この惑星の過去から――

FROM:四 聖 獣 TITLE:青年と少女の邂逅 +++++++++++++++++++++++++  BLOCK-? | 蟻に永久を望むなかれ +++++++++++++++++++++++++ ACT-1  密林の中に獣道を見出し、その果てに辿り着いた険しい断崖を登る――順路を知らねば到達できない禁断の領域に、彼らは文明を築き上げた。  断崖下層を流れる河からふんだんに汲み上げられる水によって、彼らの生活は支えられている。  天空の都市とも思える高所では自給自足が成立しており、上下水道までが備わっている生活は優雅で快適なものだ。  チチェルの民と呼ばれる彼らは周囲の集落とは一線を隔した文化水準を謳歌していた。  彼らが高度な生活を営めるのは、彼らが崇拝する「神」と呼ばれる者に依存しているからであろう。  神は三人存在し、彼らは自ら築き上げた神殿に住まわりながらもチチェルの民を導いた。  彼らはある日突然にこの地に居を構え、周囲から適当に人々を集めてこのような社会を形成したと伝わっている。  滅多なことでは人々の前に姿を見せず、人民の操作はこれまた適当に選出した人間の脳へと思念を送り、代弁させて操っている。  稀に人々の前に姿を現す際は、仮の姿を作り、決して人の成りで降り立つことはしない。これは彼らの中心的人物である【カイル・ノア】が原住民と自分達の区別を曖昧にしないよう、十分に配慮したためらしい。  天空都市の神殿。聖域として民が一切踏み入れない施設内は高度な文明の中にあっても異常。空調は整い、電化三種の神器は勢揃いしており、発電は魔力供給式で実質的な永久機関――と、周囲に比べて明らかなオーバーテクノロジーで構築されている。  チチェルの民は天から降り立った三人を“偉大な存在”と崇めているが、それはカイル・ノアが師から教わった術の一つであった。  神として君臨する三人は長い月日をチチェルの文明と共に重ねていたが――平穏な日々にカイル・ノアが疑問を提唱したことでチチェルの民はその未来を大きく変えることになる……。  黄金の壁と天井――僅かな灯でも存分に反射し、神殿のリビングは柔らかな灯りに包まれている。  銀製のテーブルを挟んで二人の男がゆったりと椅子に腰かけ、向かい合っている。 「なぁ……我々は同じ歴史を繰り返すのであろうか?」  長い髪の男が口を開いた。華奢で清楚な印象を受ける彼は、【ノア】という名である。 「繰り返すかもしれないな。少なくとも、また見ることになる」  すっぽりとフードで頭部を覆っている男が答えた。細いフレームの眼鏡からか、冷めた表情もあって理智的に見える彼は【ロギンス】という名である。 「やはりな。思うのだが、彼ら――民を始めとした蛮族は皆、今こそ無知なだけに過ぎないのだろう」  ノアは溜息を吐いてうなだれた。 「――再び旅立つ度胸があるかね?」 「……何?」 「再び旅立つ度胸の有無を尋ねている」  ロギンスの青い瞳孔がノアをじっと見た。  「フはは……」とノアは声を出して笑ってみせる。 「今更だ。第一、言い伝えを信じればそもそも我々は場違いなのだよ」 「違いないな……ふむ、ではさっそく“船”を作るよ」 「どのくらいかかるかね」 「15年は見ておこう。錬金の素材集めが大変だからな」 「15年か――うたた寝で寝過ごさないようにしないとな」  ノアの無責任な言葉に対して、厳格なロギンスは「お前も手伝え」と厳しく言い放った。  賢人二人が談笑する間に、一人の青年が駆け込んで来る。 「お二方、しばらくぶりです!」  目の下のクマを擦りながらテーブルに片手を着く青年。肩で息をする彼は【カトル】という名である。  ノアとロギンスに比べればやや若く見えるカトルは、ノアの弟子であり、かつてはロギンスの部下であった。  更なテーブルを見て気を利かせたカイルは、指をくるりと回してコーヒーの入ったカップを三つ作りだし、丁寧に師と元上司の元へと配置した。 