだが……どうやら手首を「ガッ」と強い力で掴まれたらしい。締め付けられた手首に危機感を覚えたフィアラは咄嗟に身を起こし、「やめて!」と叫んだ。  呆然としていた視界が緊急時に鮮明となり、目の前に“赤い頭髪の人間”を映し出している。その人から少し離れて後方にも、もう一人。 「え、人間!?」  フィアラは驚愕した。視界に存在する「鎧を着込んだ人」が自分に近い見た目の人間なので、尚驚いた。  記憶は薄くとも、刻み込まれた本能が身体に「距離をとれ」と指示を出す。片腕で地面を押したものの、思いの外跳び上がらないことに再度驚く。つまり、それは重力があることを意味しており、着地の衝撃は「ここが現実だ」ということをフィアラに理解させた。  ……そこから推察するに、ここは何処かの惑星なのだろう。しかし、フィアラはここにあるような美しい青の地平線を見たことが無い。こんなにも広大な水の海を、彼女は知らない。  戸惑うフィアラ。対して、目の前に存在する赤毛の人は金属質の塊を振りかぶるように肩へと担いだ。 「――○Γ△√○、☆⊿∑ΦΦ○△・・・」  その人は“何か言葉を発した”。「何か言葉」というのは、それの意味が不明だからであり、7つの太陽系を渡り歩いたフィアラからしても耳慣れないものだった。いくつかの言語で当てはめても、その人が発した音列はまともな意味に構成されない。  顔つきと声質から見て、どうやらそれは女性らしい。赤毛の頭髪と大きな鉄塊、全身に着込んだ無骨な鎧。鋭い眼からは闘士が放たれている。  目の前の女性が何を言っているのかは不明だが……フィアラにとってはもっと大事なことがある。 (死んだものと思っていた。記憶は断片的だが、最後に死して解放されようと望んだことは確かだった――なのに、自分は確かに生きている)  絶命をもって楽を手に入れようとしたフィアラだが、いざ、「自分が生きている」と実感してみたところ……これが中々悪くない。今ある場所が殺風景な地獄めいた場所ならそうは思わないだろう。だが、ここに広がる海と空の青色がなんて綺麗なものであるか――。  蘇る記憶の断片を青空に写して――フィアラは自分の役割が終わったことを察し、「新たな世界」が美しいことに安堵した。同時に、大切な何かを過去に忘れてしまった気がして、それが悲しくもある。 「△∑ΩГッ!!」  空を眺めるフィアラに対して、叫び声が叩きつけられる。それは赤毛の人が発したものであり、やはり何を言っているかは解らないが、とにかく「怒っている」ことはフィアラにも理解できた。  己の身の丈を超える金属の塊――それが鈍器のような武器であることは明白で、尚且つ実際には「剣」なのだろうということもフィアラは推察した。それは、自身が「二振りの剣」を所持する剣士だからこその勘であろうか。  鈍器のような大剣、その重量を利用して大きく踏み込んでくる赤毛の剣士。  対して――フィアラは反射的な反応で腰元にある剣を引き抜いた。対比して明確に細く感じられる金色の刃は、鈍器のような2m超の鉄塊をガッシリと受け止め、あまつさえそれを弾き返す。  大剣が弾かれたことで赤毛の剣士は体勢を崩し、仰け反って大きな隙を晒した。  その隙に。フィアラはもう一つある黒の刃を腰元から振り抜く。刃は赤毛の剣士を切り裂きはしない。軽く、当たらないように振り抜かれた。その結果としては……黒色の風が渦を巻いて吹き上がり、足元の草を散らして赤毛の剣士をも大きく吹き飛ばす、というものであった。  鎧を着込んだ赤毛の剣士は仰け反っていたので、確かに踏ん張りは利かなかったかもしれない。しかし、それにしても身体が浮くくらいに飛ぶとは……黒の旋風がもつ局所的な風力たるや尋常ではない。さながら小型の竜巻である。  フィアラはこれによって大きく脱力した。彼女の身体はそれを「意外だ」と感じたが、頭ではさほど違和感を得ていない。  赤毛の剣士は後方に立つ人間の近くにまで吹き飛ばされていた。草土を抉って落下した剣士に声を掛けているのは、どうやら男性らしい。長い顎鬚が特徴的だ。  飛ばされた赤毛の剣士はショックを受けていたようだが、すぐに険しい表情で大剣を引きずりながら走りだした。  柔草を巻いて駆ける剣士。彼女の闘士は凄まじく、これに対峙しては闘争を避けられないだろう。だが、フィアラはそのことを理解しながらも顔色を悪くしていた。旋風を起こしたことで疲れた――それだけではない。あれくらいのことなら、まだまだ何度でも可能である。  