「気が利くな、カトル」 「あはっ――ところでお二方、何の話をしていたんです?」 「うむ。近くに天へと立つことに決めた」 「・・・・・・はい?」 「おい、ノアよ。それでは死んでしまうかのようだろう」  ロギンスはニヤリと微笑んだ。 「む――間違いではあるまい」 「あ、あはっ――つまり、どういう……」 「宇宙へと旅立つ――この星から離れるということだ」 「あははっ、は―――ハ??」  カトルは目を丸くしてぽかんとだらしなく口を開いている。  いきなり「宇宙へ」などと言われて、なんと反応したらと思案を巡らせているのだろう……冗談かな、という考えも捨てきれない。 「15年程で旅立てる算段だ――こいつの算出が正答ならな」 「ぬかせ。その程度の未来、指を使わずとも予見できるわ!」  小粋なロギンスの比喩に二人は「ワハハ」と合わせて笑った。  カトルは二人が“本気”なのだと認め「あ、あははっ――はは……」と、精一杯の愛想笑いで答えていた―――。  神殿の中庭。噴水の縁に腰かけて、一人の若者が頭を抱えている。  カトルは正直、“宇宙”なんてものが怖い。彼らの言い伝えでは「広大な黒」と呼ばれるその場所は、同じく言い伝えにあって「非常に恐ろしい旅路を要する」と言われるからだ。  “航海”という単語自体がすでに恐ろしく、地球の空を長く飛んだり、他の大陸へと海を渡ることすら躊躇われたというのに……。 「いやだなぁ、どうしてこのまま平穏を過ごそうとしないのか?」  才知に溢れる天才共の言う事なら、きっと間違った選択ではないのだろう――しかし、だからこそ納得がいかない。  カトルは悶々と噴水の縁で悩んでいた。その間にもロギンスの船建築は開始されており、年を通して錬金の光が絶えることは無い。  ある日の昼下がり。  カトルは滅入った気分を解消しようと、神殿の中庭を飛び立った。  人目に同じ姿を見せないための仮姿を三人は持つのだが――カトルのそれは「怪鳥」である。鱗が覆う身体と蛇の首を持つ大きな鳥であり、これの飛ぶ影を見上げると十字や卍の形に映る。  ふらりと神殿を出でた鳥のカトルが姿を見せると、チチェルの民は大騒ぎとなり、一斉に天に手を掲げては感謝の言葉を唱えて彼を称えた。  上空をくるくると旋回して眼下の祭事を軽く盛り上げて。カトルは高地の都市から離れて行った……。  遠目に都市が霞む程度にまで飛行すると、綺麗な泉が目視できた。  鳥のカトルは「あの場所は落ち着けそうだな」と狙いを定め、ゆっくりと泉の畔に降り立った。  泉はそこまで大きなものではないが、珍しい植物が周囲に散見でき、澄んだ水面下では魚の泳ぐ様がよく見える。 「こんなに美しい自然がるというのに……お二方は他の星に何を見出すと言うのだろう? 僕には理解できないなぁ」  そんな独り言を繰り広げている内に鳥のカトルは微かな香りに気が付いた。  ふと、長い首を動かすと泉にある人の姿が目に映った。  香りでそれがチチェルの民であると判断し、  体つきを見てそれが少女であることを判別した。 (蛮族の娘――それも、我らの民か……)  チチェルの少女は沐浴の最中であったらしいが、突然に降臨したカトルの姿にすっかり驚いて、畏れの感情からか微かに震えているように見える。  せっかく静かな泉で思案にふけろうと思ったのに、余計なものがいたものだと、カトルは少女を疎んじた。 “我らが民の者よ――ここは今より我が聖域とする。  即座に咎めはしないが、我が厳格であることを十分に解するべきである――”  カトルは少女の心に直接声を響かせた。端的に言えば「荷物まとめてさっさと出てけよ」という横暴極まる台詞である。  神の声に恐れおののいた少女は、半身まで浸かっていた泉からいそいそと上がり、畔に置いた衣服を着始めた。 “……我らが民よ、立ち去るが良い――”  カトル的には「服なんて手で持って出てけよ」という事なのだろう。首をもたげて高い位置から少女を見下ろし始めた。  少女は一層怯えて、あわあわと動物皮の衣服を身に纏おうとしたのだが……。 (――あっ)  カトルは胸中で声をあげた。  何事かと言うと、少女が布を足先に引っ掛けて“ズデン!”と前のめりに倒れ込んでしまったのである。湖畔の湿った土がせっかく洗った顔や髪、体に付着し、衣服も土で汚れてしまった。  倒れた衝撃のせいか、神(カトル)のプレッシャーのせいか――彼女の瞳には涙が溜まっている。 (・・・・・・。)  カトルは戸惑っていた。  たかだか蛮族の一人である少女が転げただけのはず――自分達が自在に操る人間集団の単なる一個体が悲しむことの何に心痛めることがあろうか――所詮彼らは芋虫だと、カトルは古来より認識している。  ―――なのに……どうした、この心は? 「うぅっ、ぐすっ、あわわ――」  少女は遂に頬に涙を伝わせながらも、立ち上がって半端な着衣のまま駆け出そうとする。  その姿に、カトルは言い得ぬ感情を胸中に渦巻かせ、堪え切れずに“叫んだ”。 「 ま、待て! 行くな! 」  カトルの声に感応した泉に波紋が幾重にも広がり、周囲の木々はさわさわと揺らぐ。  声をその耳に聞いた少女は驚きのあまり身を固めて、恐る恐る振り返った――。  泉の畔に、青年が一人立っている。  先ほどまで怪鳥の姿で威嚇をしていた彼は、自分でも戸惑っているかのように、あまりに人間らしい表情で、少女を真っ直ぐに見つめている。 「あ……か、カトル様――??」  少女は簡単に現状を把握することはできていない。  ついさっきまで警告していた鳥は間違いなく神であったはずだが……人の成りをしたその青年を見て、即座にそれが神であると認識するには至らなかった。  自分の役割を忘れた突発的な行いに、カトルはしばし己を見失っていたが。ものの数秒で気を持ち直すと、威厳に満ちた表情を取り戻していた。  しかし、何故引き留めたのか、自分で自分の目的が判然としない現状……。  もう一度沐浴してから去れとでも言うのか――?  急な警告で焦らせたことを謝るつもりなのか――?  かつての地を失って数百年―――同居する二人意外とここまで真摯に向き合ったことは無い。そうならないように、ノアがカトルを導いていた……。  カトルは引き寄せられるように少女へと向かって歩き始める。  少女は逃げもせずに、ただ、カトルを待った。  少女の傍に歩み寄ったカトルは、彼女のほほに付いた土をそっと指で拭った。  少女の瞳に己の姿が映っていることが解る。彼女は今、カトルを見つめている。  神とは何か、自分は何者か、師の教えはどうしたか―――。  カトルには、この時全てが余計に思えていた。  息のかかる近さで見つめている青年―――。  少女の震えは止まり、気が付けば胸の高鳴りさえ感じている。  静かな泉の畔――神の定めた聖域の中――誰にも介入できない時間の内で―――  二つの影は互いを求めた。  千年近くを生きたカトルにとっての一日など一瞬で、それのさらなる小さな一時など、刹那の領分に過ぎないものである。  だが、カトルはこれほどまでに濃密で印象深い時を過ごしたことは無い。  カトルは別れ際に小さな小鳥を生み出し、少女の肩に乗せた。  それは都市への路を示す役割と、彼女を護る役割を得ていた―――。  遥か昔――今は神と崇められる人々が往来を行き来した時代。  その時代にあって彼は体験したことがなく――それは師であるノアも与り知らない、まったく計算外の事実であった…………。 ACT-2  広大な黒を旅するための船は着々と練成されつつあった。  ロギンスは自己の記憶容量に保存した途方もない記録から「階段」と呼ばれる記憶を検索し、これを参考にして淡々とした作業をこなしていた。  チチェルの民は材料の素材集めをするため周辺地域との交易を課され、断崖にある秘密の階段を往来し、探しても見つける事のできない獣道を往復して他の民族と交易していた。  