フィアラの脳は「戦い」に対して強い拒否反応を示していた。記憶は消去されたわけではなく、ロックされているらしい。闘士を剥き出す剣士を前にして、フィアラの脳裏に過去体験したのであろう戦いと、死と、虚無の光景が高速で展開されていく。 「やめてくれ! 私は、私は戦いたくない!!」  フィアラは声を出した。迫る剣士に、訴えた。  しかし赤毛の剣士は止まらず。身体を回して捻りを生み、加速を与えた大剣を叩きつけてくる。 「吹き飛ばしたことは謝る、だから、剣を収めてくれ!」  大剣を金の刃で跳ね返しつつ、なんとか停戦を訴える。だが、言葉が伝わらない。赤毛の剣士は更に眼光を厳しくして今度は跳び上がって縦に大剣を振り下ろした。 「もう、戦いたくないんだ! お願いだ、私に剣を振るわせないでくれ!」  大剣を黒の刃で押し返しつつ、不戦の意思を伝える。いっそ、大人しく斬られてしまおうかともフィアラは考えた。しかし、染み付いた癖なのか……身体が「戦い」に反応してしまう。  三度、剣を防がれた赤毛の剣士は半歩下がる。そして解読できない言語を叫びつつ大股に足を開いた。  鋭い殺意。赤毛の剣士から放たれる痛烈なそれは何を源としているのだろう。何を、護ろうとしているのだろう。  彼女の背後には、剣士の名を呼ぶ男の姿がある。 「もうっ―――これ以上!!」  フィアラが声を大きく張り上げ、左腕を突き出す。すると、それに呼応するかの如く、彼女の左手に握られた黄金の剣は煌々と光を放ち、それは迫る赤毛の剣士へと降り注いだ。  その光は太陽や電球が放つものとは異なる。よって、それを「光」と呼ぶにはいくらか抵抗はあるのだが……ともかく、不思議と眩しくないその光は赤毛の剣士、その精神に突風を生じさせている。 「―――!?」  全身に光を浴びた赤毛の剣士。彼女は途端に膝を着いて、大剣を杖に項垂れた。金の剣から放たれた光は剣士の身を荒らすような真似はしない。ただ、彼女の心にある感情を摩耗させたのである。 「かはっ、が――!」  咳き込み、呻く声は言語に関係ない。赤毛の剣士、その表情は鋭さを失い疲労困憊に曇っている。殺意はもとより、気力を根こそぎ洗われたような虚脱した精神に彼女は狼狽した。 「……ごめんね」  伝わらないと薄々知りつつ、フィアラは後遺症を心配して赤毛の剣士を気遣った。  精神的なショックを浴びた赤毛の剣士だが……彼女は後ろを向くと、すぐに前を向き直して立ち上がろうとする。感情が、責任感が心の燃料となって彼女の身体を突き動かしていた。  ――フィアラは強い意志に尊敬を抱くと共に、驚異も覚えた。こうなっては逃走するしかないと彼女は考えたものの、記憶の断片が逃走を「未来への責任転嫁」と伝えてくる。  それでも、これ以上は耐えられない。フィアラは剣を収めた。 (また、追われて戦って……私に平穏は――永遠に―――)  悲し気な表情のフィアラ。その彼女に、声を掛ける人がある。  それはやはり意味の解らない言葉なのだが……表情はとても優雅で大人しく、繊細。  切れ長の“真剣”な瞳を見て、フィアラは言葉を失った。  この時。その“男性”が発した言葉は実にシンプルであり、基本的で――何より相手を尊重したものである。  言葉そのものは伝わらなかった。しかし、フィアラは彼が「名乗り、名を聞いている」ということを感じ取ったらしい。  剣の衝突音と閃光によって幾名もの騎士が駆けつけてきたことで、彼らの出会いは中断されることになるが、何も確証は無いまま。フィアラはその“ルトメイア”と名乗る男を信頼して剣を手放した。つまり、「この人は私に危害を加えようとしていない」と信じた。  規律のままにフィアラは一路、城郭の監獄へと連れて行かれた。だが彼女はそこで見限って暴れたりせず、むしろ非情に理解的な態度で大人しく獄中に繋がれたとされる。  この後、フィアラとルトメイアは柵越しに毎日顔を合わせた……らしい。何せ皇帝と容疑者が親密にするなど、公式には記録されるわけも無いのであくまで噂という呈でしか語れない。されど、得体の知れない女剣士の噂は騎士団の話題となっていたことは確かである。  日々言葉を覚えていく『奇妙な女』と、足繁く通う『皇帝』の姿。そして、その奇妙な女に「次期団長と目されていた人」が“完敗”したことも。  抑えようが無い噂の流れに乗って、呆気なく流布されていった―――。 :メーデン十三代時記 巻3 END
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