泉でカトルとの邂逅を果たした少女も交易団の一員だったが、仲間と逸れて一人途方のままにその場をしのいでいる最中であった。  事情を悟ったカトルは神殿に帰るやいなや、即座に社会制度の変革を思い立ち、交易団参加を男性のみとすることにした。これによってチチェルでは以後、都市外への遠征に関する業務はまとめて男性の職務となる。  一日思案し、二日目に公布を終えたカトルは自室での思案に暮れた。  彼には衝撃だったからであろう。人間ではあるのだが、“同じ”ではないと高をくくっていた蛮族に――あれほどまでにも胸を高鳴らされたことが認められなかった。 「僕は正気か……?」  カトルは自分に問うた。答えは返ってこない。こんな取り留めも無い問答をいくらか繰り返しても何一つ解消されない。  カトルはふっと立ち上がって、師匠であるノアの下へと向かう。  ノアは変わらず神殿の居間でくつろいでいた。  ただし彼は立ち上がって、神殿の覗き窓から下界の民を眺めている。 「我が師、カイル・ノア――少しお時間をよろしいでしょうか」  神妙な面持ちでカトルが頭を垂れる。 「おお、カトル。君、民の生活を変えたね?」 「す、すみません……勝手をしましたか……」  別に威圧するような口調ではなかったが、相談も無しに行動したことを咎められたとカトルは感じて謝罪した。  しかし、ノアは怒っている訳ではない。 「なになに、構わないさ。思えば我々の思い描く風潮が文明の黎明期にあって正しいとも限らないからね――オスティンも大きな違いにこれを挙げていたことがあったよ」 「はい――なるほど……」  とりあえず叱られなくてほっ、と胸をなでおろす。ノアが怒ると怖いことを知っているカトルだからこその緊張である。 「そうだ、カトル。我々の船が四割程度に出来上がっているよ。見てくるかい?」  ノアが朗らかな笑みで神殿の壁の先を指差した。 「え――いやぁ、そうですか――四割……」  だが、カトルとしては微妙な報せである。何と言っても彼は宇宙が――「広大な黒色の世界」が恐ろしい。しかし、議論すれば議論をするほど師匠達の正当性が浮き彫りになるだけだと知っているので何も言えない。  ジレンマを抱えたまま、カトルは「出来上がりを楽しみにしていますよ」とだけ言い残して居間を離れた。  そして、本来聞こうとしていたことを聞き損ね、変わらず考察のシコリを抱えて中庭にてうな垂れる―――。  その日、久方ぶりに神が天空に姿を現した。  人々は十字の飛影を見上げて大急ぎに儀礼の準備を進め、祭事を執り行って彼を崇め奉った。  鳥のカトルは何気ない飛行を続けたが、見覚えのある泉を高空から視界に捉えてこれを目指して下降した。  静寂を帯びた泉はあれ以来他者の介入を許していない。何故ならそこは、カトルの領域として侵入の妨害を自動的に成し遂げているからである。  ――他者は介入しない、そのはず――だが、泉に降り立った鳥のカトルはあの少女と自分以外の匂いの痕跡を感じている。  僅かな時間だと思ったが……一体、この間に何者がこの場所へと辿り着いたというのであろうか? (――あっ!)  鳥のカトルがその長い首をもたげて周囲を見回すと、泉の畔に人の姿を確認できた。  少し背が伸びたあの日の少女は沐浴もせずに、泉に降り立った神の姿を見上げている。 (あの娘か、参ったな……今度こそは追い払うか……)  鳥のカトルは前回の蜜時を認めておらず、蛮族は自分達とは異なる、と己に言い聞かせている。  そのカトルは当たり前のように人の姿に戻ると、パシャパシャと泉の面に軽い飛沫を上げながら少女に詰め寄っていく。  無言のまま迫る神の姿に少女は気圧されているが、抱きかかえるものをぎゅっとすることで心を落ち着かせた。  少女の肩にある小鳥は退屈そうに、鱗の隙間に詰まった汚れを牙で取り除いている。 「……そうか。預けたその鳥がここまでの路を示したのか――」  自分以外の不可侵領域であるはずの泉近辺に、この少女が再び姿を現したことはカトルにとって誤算だった。  しかし、種が割れればなんということも無い。自ら授けた護衛役が変わらず責務を継続していただけなのである。  だが―――・・・ 「何故、再びここに来た。警告したはずだろう――ここは我が聖域であると」  カトルが泉を指差すと水面は震え、畔の草木は騒々しく揺らぎ始めた。  大気が振動して泉の静寂が掻き消えていく……。  威圧された少女はおどおどと神を恐れ、抱くものの様子を気にした。  カトルは続けてこう言おうとしていた「即刻、ここから立ち去れ」――と。  彼が言うより早く少女が口を開く。それは様々な覚悟を決めた言葉であった。 「カトル様に再び会いたいと願い……私はここに度々足を踏み入れました。どうか、お許しください――」 「 ――――!!!!? 」  神には――青年カトルには少女の訴えが納得できない。  再び会いたい……まるで、人が人を望み、遠く分かれてしまった誰かを求めるかのような発言。  カトル達は厳格にチチェルの民と接し、民は余さずカトル達を神として、理解できぬ道理として畏れた。  異形として現れ、人知を超えたかのような奇跡を軽く成すカトル達を同じ人とは思う訳がない。カトル達が姿を見せれば祭事を執り行い、その意思を伝え受ける僅かな神官のみに神の言葉を聞かせて神秘性を保ってきた。  「神に会う」という発想自体が異常なことであり、カトルにとっては想定すらしていない概念。「会う」ということは、不定無形で手の届かぬ未知に対してありえない発想なはずである。  カトルは呆然自失に口を開いたまま、ただ少女の姿を瞳に映している。  ――盤上の駒を動かしている気分であった。  指示を出せば動く駒たちを管理し、利用して、それらを平穏の礎たるパーツとして捉えていた。  駒を操る棋士がその駒から「会いたかった」と訴えられたのである。  一方的と思われた交流に逆走する反応を見て、カトルは半歩退くほど愕然としている。  そして、この段階に至って尚、青年は自分の認識を根底から覆す事実に気が付いていない……。  少女は何もずうずうしく神との邂逅を望んだわけではない。  彼女には理由があった。どうしても、伝えたい事実があったから―――。 「おこがましいとは思いましたが、どうしてもお伺いしたいことがあったのです……」 「――神官に伝えよ。民が我と対話するなど――おこがましいッ!!」  カトルの背から煌々と輝く炎が巻き上がり、彼の足元から蒸気が立ち昇る。  青年姿のカトルは水面から浮き上がって両腕を広げ、その眼球はプラズマを迸らせて煮えたぎった。  聖域の空は雷雲を生じ、雷は地表付近で直角に曲がり、抉るように無数の輪を描いて回転している――果たしてこれは制裁か窮鼠の牙か。それはカトルにも知れないことである。  精神的窮地に豹変したカトル。その異形の眼光に睨まれて、少女は自分の命を諦めた。  だが――――諦められない命もある。  少女は抱いている者を掲げた。  清潔な布にくるまれたそれは、「あぎゃぁ、あぎゃぁ」と泣いている。 「あれから二年の月日が流れました――カトル様、どうか、御子の顔だけでも見てさしあげてください……  カトル様に似て……とても……とても凛々しゅう、御座います――」  少女は涙を堪えることができなかった。死が怖いのではない。神の怒りが怖いのではない。ただ、我が子を父親に会わせることができた――それが幸福で、望みが叶ったからこそ、涙した。 「―――――・・・え、な――何て?」  カトルはまともに口も動かせない。高速で回転していた雷は停止し、背中の炎がすごすごと弱まっていく。状況がまったく理解できず、掲げられた赤子の鳴き声がやけに耳に響いてくる。 「あなた様の血をひくこの子を私が育てて良いのか……ずっと想い悩んで……おりました。――カトル様、ごめんなさい。周りを恐れて、神官に申し出ることすら――できず、こうして、今更……私……ごめ――なさい――」  少女は大粒の涙をぽろぽろと頬に伝わせ、唇を震わせて精一杯声を出している。  二年間。真実を誰にも伝えられず、そのあまりにも若い母の手で赤子を懸命に育ててきた。  そして常に罪の意識が彼女を責めていた。「神の子を身ごもり、育てる」という行為の計り知れないプレッシャーに気が落ち着く時も無く、それでも我が子を愛し続ける母性との板挟みに苦しみ続けてきた……。  敬意の念もおろそかになるほどに胸の内を明かす少女。  彼女はやがて膝を着いて子を抱き寄せ、声を上げて泣き始めた。  聖域の空を中途半端な雷雲の名残が曇らせている。何の輝きも無い青年が、ゆっくりと泉に降り立った……。  神は――カトルという一個人は。わぁわぁと声を出して泣く少女と、それにつられてこれもわぁわぁ泣いている赤子から目を逸らすことができない――というより、二年間――二年の間カトルはこの母子を認識すらしていなかった。  数百年、数千年は生きるカトル達にとって、二年間などちょっとした思案に暮れた程度で経過する年月――そんな感覚だが。  四十年、五十年、長くて七十程度のチチェルにとっての二年間はどれほどであろう。  当たり前として駒を指していた棋士だが、駒から「会いたい」と乞われるどころか、その駒に子を作らせていた――。何を言っているか解らないが、カトルも何が起きたのか解らない。  芋虫だと二人の師は言っていた。自分達とは異なると、それが見解だった――。 (そんな――そんな――こ、子供……? ぼ、僕の――嘘ぉ???)  今のカトルには右も左も危うい。  混乱の中、カトルは意を決する。  子供を抱いた少女を前に、神は精一杯の威厳をもって――― “ 神の子を育て続けるが良い、我は咎めない ”  ・・・少女に、“神託”を授けた。  カトルは慌ただしく怪鳥の姿へと変化すると、水面を蹴って飛び上がった。鱗が一枚、ひらひらと畔に落下する。  しばらく泣き続けていた少女だが、畔の鱗を見つけてそれを拾い上げた。  大事そうにこれを手にして、泣き疲れて眠る赤子の顔を愛のある顔で見つめる。  飛び去った神に祈りの言葉を捧げて――少女は肩に乗る小鳥の案内で、天空の都市へと戻って行った……。 ACT-3  神殿の中庭。神のみが入れる聖域でだらしなく口を開いて溜息を繰り返す青年――カトルである。  何一つ気力が沸かない状態。何をしても集中できず、気になって仕方がない……。  寝ても覚めても赤子を抱いて泣く少女の姿が網膜を支配していた。 「そんな――だって、だって僕は神でさ……あいつは民、蛮族のはずじゃないか――」  うじうじと呟いては木の実を頬張り、溜息を吐く……これを繰り返す機械のようにカトルは無変化な存在と成り果てている。 「何もかも忘れたい――・・・そうだ、宇宙行こう! そうすればこんな心配なんて、小さなことに思えるさ!」  笑みをこぼして手を打つ。しばし「あはっは……」と声を出した後、今度は沈黙してうな垂れた。 「二年間――そんな一瞬で子供が生まれて……いや、知っている。下界の調整は僕の役目さ。知っているよ! ……思えば、あれが“性欲”という奴だったのか……本能とは恐ろしいものだな――見境が無い」  好き勝手な考察で気を紛らわせているカトルだが、根本的に的を外している考察に不安を抱けないほど低俗でもない。だからこそ苦しみは倍化していた。  とてもではないが他の二人に言える実情ではない……言っても良いのかもしれないが、それすら判別つかない。  噴水の水気が背中を濡らしている。カトルの悩みはじっとりと背中に張り付いた衣類と同じく、湿っていて冷たく、忘れがたい。  こうして無意味に思案に暮れている間にも――― 「……ア!! いけないっ、どのくらい経った!?」  カトルは声を張り上げた。  急に立ち上がったカトルは「二年間」の意味を再考して青ざめた。  今、あの母子はどうなっているのか……育てろなどと言ったが、あれで大分参っていた……無事にその後を過ごせるのだろうか??  怪鳥になったり青年に戻ったりと、そわそわ落ち着かない様子で噴水を周回するカトル。  しかし、こうしている間にも何日経過しているのか……。  彼は遂に堪えられなくなった。  せめて様子だけでも……と己の思念体を創りあげ、これを下界へと飛び立たせた。  決意したわりには随分と消極的な行動だが、仕方がないだろう。  思念体は透明で誰からも察せられず、言わば偵察の役割をこなすのにもってこいなものである。  上空から眺めまわすチチェルの都市は――往来に行き交う人は絶えず、気兼ねなく路端で作物を並べる商人があり、子供たちの笑顔が至る所に溢れている。  高地に段々と並んだ田園地帯では赤や黄の芳醇な作物が実をつけ、小麦の稲がさわさわと……風に揺られて、湖面のように波立った。  石造りの家屋は頑強で、雨風も脅威ではない。致命的な災害はカトルやノアが打ち消した。  ここに生活を営む人々は、何故この高地に水が溢れるほど沸くのかも知らないだろう。  知らなくとも彼らは幸福な日々を送っている。悩み事と言えば恋愛や友人関係、それに健康もあるだろうが……不条理な一矢で負傷したり、格差に隔てられて人間関係を構築できない事態は通常生じない構造。  飢餓にあえいで痩せこける訳でも無く、他国に搾取される立場にもない。  何かあっても何もなくとも――三人の神々が問題を掻き消してくれる。  長閑なチチェルの都市で少女の香りを探っていたカトルの思念体は、すぐに彼女の住居を見つけ出した。  ――石造りの家屋が並ぶ中に、埋もれるような藁の小屋がある。少女の香りはここからで、カトルの思念はふらふらと藁の中に侵入した。  藁の小屋は狭く、薄暗いが――小鳥が一羽、電球のように仄かな灯りで照らしている。  その狭い空間で少女は幼子をあやしていた。  少女の表情は慈愛に満ちており、幼子の頬を優しく撫でる仕草は暗がりを無視して神々しくも思える。  布きれと藁で作った鳥の巣のような寝床の上で、幼子は安心しきって眠りについた。少女は一息ついて伸びをしている。子育てには幸せな発見も多いが、それに伴う疲労は免れることができない生命の責務であろう。 (少し――痩せたか?)  もともとふくよかではない少女だが、今は一層やつれて見える。  幼子は大きくなった。カトルには判別つかないことだが、この子はもうすぐ5歳となる。  幼子もそうだが、少女も成長していた。もうすぐ、“少女”と表現するには余る頃合いだろう。  ろくに物も食べずに眠る少女。小屋の外では次第に明かりが薄くなり、喧騒も落ち着き始めている。感覚の麻痺しているカトルはすぐに気が付かなかったが、一晩彼女を見守る内に、「ここまで人は頑丈だったか?」と疑問を持つことになる。  夜通し少女の寝顔を見守るカトルは久しぶりに一日の流れを刻々と体感した。 (長いものだな――そうか、感覚の感受速度が違えばこうも変わるものだったか……)  カトルは変に感心していた。  ――月が落ちて日が昇ると再び小屋の外が活気を帯びた。  合わせるように少女は起き上がってふわぁと欠伸をしている。  そこから始まる少女の一日は……いくら俗世離れしたカトルでも「大変だ……」と気を揉むほどである。  しかし、何よりもカトルが衝撃を受けたのは――母子の境遇だった。  まだ幼い子を連れて田園へと向かい、農作業をこなしながら常に子を気にする。作業は他者より能率が下がり、鬱陶しがられる様が多々見受けられた。  片親の親子もいくらかあるが、祖父母のない家庭は稀らしい。少女には子供を預ける身内がない……カトルには理由が解らないが、民は短命だと思う彼はそれほどの疑問にはしなかった。  ただ、伴侶のいない少女が今も一人身である理由は明らかで……人々もどこか少女によそよそしい。  カトルは気が付いた――少女ではなく、「我が子」である幼子を気にして理解した。  ――この限られたチチェルの都市で、まったく父親の手がかりすら無いその子供。  高地に段々と並ぶ田園の端で一人遊ぶ「我が子」。  誰からも認識されない思念体は田園の只中に立って周囲の言葉を拾っている。 「誰も名乗り出ない不明の子――」 「言えない理由はどこにあるのか不明な子――」 「遠くにあっても目立つその、頭髪、肌は何が理由か不明な子――」  チチェルの民族は皆、黒髪に浅黒い肌をしている。高地の陽射しで肌は焼けたのだろうが、頭髪は元来この色。少女も当然として、黒髪である――。  一人遊ぶ子供は時折木の枝を投げつけられ、囃し立てられる。 「 やいやい、悪魔の坊ちゃん♪ 白い肌はひ弱い証♪ 白色髪は死人の証♪ 」  ――チチェルの子供達は遠巻きにそう歌っては嘲笑い、逃げていく。  罵詈雑言を浴びても、それに慣れきってしまった「我が子」を前にして、誰の目にも映らない思念体は動けなかった。  思念体の――カトルという名の遥か離れた大地から渡ったこの青年の頭髪は――綺麗な黄金色。肌は、満月のようにうっすらと黄色い――白色。  全てを制御していると思っていた。  だが、同じ目線に立って見る民の世界は想像よりも緻密で、残酷で、繊細で、生々しくて――もう、何百年と前の記憶を蘇らせる。  まだカトルが少年だったころ――。  英雄の凱旋を友と騒ぎ、ガラスの螺旋を見上げて未来を羨望した時代。  ノアやロギンスですら絶対ではない人々の世界は成長するほど緻密に、残酷に、繊細に、生々しいものだと知った――――・・・そこは、人が人を愛するとは限らない世界だった。  神殿の自室にあるカトルの本体。その瞳から涙が流れた。  こんなことで知るとは、こんなことで理解するとは――なんとこの世は残酷なものか。 「――お二方、私は理解してしまいました。  彼らも私達と同じく、人――いいえ。私達も彼らと同じく、「人」に過ぎません……。  私は、人として愛を認めたい――人として、“愛する人”を……この手で護りたい――」 ACT-4  都市の喧騒が落ち着き、人々が眠りについた。  小さな藁小屋の中。幼子の寝息がそこにある。少女は我が子の横顔を眺めて、穏やかなその姿に幸せを感じている。 “――聞こえるか、チチェルの少女よ――”  突然、声が少女の頭に響いてきた。  聞き覚えのある声――少女はそれを忘れはしない。 「……カトル……様?」  少女は暗がりの小屋を見回した。 “今まで、苦労をかけたな”  意識に直接語られる言葉に少女はすっかり萎縮して「い、いえ、そんな……」と狼狽えている。 “これからはもう、大丈夫だ。私が変える――”  意識に響く口調はかつて聞いた威圧感のあるものとは違っている。 “私は――その子の父だ。神である以上に――僕は、父親だ……” 「――え、あ、はい……その通りで御座います、カトル様」  カトルが父ということなど、教えた少女は当然として知っている。  だが、それでもカトルは宣言したかった。 “――、き、君の名前を教えてほしい” 「・・・ええっ!!? そ、そんな恐れ多い……」 “お願いだ、こんなことってないだろう?  自分の妻の名前すら、知らないなんて……” 「・・・・・・あ・・・えっ・・・?」  少女はカトルの言葉が飲み込めず、息が止まるほどに緊張した。  同じ目線から決死の言葉を放ったカトルもまた、緊張のあまり息を飲んでいた。  それからどのくらい時間が過ぎたか。とは言え、五分を少し過ぎた程度だろう。  これがカトルには何時間にも、何日にも感じられた。  それ以上の催促もできずに――神を気取った青年は赤面して俯いていた。  ようやく【シュカ】が名乗った後、カトルはドッと冷や汗を流し、大きく息を吐いた……。 /  緊張と安堵を彷徨う青年の告白はあまりに人間的で……純粋が過ぎたと言えるだろう。  師であるノアは弟子の献身と盲目癖を見抜いていたのであろう。  それを案じたからこそ、彼は忠告の一言を残したに違いない―――。
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